こもれびの子どもたち


 ――そこは、果てのない湖だった。

 

 わたしは湖にぽつんと浮かぶ小舟に乗っている。不安定な揺れに身を任せながら、とおく終わりのない地平線を見つめていた。

 湖は底が見えるほど透けていて、緑の混ざったうつくしい水面に、底に沈む石が宝石のようにきらきら光っている。

 しばしその光景を目に焼き付け、身体の力を抜く。天を仰げば、雲ひとつないまっさらな青空が広がっている。

 降りそそぐ穏やかな陽射しが春の陽気にふさわしい温もりで身体を包みこむ。湯船に浸かったときのようなやさしい温もりがずっとわたしを抱きしめていた。

 小舟は湖の上を漂っていた。

 櫂はついておらず、ここにぽつんと浮かぶのが仕事のようだった。時折風が吹くので、それでここまで流れ着いたのかもしれない。

 ぼんやりと考え、思い立って、わたしは小舟から身を乗り出す。この翡翠色の水面に触れてみたいと、そう考えたのだろう。

 水面に人のかたちの影が差す。けれどそれは、不自然な大きさの影だ。

 そうしてわたしは気づく。

 ――これはわたしの影ではなく、わたしのの影だと。

 この小舟に乗っているのはわたしだけだというのに。

 水面から目が離せない。

 

 は、水面を通して此方を見つめていた。



  §


 

「…………あさ?」


 口からこぼれ出たのは、どうにも腑抜けた声だった。

 ベッド横に置いてある時計を確認すれば、早朝というよりまだ夜明けと呼ぶにふさわしい時間帯だ。淡い光が差し込む窓の向こう側、空はまだ青より白が強い。

 数分ほど窓の外を眺め、眠気がふたたび戻ってくることはないのだと悟ったアケビは、しぶしぶ身体を起こした。


(おのれの健康さがこんなにも恨めしくなる日が来るとは)


 視界を覆う髪をかき上げて息を吐く。この世界に来てからというもの、ずいぶんと体内時計頼りの生活を送るようになった。

 はやく起きてはやく寝る。元の世界では考えられないほど健康的な――健康的生活だ。

 個人の趣味や〈祝福ギフト〉関連で夜ふかしをする仲間も多いが、アケビはそれに当てはまらない側の人間だった。

 まあ、しょうがないと諦め混じりに思う。

 

(娯楽になりそうなのがないんだもんなあ、この国)


 この国――というより、というべきか。


 アケビたちが暮らしている豪邸は、大まかに住居スペースと研究・実験場のあるスペースで二分されている。

 一階の住居スペース最奥にマヒロの〈工房〉があり、それとはちょうど正反対の位置にバロンの書斎がある。

 だが、アケビはあそこを書斎だと到底思えなかった。


 心の底から思う――書斎ではない。あれはだと。


(あんっなバカでかいのが『書斎』なわけないじゃん!)


 はじめて彼の『書斎』に足を踏み入れたときの、あの衝撃。

 ――その部屋は、ともすれば図書館の一角をそっくりそのまま移したと言われても納得してしまうような量の書物が、天井付近までぎっしり詰め込まれていた。

 新聞やゴシップ誌から始まり、技術書や歴史書、地理書に辞典に児童文学に絵本、大衆向けの小説や戯曲に至るまで、『紙』に記されたありとあらゆる媒体がひとところに収められている。

 圧巻の一言で片付けるには、与えられた衝撃は大きすぎた。


「まあ、私の書斎など貴族の皆様方と比べれば小さいものですよ」と家主であるバロンは朗らかに笑っていたが、何度考えてみても、あの一角でアケビたちが通う高校の図書室より本の量が多いであろうということは明白だった。


(あれを小さいと思える感性がわからん……)


 未知の生物と遭遇してしまったような感覚である。圧縮する〈魔術〉が開発されたおかげで最近はスペースに余裕が出てきたのだと付け加えられても納得しかねるほどの量だ。

 言い方が悪いのを承知の上で、読書家ではない身にとって狂気を感じるような、背筋が寒くなる光景だった。

 

 そこまで考えて、(……いや、でも)アケビは思い直す。

 

(つまり、この世界にとってそれだけ本が大切なものってことだもんなあ)

 

 所蔵された書物で家格がわかるという言葉まで飛び出してくるほどだ。

 それはこの世界において〝本〟が――紙の束に纏められている情報がどれだけ大切で、どれだけ貴重なものなのかを示している。

 

〈魔法〉や〈魔術〉が存在するおとぎ話のようなこの世界には、テレビやインターネットなどの伝達媒体が存在していないらしい。

 これがアケビが健康的に暮らせている一番の要因と言えるだろう。

 

(家族といるときはいつもテレビ見てたし、外で暇なときは動画見て時間潰してたし)


 こんなに便利な力がある世界なら、そういう技術だって発展してもいいものだろうに。不思議なこともあるのだと仲間たちと顔を見合わせたのを思い出す。

 聞くかぎり、演劇などの文化も存在しているようで、需要はあるはずだ。ライブ中継ができるような〈魔導具〉のひとつでもありそうなものだが、少なくともこの国にはないようだった。

 

 そういう背景もあり、この世界では調べ物をひとつしようにも、まず膨大な本の海からなんとか見つけ出すところから始まる。



「そりゃあ、あたしの〈祝福〉が褒めちぎられるわけだ……」


 ベッドの上でストレッチをしながら、そう行くことのなかった場所へ思いを馳せる。

 子どもがいる姉は定期的に図書館へ行っていたが、アケビはさほど興味はなかった。それが本の代替となるシステムがあったからなのだと今ならよくわかる。


(天からの祝福たぁよく言ったもんですわ)


 皮肉にも、知識の集まるところに縁遠かった自分へ授けられた祝福は、この世界の知識となによりも深く繋がるためのものだった。

 

 アケビは囁くような声で鍵を開ける。


「〝――起動せよ〟」


 声に応えるように宙に波紋が描かれ、光が溢れた。



 本来、〈祝福〉を使う際に声を出す必要はない。

 意識した時点で使うことのできるに声をつけてしまうのは、まだこの『祝福チカラ』を受け入れられない自分がいるからだった。

 不思議なことに慣れてきても、サイズが合わない靴を履いているかのような違和感はいつも寄り添っている。だから声に出しカタチを得ることで、自分に「これは『普通』ではない」と言い聞かせる。

 ――そうして、最後はいつも家族の顔を思い出す。


(まあ、そう簡単に忘れたりなんかしないけどさ)


 やりたくないなら、やらなければいいだけの話だ。

 事実、仲間たちはアケビにこの行為を強制したことは一度もない。それどころか、心が沈んだときはどこからともなく現れ、大丈夫だと手を引いてくれる。


(あたしがわかりやすいのか、皆が鋭いのか……まあ両方っぽいか)

 

 仮に自分がなにもしなかったとして、きっと誰も責めたりしないだろう。そういう人たちなのだとわかる数ヶ月を過ごしてきた。

 頑張るための理由にするには、それで十分だった。


(みんなに頼りにしてもらえるのは、うれしいし)


 異世界に喚ばれて、共に奮闘してきた仲間と呼べる同級生たち。

 積み重ねたつながりは心を奮い立たせて、消極的になる自分の尻を叩く。「大丈夫だ」と笑ってくれる友人たちの顔がよぎっては、そのたび腹の奥が熱くなる。

 第一、これは自分アケビにしかできない役割でもある。

 

 彼女の日課――それは自身の〈祝福〉で、この世界の知識を深めることだった。



「しっかしまあ、いつ見てもSFっぽいビジュしてらっしゃる」


 我が能力ながら壮観だ。解き放たれたアケビの〈祝福〉は、という形で部屋の中に現れた。

 かつてバロンが出してみせたそれとの違いは『数』だろうか。

 部屋を埋め尽くさんばかりに投影されたいくつもの画面は、それぞれにありとあらゆる情報がみっちりと表示されている。それも、ご丁寧に写真付きで。

 

(変な広告とか見ないで済むのは普通に助かるしいいんだけど)

 

 インターネット上にある百科事典に似ているそれは、異世界召喚によって強制的にデジタルデトックスしている身としては懐かしさすら覚えてしまう。


 この世界において〝情報〟はなによりも貴重で価値がある。

 神から与えられた〈祝福〉に同じものはない。この世界においてこれが許されているのはアケビただひとり。

 それは〈魔法〉や〈魔術〉をもってしても、情報を常に持ち歩き、自由に閲覧する――そういう行為がこの世界ではということを意味している。

 

 渋い顔を浮かべつつ、アケビは指で画面をスクロールしていく。

 

(正直、あたしの手には余るんだけど……パパやママにもちゃんと携帯持ち歩けって言われてたし、動画見る以外ほとんど放置だったし……そもそも調べるの得意じゃないっていうかあ……)


 おびただしい量の情報を流し読みしながら、ついでに乱れたベッドを整えていく。なにかをしながらでないと、すぐに音を上げてしまう自分が簡単に想像できたからだった。

 当然のことながら元の世界とは異なる文化が大半なため、半分、ファンタジー小説を読むような気持ちで閲覧できることだけが救いだ。

 そのおかげでこの日課を継続できていると言っても過言ではない。


「辞典がガセネタを弾いてくれる仕様なのは助かるけど……それはそれとして多いな」


 バロンの話が本当なら、これに表示されるデータは〝事実〟のみを表している。

 初めて〈祝福〉を使った日――膨大な情報の海に呆然としていたアケビに魔術師は言った。


 ――『この力は世界でただひとつ……この世界に存在する、似た権能を持つありとあらゆるアーティファクトなど足元にも及ばない、最上位の特権と云って差し支えないかと』


 爛々らんらんと目を輝かせ、宙に投影された画面を見つめながら告げられた言葉。

 果たしてどこまで信用していいものなのか、アケビは少しばかり困っている。

 

 だって、と心の中でぼやく。


(あたしたち、いまだに外の世界のことなんにも知らないんだもの)

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