異界漂流譚 黄昏の裁定者たち
伍槻 かこみ
序章
木々の隙間から、鱗のような光がこぼれおちている。
初夏の風が吹きわたるその場所は、お気に入りの昼寝スポットだった。過ごしやすい気候に自然と口元が緩む。葉と葉がさざめく音を子守唄にしながら、少女は宙に浮かんでいた。
――ゆらり、ゆらり。
整備された庭園の一角にて異様な存在感を放つハンモック。少女を空へといざなうそれは、誰でも使えるように作られていた。仲間の中で一番背の高い男の子も余裕をもって受け止めてくれる。
くあ、と欠伸をこぼし、少女は思考を巡らせる。
(なーんか、しなきゃいけないことがあったような……)
なんだったかなあ。
虚空を見つめ考え込んだ少女は、おもむろに宙を
――瞬間、空気がぐにゃりと歪み、〝光〟が溢れ出した。
噴水のような勢いで溢れ出したそれは、ぐるぐると渦を描きながら、粘土のように姿を変えていく。
その様子を眺めながら、少女は頬に張り付いた横髪を耳に掛けた。
光の奔流は一分も経たないうちに止んだ。溢れ出した光は形を変え、彼女の目の前に、見慣れた文字の羅列となって佇んでいる。
内容をさらって、「気のせいか」そう呟いた少女はもう一度、同じように宙を突く。
光の文字はいともたやすく弾けて、空気に溶けていった。
「やっぱり便利だなぁ、〈魔導具〉」
そう呟きながら、少女は自身の小指に嵌められた指輪へ目を落とす。
この世界で〈魔導具〉と呼ばれるそれは、生活をサポートするアイテムのひとつだ。見た目こそどこにでもありそうなシンプルな銀の指輪だが、とても複雑な魔術式を用いた構造をしている、らしい。
少女にはこの世界の『常識』がまだわからない。
けれど、この世界にはそういうアイテムがたくさん存在していて、日常生活に根づいているものから、限られた者にしか扱えないようなものまで種類も豊富なのだと、それだけは知っている。
以前の自分なら、きっと歓声を上げてしまうような幻想的な光景だった。
けれど、今となってはどうしたってそれは〝普通〟に部類されてしまう。そう認識してしまうほどにこの日常に馴染んでしまった――その事実が、少女の胸の奥をチクチクと痛めつけてくる。
(まア、実際ここの生活にも慣れちゃったもんなー)
その事実は無垢な高揚感を与えるとともに、いつだって彼女を現実へと叩き落とすのだ。
視線を上へずらすと、木々の隙間から原色の青が広がっているのがわかる。
生まれてからずっと暮らしてきたところとは違う、目に痛いほどの〝青〟だ。故郷ではそうそう見られない、濃くてはっきりとした空の色。
これにはまだ当分見慣れることはないだろう――思わずホッとする自分がいる。
風に紛れ、ぽろりと言葉がこぼれ落ちる。
――もう二ヶ月。
「……ああ、ちがう。まだ二ヶ月だ……」
自分に言い聞かせるような声色で呟いた少女は、そのまま目を閉じた。
「――おーい、アケビちゃーん」
自分を呼ぶ声に、微睡んでいた意識が呼び起こされるのがわかった。
ぼやけた視界のまま横を向く。大きく手を振って、こちらに近づいてくる影が見える。
かたちを得て現れたのは、人好きする笑みを携えた、麦藁色の髪の少年だった。
「よーっす。おじゃまするぜー」
「んあ……どったの、アンディ」
「オレ、今日の仕事終わって暇してんの。よかったら一緒にマヒロんとこ行かない? てか行こう」
「マヒロくん?」
アケビは不思議そうな声で訊き返す。
「あの子、いまなんかしてた? 家具の補修と改造は終わったって昼に聞いたけど」
「朝飯ンとき、仕事が終わったら新しい服作るって言ってたんだよね。いまならたぶん布の染色かなんかしてるだろうからさあ、オーダー入ってなければオレたち頼めるはず! たぶんだけど」
「え、マジ?」
少女は不安定な体勢の中、俊敏に上半身を起こした。腹筋による力である。鍛えといてよかった。
ピュウ、と少年が囃し立てるように口笛を吹く。
「マヒロくんの新作ワンチャン……行こっかな」
「よしきた! そうこなくっちゃな! いこいこ、行こうぜ!」
手招きする彼は、アケビとおなじように此処に連れてこられたひとりだ。
差し出された手を取ってハンモックから降り、並んで歩き出す。
腕を上げて伸びをするアケビに「しかしまあ、ぐっすり寝てたなあ」笑いながら彼が言った。きらきらと陽に透ける、人工的な色彩が目に眩しい。
首を曲げると、パキ、と音が鳴る。こら、と隣で少年がたしなめた。兄のように全員に気を配るこの友人のこういうところが、アケビは好きだった。
「あたしたち、ここに来て二ヶ月経ったね」
「おー。月日が過ぎるのは早えよなあ。光陰矢のごとしってか?」
「このままあっちゅうまに一年が過ぎちゃうのかな」
「うはは! 普通にありえそうだなあそれ」
暦の季節は既に夏を迎えていた。
風通しのよい、異国情緒漂う屋敷の回廊を、ふたり慣れた様子で進んでいく。
焦げつくような日差しは実家を思い出す。だが、此処の暑さはさらっとしていて、湿度が少ない。
アケビの住んでいたところは夏は日差しが強くて蒸し暑い、夜はカエルや虫の鳴き声でうるさいところだった。
だが、ここにはそういうものが一切ない。
違いに気づくたび、脳裏に家族の姿がよぎる。
「……アンディはさ」
「んー? なあに?」
彼の目がこちらを見る。喉を伝って出ようとした言葉が、溶けていくのがわかる。
アケビは眉を下げて笑って、静かに首を振る。
「やっぱなんでもない」
「なんだよお、気になるなァ。ソウスケ兄ちゃんに言ってみなさいよ、ん?」
「や、いい。大したことじゃないし」
「そーお? ま、なんかあったら言いなさいね」
「ほんっと面倒見いいよね。さすが年長」
「伊達に休学してたわけじゃないんだわ!」
ざっくばらんとした笑い声が廊下に響く。不思議なことに、ソウスケの声は遠くまでよく通る。
「さっき確認したんだけど、みんな自由時間だよね? あー、でもミヤコとカイくんはいつものやつかな」
「おっ、よくご存知で。
「はーん、なるほどね。で、唯一ヒマしてたあたしにお鉢が回ってきたってわけ?」
「そんな皮肉るなよォ~、オレも暇だったから誘ったんだしさァ」
「んふふ、皮肉ってないよ」
唇を尖らせるソウスケに、アケビは笑い混じりに否定の言葉を投げた。
このまま夕飯まで寝潰すところ、予定を入れてもらってありがたいくらいである。
「楽しみだねえ、マヒロコレクションの新作」
「だな。オレ作業着欲しいなあ、ツナギみたいな形のしっかりした厚みのある……現場で着てたような……」
「あたしは休日に着るセットアップみたいなの作ってほしい」
「カアーッ! この子はおしゃれさんみたいなこと言いよってからに!」
「女の子はみんなおしゃれさんなんですぅ」
ソウスケはなだれ込むように肩を組み、アケビの頬を容赦なくうりうり突き回す。
ひと通りじゃれ合うと、ふたりは顔を見合わせてケタケタとおかしそうに笑った。
「でもまあ、考え過ぎもよくねえと思うよ、オレは」
「え」
歩みを止め、隣に立つソウスケを見る。
「……なんでわかったの」そう呟いた少女に、「わからいでか!」彼は歯を見せながら笑って、頭を優しく撫でた。
「たしかに、家族は心配だよ? 前にも言ったけど、うち下のきょうだいまだ小せえし。でも現状、帰るための手がかりは見つかってねえのも事実。正直さ、目の前の生活で今は手一杯じゃん?」
アケビは首を縦に振る。実際、ソウスケの指摘は正しかった。
「な? なんでもかんでも、映画みたいにうまく進んだりしないんよ。これはアケビちゃんだけじゃなくて、他のいっぱい考えてるやつら全員に言えることなんだけども」
だから、そんなに思い詰めなくってもいいと思うよ、オレは。
その言葉とともにアケビを見つめるソウスケの瞳は、アケビの好きな、夜の星を煮詰めたような穏やかさを備えていた。
この目を見ると、不思議なことに、胸のうちにくすぶる不安感が薄れていくのだ。
どう返せばいいのだろう。口ごもりながら、アケビは頭の中で言葉の箱をひっくり返す。
「――ほら、噂をすればだ」
けれど、ふさわしい答えが見つかる前に、星は消えてしまった。
「おーい、マヒロー!」
廊下の奥に向かってソウスケが手を振りながら名前を呼ぶ。
ゆら、と大きな人影が揺らめいた。
影側にいたその人は、ゆったりとした動作でこちらに手を振り返した。ふふん、とソウスケが自信ありげに言う。
「運がいいぜ、オレたち。あれたぶんまだ考え中の顔!」
「そういやあなた、マヒロくんの表情見分け検定一級保持者だったね」
「まーね、それほどでもあるかな……」
ソウスケは生真面目そうな顔で、片手にピースサインを作ってみせる。
ふは、とアケビは吹き出した。
「……そうだよね。今から病んでたら本末転倒じゃんね」
「そう。オレたちに今現在一番必要とされているのは、健康的で文化的な安定した生活基盤! ただそれのみ! 二兎を追うものは一兎をも得ずって言うだろ?」
「つまり、まわり道は悪いことじゃないってこと?」
「わかってんじゃねーの!」
ほら、行こう。
当たり前のように差し出された手を、ためらいなく握る。
ここに来るまで話したこともなかった隣のクラスの男の子と、今ではニコイチと言われるようにまでに仲良くなった。
此処での生活は思いがけずアケビに――アケビたちに、よいものを
――遡ること、およそ二ヶ月前。
田舎町で暮らしていた十二人の男女は突然〝異世界〟に召喚された。
その瞬間、たまたま同じ教室の中にいただけの、それ以外に共通点はさしてなかったはずの、まだ大人になりきれない年頃の子どもたち。
空は雲ひとつない快晴。乾燥した空気が頬を撫でていく。
〈エンプティス王国〉――それが現在、召喚されたアケビたちが暮らす国の名前である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます