22話 医者と悪(けがれ)

 カナタたちは町でもひときわ大きな家の前にやって来た。他の家とは違う屋根の色、形をしている。赤と白と青で塗られたその屋根は、空へ向けて尖塔が細長く伸びていた。


 カナタはそれが西国の海を渡った地域に存在している建築物であることに気付いた。より高いところまで屋根を尖らせるのは、北方の雪国が発祥だと聞いたことがある。そして西国で信仰されている天使メシリスの教えの象徴だとも言われていた。雪の降らないこの地域には明らかに不似合いな屋根だった。


 アッシュが扉を二回、こんこんと軽く叩いた。


「誰だ、愚か者が!」


 中から男の怒声が響く。足音が近づいて来たかと思うと、扉が勢いよく開かれた。


「無作法者め。貴様の行いは神を冒涜した。扉を叩く時は三回だ。二回じゃない。三回だ。なぜ分からない? エン族の連中は数も数えられないのか? 鳥だってさえずった数くらいは覚えているぞ」


 怒りの形相でアッシュに顔を近づけ、罵声を浴びせる。

 男は、長い首を亀みたいに伸ばして、アッシュを強く睨みつけた。頭には髪の毛が一本も生えておらず、髭も、眉の毛すら全てがなかった。背丈は男性の中では低く、アッシュを半ば見上げる形となる。やや小太りと呼べる腹をしていた。空色の瞳と白い肌を持った西方出身のヒト族だった。エル語の発音がとても綺麗な男だ。


「なぜ三回か分かるか」


 男が繰り返す。


「一度目は己のためだ。二度目で相手への敬意を表す。そして三度目で、平和を願え。大天使メシリスの一節を思い出してな。天界への門は三度叩けば開かれる。しかし二度叩いた者は、みな堕落した。平和と愛を疎かにしたからだ。神に歓迎されなかった者はみな、地獄へ堕ちるのだ」


 男が手の甲をこちら側に向け、胸元で輪を三つ描いた。右回りに一つ、左回りに一つ、さらに右回りに一つ。永久とわの忠誠、を表す仕草だった。カナタの屋敷にいるいくらかの使用人たちも、同じ仕草をしていたのを思い出した。


「俺の神はそんな暇なことはしない」


 アッシュが否定する。

 男が促した。


「狐か狸か、獣は神に化けたがる。お前のふざけた神まがいの存在で、私の神が激怒したのだ。その行いによって、なにが起こるか説明してやろう。私の施術が、失敗に終わる。私の施術が失敗に終われば、貴様の重要な作戦とやらも、し損なう。踏み込むんじゃない!」


 男がさらに大声を上げた。

 アッシュが部屋に入ろうと右足を出したからだ。


「あと一回だ。それが出来ないなら、私はもはや、なに一つ協力が出来ない。帰ってくれ」


 男に促され、アッシュが渋々、開いた扉を残り一回、拳で叩いた。


「よかろう。入ることを許す」


 アッシュの背中を追って、カナタも部屋に招き入れられた。

 中央にテーブルが置いてある。中に三人、若い男たちがいた。二人のヒト族と、ひとりのエン族だった。


「こいつの名前はリンリクだ。医者をしている」


 アッシュが丸頭の男を顎でしゃくってそう言った。

 男がじっとこちらを見てくる。近寄ってきたかと思うと、両手をカナタの頭の後ろに回して、おもむろに角を掴んだ。


「なにっ、やめて!」

「動くな! 愚か者!」


 気迫に押され、カナタは身体が硬直した。身を仰け反ってなんとか男の無作法に耐える。左右の角をまさぐられた。男は、ふんふん、鼻を鳴らして小さくぶつぶつ言っている。

 気持ち悪かった。

 まさぐられるのは、くすぐったい。ルークが巻き付くのはあんなに心地が良いのに。母と大切な人にしか触られたことのない角を、見知らぬ男に触られて、カナタは泣き出しそうになった。


「よく分かった。名前はなんだ」


 男に尋ねられ、カナタは突き放すように言った。


「カナタ。それがなに」

「自由になりたいか? ここから逃げ出したいと思ったか?」

「当たり前でしょ」


 荒い声で答える。


「よかろう」


 丸頭の男、リンリクが振り返り、若い男らに指示を飛ばした。


「なにをしている! すぐ始めるぞ。水だ。水を汲んでこい」


 ふたりの男がバケツを掴んで、外へ駆けて行こうとする。


「いいか、湖で汲むなよ。すぐに分かるからな!」


 リンリクがバケツを持った男たちへ向け、さらに叫ぶ。


「湧き水だ。楽をしようとするんじゃない。その行為一つで、我々は祝福を受けることも、呪詛じゅそに巻かれることもある。神はいつでも見ている。分かったら、さっさと行け!」


 男たちが部屋を取び出してゆく。

 残った一人の若者に対して、別の命令を下した。


「おまえは必要な道具の、数をかぞえろ。足りないものは裏小屋から持ってこい。木綿わた亜麻あまはおまえが考えている三倍必要だ。すぐに使えるようにしておけ」


 男がうなずいて、奥の扉に引っ込んだ。


「カナタと言ったか。そこに座れ」


 椅子を指さして、リンリクが言った。


「丸いテーブルの上には木皿が中央に一つ置かれている。その上に、紫色の花が、茎を水に浸す形で並べられていた。


 アッシュが先に腰掛けた。


「おい、おまえはなぜいる?」


 リンリクが尋ねた。


「獣の臭いがするな。触ったな?」

「ここへ来る途中、うさぎを捕まえた」

「どこまで私を苛立たせるんだお前は! いいか、貴様はいますぐ帰れ。獣臭い臭いをまき散らすなら、ここに長居は許されない」

「なにをそこまで怒ってる。俺にはさっぱりだ」

「見えないか? お前の手に付着したけがれが!」

「見えない。悪いキノコでも食べたんじゃないのか」


 アッシュが手のひらをこちらに向けて反論する。

 アッシュの太い指は、カナタや西のヒト族であるリンリクと比べて暗い色をしていたが、特段、けがれなどというものは付着していなかった。どこかで指を切ったのか、血が滲んでいる。

 奥の部屋に引っ込んだ男が戻ってきて、テーブルの上にコップを置いた。青銅の小さめの器だった。

 アッシュがそれに手を伸ばそうとする。


「やめろ!」


 リンリクが叫び、制止した。


「それはお前をもてなすためじゃない」


 リンリクが青銅の器を両手で優しく持ち上げる。

 そして、こちらに歩み寄ってきて、静かな声で言った。


「さあこれを。飲み干すんだ」

「これは?」


 カナタがいぶかしんで、尋ねる。


「薬草をすり潰したものだ。胆力をつけ、心を落ち着ける」


 器を受け取り、中をのぞき込む。黄色く濁ったエールのようなものが入っていた。


「飲まなきゃだめ?」


 リンリクが無言でうなずく。

 器から甘い匂いがした。カナタはそれを少し口に含んだ。屋敷で熱にうなされたとき飲まされた薬の味に似ていた。


「全部、飲まないと効果がない」


 カナタはうなずくと、それを一気に飲み干した。特段、変わったことは起きない。

 カナタは椅子に腰掛けて、しばらく待たされた。


 少し経つと、身体の中が暖かくなってくるのが分かった。体温が上昇し、頭の中がぼんやりとしてくる。眠気にも近かった。

 男たちが戻ってきて、汲んできた水に火を通していた。そして奥にある別の部屋へと、やはり引っ込んだ。


 カナタはとても心地よくなってきた。足元をうろついているリスのミリアや、モモンガのダニエルに気付いた。屋敷でよく聞く召使いの声は、ロレッタさんだった。

 男の人が、耳元で囁いた。


「先生」


 ハウエルが隣で笑みを浮かべていた。

 窓から差す光が机の上に落ちて、アルカナハトの歴史の書かれた書物を照らし出す。それは勉強の風景だった。自分のいた屋敷の光景が、天井の模様一つ一つまで微細に思い起こされる。夢よりも強く、目の前に実在していた。


 故郷だ。帰ってきた。


 カナタは安堵感に包まれた。よかった。なにを想い悩んでいたのだろう。すぐに忘れた。いつか幼少の頃に味わった高揚感で胸の中が満たされてゆく。この世界がずっと続けばいいと、本気で信じていた、あの頃に。


「さあ、準備ができた。こちらへ来なさい」


 カナタの思い出の中に、知らない丸頭の男が入り込んできた。

 カナタはリンリクに手を引かれ、奥の扉へと足を進める。


「まだ居たのか? ここは宿じゃないぞ。お前はもう帰れ」


 リンリクが声をやや荒げた。


「言われなくても、こっちは忙しいんだ」


 アッシュの声だった。

 そう言った声も、全て鏡の中からのぞき見ているような、遠い世界での出来事のように映った。屋敷の中にいる自分が本当で、丸頭の男とエン族の頭領の話は、ずっと向こう側の、別の世界で繰り広げられている。

 引き戻さないで欲しかった。

 アッシュが丸頭の男に顔を近づけて、尋ねた。


「大丈夫なのか? おまえを信じるぞ」

「貴様がこれ以上、私の神を怒らせなければ、万事上手く行く。このために私は遠い国からここへ呼ばれた」

「おまえは何度、鬼の施術をした?」

「疑うのか? この私を。西方の魔女テトラの元で二十年、教えを乞うた私の腕を信じられないか? では、誰がやる? この偉業を。誰が成す」

「何度なのかと、尋ねているんだ」

「四度だ。今回で五度目だ」

「結果は?」

「私の偉大なる師、テトラですら上手く行かなかったことはある。五度やれば、四度はしくじる。だが、五度やれば、一度は上手くいく」

「お前の四度の結果は」

「一度は愚かな行いによって、呪詛じゅそに巻かれた。恐れたからだ。三度は、上手くいった。ただ予後が良くなかった。患部は腐敗し、高熱を引き起こして命を落とした。水を軽視したからだ」


 アッシュが懐からナイフを取り出して、リンリクの頭にそれを乗せた。


「いいか。これが最後のチャンスだと思え。選択肢は一つだ。娘を生かすか、お前も死ぬか」

「ふん。死を恐れる者に神は祝福を与えん。明朝、ここへ来い」


 リンリクの言葉で、アッシュは部屋を出て行った。窓向こうで背中が遠ざかってゆくのが見えた。


 そこからの記憶は、さらに曖昧となった。

 服を脱がされて、男たちが別の服を丁寧に着せ替えていた。奥の扉へと進むと、寝台があって、そこへうつ伏せで寝ころぶように指示された。部屋の壁には、はさみや棒、そして見たこともない銀色の器具が備え付けられていた。赤く燃える石窯の中に、一人の男が鉄を突っ込む。

 カナタは頭から生ぬるい水をかけられた。何度も何度も浴びせられて、溺れそうになる。両手両足を縄で寝台に括り付けられ、身動きが取れない。

 男らは、リンリクの指示に黙々と従った。


「よく清めろ。目を疑え。我々の目は所詮、節穴に過ぎない。信じるな。神を信じろ。心の声に耳を傾けろ」


 リンリクが繰り返した。


「いいかけがれはどこにでも存在している。心の僅かな隙間に入り込み悪さをする。手を洗え。一つの所作が終われば、必ず実行しろ。気の緩みは命取りになる。怠惰は大罪だと知れ。けがれは確かにここにある。川で汲んできた水ですら毒されている」

「やめて……」


 カナタがつぶやいた。


「気分はどうだ?」

「やめて。帰して」

「自由になりたいか?」


 カナタはうなずいた。

 リンリクが器を口元に差し出す。先ほどと同じ薬だった。

 カナタはそれをすすった。

 男の一人が、蓋をするように口の中に木綿わたを詰め込んでくる。乱暴な三本の指が口の中で動くのが分かった。

 苦しみは紛れ、また屋敷の中に意識が戻ってくる。天蓋のついたベッドの側で、母がいた。母は自らを寝かしつけようと絵本を読んでくれる。あの頃がなにより幸せだった。頬に当てられた手に、母の温もりを感じた。

 とたんに頭に痛みが走った。

 母の温もりが遠ざかって、寝台に寝ている自らの肉体に引き戻される。


「自由を手にするには、痛みを伴う。夢に浸れ!」


 リンリクの声がまた届いた。


「自らの役割から解放されるその日を思い描け」


 痛みはますます強くなってくる。それは角の付け根から生じているのだと気付いた。ぎりぎりと何かを削り取るような音が、頭の中にじかに響く。

 カナタは木綿わたを詰め込まれた口で声にならない声を上げた。

 両手と両足を男たちが押さえ込む。味わったことのない激痛と、夢の中の快楽とがせめぎ合う。

 頭が壊れそうになった。

 頭部から耳へ、頬へと、流れ出るのは透明な水だけではない。

 真っ赤な血だ。


「いいかお前たち。この苦しみは、我々には理解できない。ある魔女は角を引き剥がされる痛みをこう例えた。我が子を腹から産み落とすより、はるかに痛い。生みの苦しみは数を重ねるごとに慣れるが、剥角はっかくの痛みは生涯一度限りの悪夢だったと」


 リンリクの言葉が、遠くに感じられた。

 カナタは、いままで見てきた幸せだった甘い日々が、とてつもない早さで駆け抜けてゆくのを目の当たりにしていた。それらが降っては消えて、降っては消えてを繰り返す。

 これが自らの犯した罪の償いであるのなら、余りにひどい仕打ちだと思った。それら全てを償うなど到底できそうもない。

 自由が欲しかった。

 しかしこの痛みで狂ってしまうくらいなら、おとなしく屋敷へと帰って、甘い日常に浸っていた方がいいとさえ思えた。


 大切な角が、床に落ちる音を耳にして、カナタの意識は途絶えた――。

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