第十五話 暗雲

 水中のように視界が揺れている。光ある場所で横になっているのは分かったがそれだけだ。ここが何処で何が起きているかは分からない。

 だが鼻をかすめる薬品の匂いには覚えがあった。しばらくぼんやりしていると、見えている背景は孔雀の診療所で、患者用の寝台で眠っていたことに気付く。するとふいにぽたりと頬に水滴が落ちて来た。それはとても暖かくて、手も同じ温かさに包まれている。けれどそれに反して不安げな声が耳に入ってきた。


「薄珂! 薄珂!」

「……りっか……?」


 ぬくもりを与えてくれたのは立珂だった。頬を濡らしたものが立珂の涙だと気付くまで数秒を要したが、それに気付くとようやく何が起きたのかを思い出し飛び起きた。


「立珂! 怪我無いか!? 大丈夫か!」

「大丈夫だよ! 薄珂がぎゅってしてくれたから!」

「よかった、よかった……!」


 見る限りで立珂は無傷で、今度こそ守れたのかと思うと薄珂の眼からも涙がこぼれた。そのまま立珂を抱きしめようと腕を動かしたが、ずきりと肩に鋭い痛みが走った。


「痛っ!」

「動かないで。怪我をしてるんですよ」

「おじさん」


 声を掛けられて立珂の後ろに慶真がいたことに初めて気が付いた。まるで自分が怪我をしたかのように苦し気な顔をしいる。


「無事でよかった。あの崖から落ちて怪我がこれだけなんて奇跡ですよ」


 薄珂は首を傾げた。記憶では崖の上が最後だ。しかし身体のあちこちに切り傷と擦り傷がある。殴打したような痣もあるが、こんな怪我をした覚えはなかった。


(崖から落ちて立珂が無傷なら俺が抱えてたはずだ。怪我がこれだけなんておかしい)


 記憶の限りで予想されうる怪我とは事態があまりにも違い薄珂は眉をひそめた。立珂を見ると、困ったように眉間へしわを寄せて小さく左右に首を振っている。ぷんっと口を尖らせている様子からは、おそらく慶真の語る内容と事実には相違があるのだろうことは察せられた。

 けれど慶真は薄珂の心境には気付かないようで、優しく微笑み頭を撫でてくれる。


「天藍さんが痛み止めを探してるので待っててください。立珂君は慶都とお昼寝しますか?」

「ううん。ここにいる。薄珂とぎゅーしてる」

「分かりました。では食事を持って来ますからちゃんと休んでるんですよ」


 慶真は心配そうにしていたが、薄珂にぺったりくっついている立珂の頭を撫でると静かに部屋を出て行った。その後足音が遠くなったのを聞き届けると薄珂は立珂に目を移した。


「立珂。何があったんだ?」

「わかんない。薄珂がぎゅってしてくれてたから何も見えなかったの」

「崖から落ちたのか?」

「ううん。公佗児のまま誰かが運んでくれた。ぐらぐら揺れてたけど浜辺に下ろしてくれた」

「里のみんなは公佗児を見たか?」

「見てない。みんなが来た時は人間になってたから。慶都が見つけてくれたんだよ」


 やはり何が起きたのかはよく分からなくて薄珂は目を細めた。


(でもあれは銃だった。きっと俺達を追って来たんだ)


 どうしたものかと考え込むと、立珂がきゅっと手を握ってくれた。ほんの少しだけ震えていて、うっすらと涙で揺れる大きな瞳はじっと薄珂を見つめている。

 薄珂が無言になると立珂は不安になるようで、慌ててにこりと笑顔を作った。


「ちょっと痛いだけだ。でも立珂がほっぺたぐりぐりしてくれたら痛いの飛んでくかも」

「ぐりぐり! するよ! ぐりぐりする!」


 はっと立珂は目を大きく開き、寝台に乗り上げるとぺとりと頬をくっつけてくれる。擦るように顔を左右に小さく動かしてくれて、ぷくぷくの柔らかい頬が触れて気持良い。


「立珂のほっぺお饅頭みたいだ」

「ふとったの。腕もお腹もぷにぷにしてるの。手のひらも」

「慶都に比べればまだまだ細い。もっと食べて運動しような」

「腸詰! お野菜!」


 立珂はしきりに頬を動かしてくれて、薄珂はその温もりを堪能した。立珂が笑ってくれるだけで恐怖も不安も吹き飛んでしまう。

 考えるのは後にしようと、立珂の喜ぶ話だけを続けてその日は過ごした。


 それから数日は怪我のせいか熱が出てしばらく寝込んだ。立珂はずっと傍にいてくれて、その状態で十日程が経ってようやくいつも通り動けるようになった。

 薄珂はぐっぱっと拳を握って開いてを繰り返すと、麻痺もすっかりなくなっている。


(よし。大丈夫だ。獣化もできる)


 薄珂はきょとんとしている立珂の頭を撫でると、抱き上げて慶都の元へと向かった。


「立珂。慶都と遊んでてくれるか? 俺ちょっと出かけてくる」

「う!? 僕も行く! 一緒に行く!」

「先生のとこに痛み止め探しに行くだけだ。家探しみたいで気が引けるから一人で行くよ」

「でもでも危ないよ。治ったばっかりなんだよ」

「大丈夫だって。慶都、立珂と一緒にいてくれよ」

「ああ! 立珂。俺と一緒に待ってよう」

「すぐに戻って来るよ。大丈夫だから」

「ん……早く帰って来てね……」


 立珂はしょんぼりと寂しそうな顔をした。いつもなら抱きしめ一緒に連れて行くところだが今日は事情が違う。

 後ろ髪は引かれたが一人で家を出て、向かった先は孔雀の診療所ではない。


「確かこの辺。あ、あった」


 やって来たのは立珂と落ちた穴だ。辺りに誰もいないことを確認すると中に入った。あの時ここはとても奇妙な場所に思えた。まじまじと穴の中を観察し、壁をぺたぺたと撫でてみる。


「滑らかすぎる。やっぱり意図的に作ったんだ」


 自然の洞穴はでこぼこしているものだ。場所によっては木の根が張っているし、岩や石が飛び出ていてもおかしくない。

 それがなかったとしても、こんなにすべすべではない。何より、こんな都合よく立って歩ける広さがあり、しかも獣は入ってこれない仕組みになってる空洞なんてありはしない。


(備蓄品は無いけど入り口は隠されてた。これは避難用じゃなくて隠し通路だ)


 誰が何のために作った物かは分からない。命を狙われている薄珂にとってこれは悪意に満ちているように感じたが、そうかどうかは分からない。


(長老様に聞いておこう。みんなには隠しておきたいって可能性もあるし――……あれ?)


 穴の中をきょろきょろと見回して、ぴたりと薄珂は足を止めた。それは確実にここにあるべき物が無くなっていたからだ。


(立珂の羽根が無い!)


 薄珂がここを見に来たのは単純な調査ではない。穴に落ちた時に落ちた立珂の羽根を拾いたかったのだ。どこで目を付けられるか分からない以上、流出しないよう集めておきたかった。

 慌てて外へ抜け、獣化したあたりも探し回るがやはり羽根は一枚も無い。

 そしてもう一つ、薄珂が拾っておきたい物も無くなっていた。


(俺の羽根もない! 間違いない。誰かが持って行ったんだ!)


 薄珂は公佗児であることを隠している。だが羽根は慶都や慶真の鷹とは色も大きさも違うし野生よりもはるかに大きい。見つかれば正体が知られる可能性が高い。

 必死に探し回ったけれどやはりどこにも見当たらなかった。誰かが薄珂と立珂を狙ってここにおびき寄せた可能性がある――薄珂はそう感じた。

 すると、ふわりと薫衣草の香りが漂ってきた。伽耶が教えてくれた花だ。


(伽耶さんは南から来たって言ってた。村生まれじゃないなら外に仲間がいても不思議じゃない。長老様の孫って本当かな。なら長老様も仲間ってことになる)


 薄珂の脳内は疑惑で染まった。一人で抱えるには大きいが、誰に相談すれば良いかも分からない。ふいに天藍の言葉が頭をよぎった。天藍は危険因子があると言っていた。どこにいても安全ではなく、無条件で信じられるものなどないと言っているようだった。


(そういや天藍は伽耶さんと仲良かった。危険因子って伽耶さんのことだったのか?)


 天藍の忠告を正しく理解していなかったことを激しく後悔した。

 いくら見回しても立珂の羽根も薄珂の羽根も見当たらない。けれど薄珂の流した血の跡だけはくっきりと残っていて、精々それを踏みにじって消すことしかできなかった。


「……薫衣草摘んで帰ろう」


 思いのほか時間がかかってしまった。きっと立珂が心配しているだろう。詫びになるかは分からないけれど、今は立珂を笑顔にできるものが欲しかった。

 一つでも多く。立珂が不安にならないように。

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