4章 決戦

29話 誘惑

 うなされる夢を見て目が覚めた。

 何の夢だったか思い出すよりも前に、ひどい頭痛に襲われる。

 カナタは、ベッドから身を起こそうと試みた。寝返りをうち、身を持ち上げようと腕に力を込めたところで、やはり起き上がるのを放棄した。

 吐き気が残っていたからだ。

 なにも、やる気が起こらない。いっそ、なにもかもを諦めて深い眠りにでもつけたら、どれだけ幸せだろう。頭の痛みがそれすらも許してはくれなかった。


 脇にあるテーブルの上に、食事が乗っている。給仕が前日に運んできたものだ。ほとんど手が付いていない。

 あとどれくらいこの痛みに耐えればよいのだろう。次は反対の角も剥ぎ取られるのだろうか。そう考えると生きた心地がなかった。恐怖でまた気分が落ち込んだ。


 カナタは臭いが気になり、着ている一張羅の服を摘んで嗅いでみた。水浴びを最後にしたのはいつだったか。弱りきった身体で一日中、ベッドの上で過ごし、たまに思い出したように食事をして、稀に廃せいのために立ち上がる。こんな日々を繰り返していると、余計に生きる気力が奪われてゆく。頭では理解していても、まるで活力が沸いて来なかった。なにもかも、どうでも良くなっていた。しばらく横になっているうちに、頭痛が少し和らいだ。起き上がれそうな気になって、もう一度、力を振り絞って上体を起こした。ベッドに腰をかける格好になり、息を吸って、深くため息を吐いた。


「おはよう。ルーク」


 枕元のルークに挨拶をする。いまが朝なのか、正確なことは分からない。枕元のルークから返事は得られなかった。布にくるまれて、ぴくりとも動かない。そんなことは承知していた。


「空が見たいわ。この部屋、窓の一つもないのよ。ひどい扱いね。悪いようにはしないって言ってたのに。嘘ばっかり」


 そう言ってルークの亡骸に手を伸ばす。いつもの手触り。鱗のごつごつした感触が安心を与えてくれる。頭が潰れてしまったことを除けば、眠っているルークと変わりなかった。二度と返事をしてくれない、眠っているだけの友達だ。


「元気になったら、ちゃんと埋めてあげるから。だからもう少し、私の愚痴を聞いてて」


 誰かと話したくて仕方がなかった。上辺だけじゃなくて、自らの本心をちゃんと受け止めてくれる誰かと。でなければ、寂しさで心が壊れてしまいそうになる。

 この旅はいったい、なんだったのだろう。なんの意味があったのだろう。そう考えると、悲しみがこみ上げてくる。ひとときの自由のために失ったものが、あまりに大きすぎた。


 入り口の向こう側で物音がしたのが分かった。なにかが落下したような、そんな音だった。カナタは思わずそちらへ視線を走らせる。給仕が転んだのか、その後、また静かになった。ドアは開きもしない。

 ルークに視線を戻したところで、思わずカナタは叫んだ。


「わっ」


 ルークが動いていた。


「ルーク」


 冷静になってよく見てみると、ルークは亡骸のままだった。

 別の蛇が枕元で蜷局を巻いて、舌をちろちろさせている。


「ルークじゃない。あなた、誰?」

「名などない。使役しているに過ぎないの」


 蛇が答えたかと思った。しかし、声はまた別のところからカナタの耳に届いた。

 カナタは再び入り口へと視線を戻した。

 その先で、入り口が開いてもいないのに、黒のローブを深く被った何者かが、部屋に侵入してきていた。


「誰? どうやって入ってきたの?」


 目の前の何者かは白い手を伸ばして、頭のローブを脱ぎ取った。女だった。歳は分からないが、大人の女性であることだけは見て取れた。白い肌と痩せこけた頬、生気を感じられない雰囲気をまとっている。綺麗な青い瞳と長いまつげ、元はとても美しい女性に思えた。額に入った傷とその傷を塞ぐように縫われている金の糸を見て、なぜか懐かしさを覚えた。記憶を辿ろうとすると、また激しい頭痛と吐き気に襲われる。


「なんて。ひどいこと」


 女性が声を震わせながら、駆け寄ってくる。自らの頭に腕を伸ばそうとして、ためらい、その手をすぐに引っ込めた。女性の眼から大粒の涙がぼろぼろと流れる。女性は包帯でくるまれたカナタの頭を見て、また小さくつぶやいた。


「私が、私が悪いんだ。許しておくれ」


 その場で膝から崩れ落ち、突っ伏した。カナタの悲しみを何倍にも膨らませ、代弁しているかのように、謎の女はおいおい泣き始めた。あまりに一方的に悲しむので、カナタはどう反応していいのか困惑した。

 しばらく経って、女性が冷静さを取り戻す。顔を持ち上げて、語り始めた。


「私のことを覚えていないだろう。仕方ないことだ」


 カナタは無言でうなずいた。

 綺麗な顔の女性が、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。やはり思い出せなかった。


「母様のお友達なの?」

「それだけ分かれば、いまは十分だよ。私の名はテディレディ。石眼族の生き残りだ」

「あなたは、もしかして魔女なの?」


 テディレディと名乗る女性は静かにうなずいた。それから話を続けた。


「私はお前を連れ戻しに来た。お前の母親に頼まれたんだ」

「母様に?」

「そうだ。あの森でお前をずっと見守っていた。それが約束なんだ」


 カナタはその言葉で少しだけ記憶を取り戻した。幼い頃から誰かにずっと見守られていたことを。母様とは違う、また別の何者かに。それはメイドたちでもなければ、叔父でもない。騎士たちでもなかった。いつの間にか忘れてしまったその懐かしい記憶が、この女性を見ていると蘇ってくるのがはっきりと分かる。


「あなたは、私の味方なの?」

「もちろんだ。誰よりもお前を気に掛けている。森を抜けたことは悪いことだ。しかし、それはもういい。お前が無事ならそれでいい。辛かっただろう。戻ろう。故郷の森へ」


 カナタの中で安堵の気持ちが芽生える。

 真っ暗だった世界に、光明が差し込むのが分かった。


「みなが帰りを待っている。外の世界は危険なんだ。分かっただろう? 痛い思いはうんざりだ。旅に価値なんてない。下らない気の迷いに過ぎない。さあ、私と一緒に、暖かい森の中へと帰ろう」


 それを聞き、カナタは首をゆっくりと縦に振った。綺麗な女性が笑顔になる。笑うと、より綺麗な顔になった。


「いい子だ。心に深い傷を負ったんだね。可哀想に。だが安心するんだ。心の傷はスカーレットが癒してくれる」

「スカーレット?」

「そうだ。この首輪の中で見ている。いまもお前を気遣っているよ」


 魔女の首輪が銀色に鈍く光る。しかしカナタには、なんらの声も聞こえなかった。


「恥ずかしがり屋なんだ。たまに乱暴だけどね」

「傷が治るの?」


 カナタが尋ねる。

 魔女テディレディがうなずいて答えた。


「そうだ。心の傷を癒すんだ。忘却の言葉で」

「忘却の言葉?」

「ああ。深い悲しみは忘れた方がいいに決まっている。屋敷に戻ったら、外であった出来事は綺麗に忘れられる。全部。それが、忘却の言葉だ」

「私はどうなるの?」

「どうもしないさ。また今まで通り、屋敷で暮らすんだ」

「外であったことは? 記憶がなくなるの?」

「そうだ。屋敷から抜け出す前の記憶に戻るんだ」


 カナタは気がかりになった。もしそれが本当なら、この魔女の言う通り、悲しみはすべて消えるかも知れない。だが忘れたくない思い出もあった。


「ルークは。この子の記憶はどうなるの?」


 カナタはルークの亡骸を手に乗せて尋ねる。記憶がどこまで消えるのか、知りたかった。

 魔女が答えた。


「消えるんだ。でも安心しな。綺麗に忘れる。出会う前に戻るだけさ」

「それは、いや」

「なぜ?」

「誰だっていやに決まっているわ。思い出が消えちゃうの」


 テディレディは少し考えて、返事をした。


「分かった。じゃあこうしよう。私は魔女だ。魔女ならみな知っている便利な言葉がある。復活の言葉だ」

「復活の言葉?」

「そうだ。その言葉を口に出せば、その使役の蛇は蘇る」


 うなずくテディレディ。


「魔女は不死なんだ。当然、別れも多い。だから、それが辛いときはみな復活の言葉で蘇らせる」


 カナタは母の記憶を思い出していた。

 死者を蘇らせる言葉があること。しかし、復活した死者は動きこそすれど、どこか生前とは違っている点も多いと聞く。肌が冷たいままで、温もりはない。ただ反応を見せるクグツのようだと、母は記していた。


「それはルークなの?」


 カナタが魔女に尋ねた。


「こちらが反応すれば返してくれる」

「でもルークには感情があるの。私の記憶もルークは覚えているの?」

「蛇に記憶はない。いいかい、記憶は知恵の実を食べた種族だけが持っている。他の使役される動物は、みな反応を見せているだけなんだ」

「違うわ。そんなことない。ルークは私を助けてくれた。いつも守ってくれていた」

「餌を与えたからさ。感情とは別のものだ」

「感情がないなら、蘇ったとは言わないわ」


 カナタは否定した。

 大切な友達の記憶を忘れてしまうなど、したくないと思った。


「忘れるか。蘇らせるか。選ぶといい。忘却と復活の言葉は心を癒してくれる。魔女ならみな知っていることだ。さあ、行こう」


 カナタは答えが出せないまま、テディの手を取った。

 考えるだけで頭が痛い。ずきずきと痛んで、考えられるだけの気力もなかった。一刻も早くここから逃げ出したい気持ちが強かった。


「分かった。ここにいるよりは全然いい。戻るわ。屋敷へ。この苦しみが消えるなら」


 もう、なんでもいいやと思った。

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