異界漂流譚 黄昏の裁定者たち
伍槻かこみ
序章
――ゆらり、ゆらり。
心地よい薫風がそっと身体を包み込む。
アケビは瞼を固く閉ざしながら、宙に浮かんでいた。
「んー……今日もいい天気だなぁ」
そう、しみじみと呟く。
青々と茂る木々の間に設置したハンモックは、それぞれの記憶を頼りに「誰でも使えるように」と大きいサイズで作られている。
平均より上背がある彼女でも余裕で受け止めてくれるそこは、お気に入りの「お昼寝スポット」だった。
不安定な状態で風に身を委ねる感覚は、ちいさな頃の記憶を呼び起こす。こんな状況下だからこそ、少女はその感覚を「嬉しい」と思う。
「今日はもうやることないし~……」
独りごち、アケビは指先で宙をやさしく
(やっぱ便利だなあ、〈魔道具〉)
淡い光が宙に波のように湧き出ていく。光の波は、一分も経たないうちに、彼女の眼前には見慣れた文字の羅列が並んでいた。
仲間たちのものと同期してあるスケジュールをさらって、やはり今日の仕事はもうないと確認し、もう一度、指先で文字を突く。
光で作られていた文字はいともたやすく弾け、空気に溶けていった。
アケビは自身の小指に嵌められた銀色の指輪を見る。
〈魔道具〉と呼ばれているそれは、生活をサポートしてくれるアイテムのひとつだ。
これまでの自分であれば、きっと歓声を上げていた光景だった。
しかし、どれだけ幻想的な光景も今の彼女にとって『普通』に部類されてしまう。
その事実が、アケビの胸の奥をトゲのようなものでチクチクと刺した。
(それだけこの生活にも慣れちゃった、ってことだねえ)
かつては空想の世界でしか見たことのなかった『不思議な力』を、いまは息をするように使いこなしている。
その事実はアケビに無邪気な高揚感を与えるとともに、どうしようもない現実へと叩き落とした。
木々の隙間から空を見上げれば、原色の青空が広がっている。
生まれてからずっと暮らしてきた場所とは違う、目に痛いほどの青。これにはまだ、当分は見慣れることはないだろう。
アケビは目をつむる。
「……もうすぐ、二ヶ月くらいか」
それは半分、自分に言い聞かせるような声色だった。
「おーい、アケビちゃーん」
遠くから自分を呼ぶ声に、意識が現実へと戻る。
横を向けば、手を振りながらこちらに近づいてくる影が見えた。徐々に形を得て現れたのは、麦藁色の髪をした少年だ。
少年は軽やかに片手を挙げ、爽やかな笑みとともにアケビの許へやって来た。
「ヨッ。おじゃまするぜ」
「アンディ? どしたん?」
「オレ、今日の仕事終わって暇してるんだけどさ。よかったら一緒にマヒロんとこ行かない?」
唐突な誘いに、マヒロくん? とアケビが不思議そうな表情を浮かべる。
「あの子、今なんかしてた?」
「今日から新しい服作るって言ってたぞー。いまの時間なら……まあたぶん布の染色してるだろうから、オーダー入ってなければ頼めるはず! たぶん!」
「えー、マジ? マヒロくんの新作かー……そんなら行こっかな」
「おう! いこいこ、行こうぜ」
人好きのする笑みを浮かべながら「おいで」と手招きする彼は、アケビとおなじように此処にやって来たひとりだ。
ひょいとハンモックから降りたアケビは、少年と並んで歩き出す。
陽に透けた、人工的な麦藁色の髪が目に眩しかった。
「ねー、アンディ」
「うん?」彼の目がアケビのほうに向く。
「あたしたちがここに来て、二ヶ月経ちそうになってるよ」
「おー、月日が過ぎるのは早えよなあ。光陰矢のごとしってか?」
「このまま一年過ぎちゃうのもあっちゅうまなのかな」
「うはは、ありえそう!」
暦の季節は、すでに夏を迎えていた。
風通しのよい、異国情緒漂う邸宅の回廊を、ふたりは慣れた様子で進んでいく。
ジリジリと焦げつくような日差しは、故郷を思い出させる。
だが、ここの暑さはさらっとしていて、湿度が少ない。
故郷の夏は日差しが強く、蒸し暑く、田舎なのもあって、夜はカエルの鳴き声がやかましかったが、ここにはそういうものが一切ない。
それに気づくたび、アケビの脳裏には、家族の姿が浮かび上がる。
「アンディはさあ」
「んー?」
「…………やっぱなんでもない」
「なんだよお、気になるなあ。ソウスケ兄ちゃんに言ってみなさいよ」
「んーん、いい。大したことじゃないから」
「そ? まあ、なんかあったら言いなさいね」
「ほんと面倒見いいよね。さすが年長さん」
「伊達に一年休学してたわけじゃないんだわ!」
あはは、とざっくばらんとした笑い声が廊下に響く。
特別大きな声というわけでもないのに、不思議と彼の――ソウスケの声は、いつも遠くまでよく届く。
青空のように晴れやかな声は、アケビにとって今や欠かせないもののひとつだ。
「ミヤコとカイくんはー……いつもの?」
「おー。
「ははあん、なるほど。で、唯一ヒマしてたあたしにお鉢が回ってきたって?」
「んな皮肉るなよぉ。オレも暇だったから誘ったんだしさ」
「べつに皮肉ってないよ」
拗ねたように唇を尖らせるソウスケにアケビは笑って否定する。
事実として、優雅に昼寝に勤しもうとしていたのだ。寝潰すところに予定を入れてもらってありがたいくらいだ。
「たのしみだねえ、マヒロコレクション」
「だな。オレ作業着欲しいなあ、ツナギみたいなやつ」
「あーいいねえ。あたしはセットアップみたいなの作ってほしい」
「カアーッ! この子はおしゃれさんみたいなこと言いよってからに!」
「女の子はみんなおしゃれさんなんですぅー」
うりうりと頬を突かれ、アケビは「んひひ」とわらう。
まるで昔から知り合いのような距離の近さだが、ソウスケとアケビが話をするようになったのは此処に来てからだ。
話したこともなかった隣のクラスの男子と、こうして性別の垣根を越えて友情を育んでいる。
それは思いがけずアケビに――アケビたちに、良いものを
――遡ること、およそ二ヶ月前。
田舎町で暮らしていた十二人の男女は、突如として『異世界』に召喚された。
ちょうど召喚された瞬間に、おなじ教室の中にいただけの存在。それ以外に共通点はさしてないであろう子供たち。
雲ひとつない空の下、乾燥した空気がふたりの頬を撫でる。
召喚された少年少女たちは、いま。
〈エンプティス王国〉――そう呼ばれる国で、それなりに楽しく暮らしている。
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