第一章:醒めたままみるユメ

みちびかれるもの


 その日は、朝から天地がひっくり返ったような大騒ぎだった。

 滑り込むように二年生へと進級してしばらく――季節は六月に入り、移行期間の真っ只中。

 薄手のタオルケットに包まり眠っていたアケビは、底冷えするような寒さに叩き起こされた。


 ――どうしてこんなに寒いんだろ。

 腕をさすり、寝惚けた頭のまま自室を見回す。

 クーラーをつけた覚えはなかった。太陽が強さを増してきたとはいえ、まだ夜はじゅうぶん涼しいからだ。けれど、こんな冷えるような寒さは感じたことがない。

 手の届く距離にあったカーテンに手を掛け、ためらうことなく開け放つ。


「……なにこれ」


 鮮烈な〝白〟が、世界を覆い尽くしていた。

 終えたはずの季節の再来。若葉の香りがこれでもかと主張していたはずの彼女の世界は、一夜にして純白に染めあげられていた。

 部屋の外から、家族の困惑の声が聞こえてくる。同じように叫びたい気持ちをすんでのところで飲み込み、アケビは次の冬まで眠らせておく予定の服を引っ張り出した。



「マジでありえない……」


 身支度を済ませリビングに入ると、この世の終わりのような顔で姉が天を仰いでいた。

 いっそひと思いに仕留めてくれと、そういわんばかりの悲壮な顔である。アケビは無言で姉を指差し、そばにいる母親の顔を見た。

 母は困ったような笑みを浮かべながら答えた。


「今日は休園って連絡がさっき回ってきたのよ」

「ああー……」


 アケビはなるほど、とうなずいた。

 子どもの休みの有無で、親のスケジュールは根底から変わる。ましてやこんな異常気象である、誰が予想できただろうか。誰も悪くない一番残酷なパターンだ。

「おつかれ」労うアケビに、遠い目をした姉は親指を立て、力なくソファに沈みこんだ。哀れだ、という言葉は飲み込んでおく。

 それにしても、と湯気の立つマグカップを受け取り、テレビを一瞥する。


「ありえないでしょ。一晩でこっちだけ大雪って」

「本当よねえ。うちは履きつぶす予定だったからよかったけど、タイヤだって履き替えてるところがほとんどだろうし……今朝はどこもかしこも大騒ぎ」

「だろうね。もう六月やぞ」


 突然の大雪は、朝から全国区のどこ番組でも取り上げられる程に話題になっていた。

 画面は災害時のL字画面に変わっており、凍結した道路で車が衝突した話やバスの運転を見合わせるという速報がひっきりなしに流れている。まさしく天災と呼ぶにふさわしい。

 はあ、とため息をつく娘に、母親が問いかける。


「どうする? こんな天気だし休むって連絡しようか? どうせ今日は全校集会くらいしかないんでしょ」

「……それはそうなんだけど。友だち、もう学校着いてるみたいで」


 制服に着替える最中、めずらしく友人からメッセージが届いていることに気がついた。

「こんな朝早くにごめんね」という謝罪から始まったそれは、今日は学校へ来られそうかと訊ねるものだった。

 次いで、電車の中から撮ったのだろう真っ白な景色の写真と、泣き顔の動物のスタンプも連続で送られてくる。友人は通学の都合上、ピーク時よりも早く通っているのだ。


「あまりにも哀れ……いや、かわいそうで。休んでお知らせ聞き逃してもあれじゃん? 調べたら電車はいつもどおりって出てたし、行こうかなって。だから冬服引っ張り出してきたんだし」


 そう両手を広げたアケビの服装はとても初夏の装いとは思えない。

 シャツの上には厚手のカーディガン。いつもはくるぶし丈の靴下も、今日ばかりは冬に愛用している裏起毛のタイツに変えた。家を出るとき、これに制服の上着とマフラー、ブーツを追加で装備する予定だ。雪が積もったとはいえ、コートが要るほどではないのが不幸中の幸いである。

「そう? アケビが行きたいならまあいいけど……」

 と、母親は微笑んで。


「なら、お父さんに駅まで送ってもらいなさい。どうせこの雪だもの、自転車は無理だしね」

「だって、パパ」

 アケビは母親越しに父親に声を掛けた。

「乗せてってくれるってことでいいんよね?」

 ご飯を頬張りながら、父親が笑顔でグッと親指を立てる。「あなた、一気にがっついちゃだめよ」母に諭され、咀嚼しながら首肯している。仲睦まじいようで何よりである。


「ほら、アケビもちゃんと食べていきなさい。こんな寒かったらすぐお腹すくから」

「はーい」

「アケビちゃん、オトモダチいっぱいできてよかったねえ」


 背後から、くぐもった声の姉がご機嫌なトーンで告げる。

 絶望した体勢のままなのだろう、器用なものである。「おかげさまで」笑いながら答えたアケビは、毛布を引きずりながらリビングに入ってきた甥の頭を撫で、ダイニングへと向かった。


 §


 冬が嫌いだ。

 厳密に言うと、「積もった雪を早起きして雪掻きする」のが嫌いだ。

 夏はいい。日焼けに気をつけて、庭の水撒きをするだけで済む。だから暑さにも目を瞑ることができた。だというのに――


(このまま積もったらまた雪掻きか……)


 車内から惨憺たる有り様の銀世界を眺め、口からはため息がこぼれ落ちる。

 窓から見えた時点で覚悟はしていた。けれど、現実に出されるとなかなかきついものがある。せめて家の周りだけ積もっているのなら雪深い地域だからと自分を納得させることができたのに。

 だが現実はどうだろう、田植えを済ませたはずの田圃も見事に冬に逆戻りしている。

 きっと損害とか出るんだろうなあ。大変だなあ。うち農家じゃないから関係ないけど。

 げんなりした様子の娘に気づいたのか、「そうだ」と父親が明るい声で話し始めた。


「アケビ、知ってる? 今夜、スーパームーンなんだって。お月さまが赤く見えるらしいよ」


 父の言葉に、アケビの表情が一気に生ぬるい笑みへと変わる。


「……パパって、そういうロマンチックなの好きよね」

「ええ? だって素敵だろう? スーパーだよ? 赤いお月さまだよ? レッドだよ?」

「あのね、パパ。どうせこっちの地方じゃ見えんのよ、そういうの」

「うちの女の子たちはみんなリアリストなんだよなあ」

「パパがメルヘンなだけだって」

「ええ〜? そうかなあ……」


 何故か照れくさそうに父は笑って、そのまま丁寧なハンドルさばきで駅前に停車する。

 駅――そう称したものの、駅は駅でも最寄りの無人駅だ。

 この時間帯に駅を使うのはアケビくらいのもので、今日も朝から誰かが訪れた様子はない。おそらく大半が休む選択をしたのだろう。アケビも連絡が来なければそうしていた。


 ドアを開けると、一気に冷たい空気が流れ込んでくる。

 ぶるりと身体が震え、マフラーを巻き直す。ドアを閉めると、「アケビ」助手席の窓が開く。覗き込むと、運転席の父親が微笑んだ。


「気をつけていっておいで」

「ありがと。パパも気をつけてね。――いってきます」


 動き出した車を手を振って見送り、ホームに向かう階段をいつものように数段登る。

 溶ける様子のない新雪には、彼女の足跡だけが刻まれていた。



「あ! アケビ来てくれたぁー、おはよ!」

「おはよう。電車、だいじょうぶだった?」

「おはようございまーす。こっちのほうは大丈夫だった。でも道路とかはダメっぽかった」


 勢いよく抱きついてきた友人を受け止め、もうひとりの友人の問いに答える。

 もともと、今日は全校集会とホームルームだけだったので、そこまで登校してくる生徒はいないだろうと考えていた。

 だが、蓋を開けてみれば普段とほぼ変わらない――むしろ、いつもより密度が高い気がする。マフラーを外し、ひやりと冷える空気に顔をしかめれば、察した友人が「まだついてないんだって」と答えた。

 なるほど、と頷く。本来なら冷房がつきはじめるような季節である。先生たちも判断に困っているのかもしれない。それはそれとして、できれば早くついてほしいところではあるが。


「みんな真面目だねえ」

 

 思わずつぶやくと、「あんたもね」と両隣から同じ台詞が飛んでくる。

 その声があまりにもタイミングが合っていて、「来た甲斐があったよ」と、アケビは破顔した。


「はー、私トイレ行ってくるね。ふたりは?」

「それじゃあわたしも行ってくるか~。アケビは?」

「あたしはいいや」


 了解、と笑って教室を出た友人たちを見送って、一息つく。

 いつもは静かな学校なのに、今日に限っては随分とにぎやかな音がそこかしこから聞こえてくる。注意する先生たちの声もどこか浮足立っているような気がする。『普通の学校』のようだと思っているのかもしれない。

 携帯をいじる気にもなれず、頬杖をつきながら、予定の書かれたホワイトボードをぼんやりと見つめる。

 どこからか、予定よりも集会が短くなりそうだという声が聞こえてくる。


(なーんか、思ったよりとんぼ返りになりそうな気が……)


 電車、次のやつ何時だったっけ。

 毛先を指に巻きつけながら、頭の中で時刻表を思い起こす。

 都会と違って、田舎の電車は一時間に一本あれば御の字なのだ。下手をすれば一時間、二時間待ち時間ができるなんてざらである。

 早く帰れるのなら、そのまま家にいるであろう甥の面倒を見なければならない。短時間であれば傍若無人な年頃の甥の手綱を握ることくらいできるはずだ。

 ゴウ、と暖房が動いた音に、やっとか、と心の中で呟く。ひやりとした空気にぬるま湯が流れ込む感覚は冬特有で、今が六月であることを忘れてしまいそうだった。

 温まるとともに這い寄ってきた眠気に、目を伏せる。


(あの子たちが来たらすぐに起きればいい……)


 視界はいつの間にか白く染まり、記憶はそこから途絶えていた。

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