第3話
僕は少し投げやりになってページをめくった。
3月4日。
『拝啓、てを差し伸べてくれた君へ』
「期待するよりも感謝するようにすると人生は大きく変わる」という名言から始まったこの日の日記は感謝を綴ったものだった。どうやらこの日彼女は初めてお偉いさんに頼み事をされたらしい。しかし内容がどんなものかは書かれていないため分からないがとにかく嫌な事だったようだ。仲間が励ましてくれたと書いてある。
期待するより感謝する……。か。後ろ姿しか知らない彼女の姿が脳裏に浮かぶ。「ちゃんと感謝しないと駄目だよ」なんて言われたように錯覚する。どうやら僕の精神はそろそろヤバいみたいだ。でも、確かに感謝の心は大切だ。母さんに報告する時に感謝の言葉も言ってみようかな。
僕は恐る恐る階段を降りた。一度決心したらすぐに行動に移さないと僕はできなくなる人間だ。善は急げ、とも、嫌なことを後回しにするなともいうからすぐ部屋から飛び出した。
幸いさっき母さんが帰宅してきた音がかすかに聞こえた。時間的に今はキッチンで夕飯の準備中だろう。
今、人生で1番母さんに対して緊張している。赤飯を作るつもりなのかキッチンからは小豆の甘い香りが漂っている。そんな小豆の匂いに包まれたキッチンで鼻歌を歌う母さんに声をかけるのはとても勇気がいる。
「母さん」
これでもかってぐらい震えた声だった。定期考査で点が悪い人がテストを両親に見せるのに両親の機嫌がいい時にすると言っていた気持ちが初めて分かった。でも僕は母さんの機嫌が良くても悪くても今じゃないと言えない気がしていた。
僕の声に反応して母さんが玉ねぎを持ったまま振り返った。
「帰ってきてたの?気付かなかった。ごめんね」
そう言ってくれる母さんに今からあの報告をしないといけないのかと思うと罪悪感に飲まれそうだ。
「……ごめん、母さん。僕、T大学無理だった。……でも受けさせてくれてありがとう」
死んでしまった彼女の教えに従ってちゃんとお礼を言った。これで彼女が喜んでくれるだろうか。
「そう、よく頑張ったね」
僕のお礼の言葉に少し驚いた様子だったが返答はいつもの穏やかな感じ。ちょっと拍子抜けた。
僕は自室に戻る。階段を登るとき母さんが鼻をすする音が聞こえたけど玉ねぎのせいだと思うことにした。
しばらく反抗期のベットの上でただボーとしていた。ずっと休まず勉強していたからなんだか不思議な気分になった。
「にーちゃん」
年の離れた妹が僕のプライバシーの配慮は一切せずにずかずかと部屋に入ってくる。
おいおい、こっちは崩れそうな精神と戦っているんだ。ほっといてくれ。
「T大受かったぁ?」
中2の受験未経験の無邪気な問いが心を突き刺す。頼むからもう黙ってくれ。
「落ちた」
「そっか。ねぇ、ご飯食べ終わったら外行かない?今夜は晴れているからオリオン座が見えるはずなんだ」
中2の妹は最近天体観測にハマっているらしいが母さんから午後9時以降は一人で外出するなと言われているので僕を連れて行きたいのだろう。受験期も何度か気分転換に、と連れて行かれた。
「分かったから、一旦出て行って」
僕は妹を部屋から追い出し慰めを求めて日記をまためくった。
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