2
ゆめをみていた。
星も見えない、底無し沼のように深く昏い夜空が空に広がっている。べったりと黒く塗り潰されたかのような空の中心には、煌々と輝く血のように真っ赤な満月。
――それをわたしは、見つめていた。
§
きれいだったなあ。
いちばん最初に思い浮かんだのはそれだった。次いで、自分の視界が随分と薄暗くなっていることに気づく。
視界もおかしい。体が地面に横たわっている――何故。記憶が正しければ、さっきまで教室にいたはずだ。あきらかに奇妙な状況である。
ひどい倦怠感と、疼くような痛み。
たゆたう意識の中、血が巡る音を感じながら深呼吸する。
(なんだったっけ)
なにかを見た。すごくきれいだと思った。けれど、〝なに〟を見たのかもう思い出せない。
目覚めとともに抜け落ちたものに思いを馳せそうになって――だめだ、と意識を現実に戻す。こんなに不可解な目覚めは久しぶりだった。寝つきと寝起きの良さが数少ない長所だというのに、今はこんなにも起きるのが億劫だ。
マジでここどこなんだろう。
どうにか身体を起こし、息を吐く。すこし動くだけでも身体の不調をいやというほど突きつけられ、不快感が身体を支配していた。
気を紛らわせるように、アケビは視線を室内に向けた。薄暗い部屋の中、存在感を示すかのように揺れる真紅。それを目を凝らして見つめる。
(……あれ、もしかして本物の火?)
数秒の間を置いて、頭が弾き出した答えはそれだった。
壁に融接されている古めかしいランプのような照明が、この部屋の明かりを担っているようだった。このオール電化の時代に本物の火の明かり。骨董品を見てしまった気分だ。
四方を囲む日本では珍しい煉瓦の壁に、視認では高さを確認できないほど高い天井。かろうじて、先の先に天窓のような、ちいさな光がささやかに存在を主張している。ステンドグラスなのだろうか、光はカラフルで、目の奥がチカチカしてくる。
床にはふかふかの赤い絨毯が敷かれていて、背中に痛みはない。
どう表現すべきなのだろうか。これはなんというか、そう――
「……遊園地、のアトラクション?」
自分の知ってる言葉の中で、当てはまりそうなのはそれくらいしかない。
「――ふふっ、うん。そうだね。俺も最初、それを疑ったかな」
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
シャボンのような清潔感のある香りと、バニラだろうか、すこし香水のような、甘い香りが混ざり合って、彼の周りに漂っているような気がする。甘ったる過ぎず、かといってあっさりし過ぎているわけでもない。しかし一度知ったら忘れられない、独特な香りだ。
よかった、という呟きが耳に響く。
声の主は軽やかな足取りでアケビに近づいてきた。
砂糖菓子のように甘く整った美貌、それと同じくらい甘い声は、普段話すことがなくともアケビの記憶に色濃く残っている。
「目が覚めたんだね。安心したよ、本当に……」
彼は安堵したような声色で言う。気を使っているのか、ひっそりと囁くようなボリュームで。
だが、アケビはそれどころではなかった。
これまで経験したことのない感覚が身体を穿つ。
脳味噌に直接エナジードリンクでも打ち込まれたかのような衝撃に喉がつっかえる。目の奥が痛いくらいに開いている。穴という穴に針が刺さって、電流を流し込まれたかのような。
しかしそこに痛みはなく、むしろ――
(あっ。これだめなやつ)
本能が叫んでいる。正気にもどれと。
たった一言。その一言で、体に纏わりついていた倦怠感が吹き飛んだ。
眠気も寒気も気怠さもなにもかも吹き飛ばす圧倒的なオーラ。『イケメンはそのうち癌にも効くようになるからヨロシクな』とよく言っていた友人が脳裏によぎる。
彼女の言葉の意味がこれなのだとしたら、なるほど確かに万病に効きそうだ。
「ごめん。驚かせちゃったかな……起きたばかりだもんね」
まだ具合がよくないと思ったのか、眉を下げたその人をアケビは知っていた。
どうして。そう思いながら、おそるおそる問いかける。
「ヨクくん、で、あってる? ……よね?」
その言葉に、今度は少年のほうが驚いた表情を見せた。
「……俺の名前、知っていてくれたの?」
「あー。一年の頃、友だちが話してたから。隣のクラスにとんでもないイケメンがいるって」
一年生の頃の話である。
なぜかアケビの学年に集まっている、入学早々校内の話題を掻っ攫った、特徴的な複数の男子生徒――彼はそのひとりだった。
「『立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花みたいなすっごいイケメンがいる』って大興奮でね。『あの美貌を拝めただけでこの人生に意味があった……』とか、『あっちの子が同じクラスだったらヤバかった。比喩ではなく見た瞬間意識が飛んだ。歩く人間国宝だよ、背後にスゲーなんか花が見えてたもの』とかなんとか、念仏のように語られて」
「ええ……そ、そんな大げさな……」
アケビの言葉に、少年がはずかしそうに頬を染める。薄暗い部屋が一気に華やかになるような美しさだ。友人の言葉の意味が今ならわかる。
「それにしても……」
部屋の中は、既にいくつかのグループができあがっているようだった。
元から仲がいいのか、気が合ったのかはわからない。けれど、ここにアケビの友人がいないことだけは確かだった。――視線に気づいたのか、笑って手を振ってくれた少年に手を振り返しながら気づく。
「起きたの、あたしが最後っぽいね……へへ、こんな有事に爆睡なんてお恥ずかしい」
「大差ないよ。密室でできることなんて限られているし……今わかってるのは、絨毯に押し潰されたような跡があったことくらいかな。ちょうど、家具が置かれていたような形でへこんでいたみたいで」
へえ、とアケビが相槌を打つ。
「つまり、この部屋はちゃんと使われていた?」
「おそらく。なにかをするために、わざわざ移動させたってところじゃないかな。たとえば……」
「――不特定多数の子供を誘拐し、監禁するため、とか」
続いたのは、落ち着いた少女の声だった。
突然聞こえた声に目を丸くしたアケビに、「紹介するね」とヨクはそっと手でアケビの後ろを指す。
振り返ると、アケビと同じ制服姿の少女が立っていた。
「彼女はミヤコちゃん。この部屋で一番に目を覚まして、介抱をしてくれてたんだ。部屋を調べていて、アケビちゃんの目覚めには間に合わなかったんだけど……」
どうだった? と訊ねるヨクに、少女はそっと首を振る。
「残念ながら。ですが、これで全員が目を覚ましました。なのでこれから一度、記憶をすりあわせようかと思うのですが……」
言いながら、少女はアケビの目線に合わせて床に膝をつく。
「具合はいかがですか? 遅く目を覚ました方ほど、具合が芳しくない傾向があるようで……」
その言葉に驚いたのはヨクだ。
「え、そうだったの?」
「はい。アケビさんより少しはやく目を覚ました方は、しばらく喋ることができないほどで」
どうやら身体の不調は自分だけではなかったらしい。けれど、美少年パワーで不調が吹き飛んだいま、いたずらに心配させるようなことを言うのはよくないだろう。
「んー、あたしは特に問題ないかな」
その言葉に、少女はよかった、と安心したように眦を下げた。
「私のことは、呼び捨てでもなんでも好きなように呼んでください。……なにが起きるかわからないので、しばらく名前で呼び合う方向になったんです。寝ている間に勝手に決めてしまって申し訳ないのですが……」
心苦しそうに告げる彼女に、アケビはあわてて首を振る。
「いやいやいや。そんな気にしないでいいから! むしろ決めといてもらって助かったよ。心配してくれてありがとう、ミヤコ」
「どういたしまして」
名前を呼ばれたミヤコは、くすぐったそうにはにかんだ。
「――なんと、なんと麗しい絆なのでしょう。アケビ様におかれましては蒼白を通り越して土気色だったお顔色もすっかりよくなられたようで、わたくし大変安心致しました。他の皆様方よりも深く眠っておられるお姿を見たときはあわや『召喚』の影響かと肝を冷やしたものですが……皆々様がこちらの想定以上に落ち着かれていて、流石だと感心しきりにございます」
朗々とした声が、突如として部屋に響く。
ミヤコの背後から、真っ白な手がぬるりと浮かび上がった。
ヒッ、とこぼれた悲鳴は誰のものだったか。穏やかだった部屋の空気が張り詰める。
どこからともなく現れた血の気の失せたような『手』は、確認するような動きで、ミヤコの肩から頬をスルスルと撫で上げる。硬直したミヤコの額から、汗が一筋伝う。
全員の視線が、彼女の背後へと集まる。
「嗚呼――お待たせして申しわけありませんでした」
固まってしまったミヤコの耳元に囁くようにそう告げるのは、居るはずのない『十三人目』だった。
薄暗い密室の中、ひときわ暗い影から浮き出るように姿を現したのはまるで幽霊のような男。
青白い肌に若草色の髪と蜂蜜色の瞳を持ち、右目には
顔立ちは日本人のものとは明らかに異なる、彫りの深い、異様に整った顔をしていた。
名残惜しそうに、青白い男の手がミヤコから離れる。
「〈選ばれし者〉の来訪を、〈エンプティス王国〉は心からお慶び申し上げます」
男は舞台上の役者のように、優美に一礼してみせた。
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