23話 天空の民と、創生祖語

 楽園は確かにあった。

 いまから何億年も昔、起源すらも分からないいにしえの時代、地上には空と海と、大地があった。空に浮かぶ島には、我々、天空の民アッ=サラの一族がいた。地上には、巨大な魔人族が暮らしていた。魔人族は、雲よりも高い背丈で大地を踏み鳴らし、ときに山をまたぎ、海で水浴びをして、我々、天空の民アッ=サラの一族と交流を持ちながら、なに不自由なく暮らしていた。

 天空の民アッ=サラの一族と巨大な魔人族との間で交わされた言葉は一つだった。他の言語は必要なかった。その言葉は、意志を伝える以上に、あらゆるものを創造する力を宿していた。山を創り、海を創り、空を創ったのも、おそらく我々だと信じていた。


 楽園が唐突に終わりを迎えたのは、私の記憶する限り、五十万年も昔のことだ。ある一対の天空の民アッ=サラの一族と魔人族が神を創造したことで世界の形が変わった。神はまず怒り、その逆鱗に触れた我々、天空の民アッ=サラの一族と巨大な魔人族は、七日間にも及ぶ無空無風の罰に晒された。多くの友が天界アゾォエルへと帰還を余儀なくされ、巨大な魔人族はその身をバラバラに砕かれて、地上で深い眠りについた。眠りはとても退屈で、無限とも思える最大の苦痛だった。死を奪われた我々、天空の民アッ=サラの一族と巨大な魔人族は、やがて訪れる新しい地上の息吹を、静かに見守り続けた。


 旧ア歴約一万年、知恵の実を食べた民族が町を作った。エルフとヒトと呼ばれる一族だった。以来、彼らの手によって世界は創造されてゆく。エルフはどのような一族とも関わろうとしなかったが、ヒト族は他の多くの一族に知恵の実を分け与えた。彼らは獣族と呼ばれている。ラット族、犬族わんぞく猫族ケットシー狼族ウェアウルフ、竜族、石眼せきがん族、そして鬼の一族。無数の一族が知恵の実の恩恵を受けた。それにより生まれたものもあれば、失われたものも多くある。

 我々、天空の民アッ=サラの一族は、ヒトを初めとした新しい種族と関わることはほとんどしない。それは巨大な魔人族も同じだ。生きる世界が同じでも、見ているものが違った。いつしか地上の民は私たちを信仰するようになった。種族ごとの言葉が生まれ、我々の言葉創生祖語は誰も口にしなくなった。口にすれば、また世界の形が変わる可能性を秘めている。その恐ろしさを、私たちは身を持って知っている。やがて我々の言葉創生祖語の多くは、長い年月の中で、自然と失われてしまった。


 地上でいま我々の言葉を扱うのは、巨大な魔人族と交流を持ったごく限られた民だけであろう。それらの民は種族を問わず魔女と呼ばれ、あらゆる群れから弾き出された。ここにいるテディレディもまた、同じ痛みを抱えた魔女に他ならない。


「雨がキツくなってキやがった。クソめ!」


 黒の衣を羽織った魔女が、空を見て毒づく。

 雨が降りしきる森を、巨大な獣にまたがって駆けていた。


「あの雨雲を消し飛ばせ。お前の力で」

「焦る気持ちは分かります。ですが、自然に逆らってもまた別の歪みが生まれるだけ。雨が止むまで、このまま進みましょう」


 私は、諭すように答えた。

 魔女の手に握られている箒が、みしみしときしむ音が聞こえる。


「急いだほういい。あの守りがなければ、娘の居場所が筒抜けだ。西方から魔女の一団がくるぞ」

「我々の方が近い場所にいます。どの道、雨が降っていては箒に乗れない。あなたも、他の魔女もそれは同じです」

「当たり前のことをほざくな! 戦争が始まると言ったのはお前だスカーレット」

「ええ。ですが、鬼の頭上に石は落ちない。それは確かです」


 黒衣の魔女の首に巻き付いた天界の輪、そこからスカーレットはこの魔女と会話をしていた。


 巨大な獣が森の木をなぎ倒し、小さな獣を蹴散らしながら、前進を続ける。九つの尻尾を持つ獣の名はサリサリと言った。サリサリは精霊であり、天空の民アッ=サラの一族の従順な使いだ。


 スカーレットと魔女テディレディはある娘を追って、隣国にまで来ていた。この三方、山に囲まれた地域では、年間を通してほとんど雨が降らない。しかし雨雲が山を越えたときに急な雨が降りしきる。短期的な雨期は長いときで二十日間も降り続く。

 民にとっては恵みの雨であった。


あるじよ」


 九尾の獣、サリサリがぴたりと足を止めた。


「誰かがいる。気配がします」

「おい、誰が止まれと言った。商人に構っている暇はないぞ」


 テディレディが獣を叱咤する。

 サリサリが「ふん」と鼻を鳴らして、煽るように答えた。


「違う。我と近しい存在だ。獣の臭いがする」


 サリサリがまもなく毛を逆立てた。


「狼だ」


 一言つぶやくと、サリサリは進行方向をずらして駆け抜けた。

 岩肌のむき出しになっている場所へと飛び出すと、馬に乗っている男が崖の下を走っていた。サリサリは躊躇することなく、崖を駆け下りた。

 男の姿が近づくに連れ、背中に乗っていたテディレディが身を乗り出す。視界の悪い中、二つの目を凝らして対象に睨みを利かせる。


「どうしましたか?」


 スカーレットが尋ねた。


「あの旅人、剣を持っているぞ」

「護身用でしょう」

「いいや。見間違うはずがない。あの剣は、なぜあそこにある!」


 怒声のあと、テディレディが、サリサリの背から飛び立った。


 馬に乗った男がこちらに気づき、とっさに背中の剣を抜いた。その剣にテディレディが掴みかかり、旅人の男とテディレディの身体は後方へと投げ出され、落馬し、両者の身体は何度も転がって動きを止めた。

 馬乗りになったテディレディが、剣を掴んだまま男に向かって吼える。


「貴様、どこでこれを手に入れた!」

「おまえは?」


 その姿を見て、テディレディの気持ちがさらに高ぶった。

 緑葉色の瞳に、灰色の耳、狼族の子供だった。

 テディレディの怒りが、スカーレットにも伝播する。


「テディ落ち着きなさい。事情を聞きなさい」

「黙れ! 私が嫌いなものは狼一族と、リンゴだ。視界に入った以上、許しはしない」


 テディレディの額には、常に隠れたもう一つの眼が存在する。その第三の眼は、金糸きんしで堅く縫合されているが、感情がひどく悪い方向へと触れると、その眼は無理にでも開眼を試みる。

 金の糸が端から引きちぎれて行き、第三の蛇眼が開かれそうになった。


石眼せきがん族?」


 狼族の男がつぶやいた。


「テディ! 止めなさい!」


 スカーレットの言葉が通じない。

 テディレディは怒りに飲まれ、目の前の男を石に変えるつもりだった。

 狼族の男が身を捻り、テディレディの顔面に足の裏を叩きつけた。テディレディの剣を握る手は、それでも離れることはなく、両手から赤い血が滴り落ちる。この女の執念は海よりも深い。


 テディレディの首に巻かれた天界の輪が光り、テディレディの身を、狼族の男から強引に引き離した。


「うっ」


 テディレディがうめいた。

 近くにあった木の枝に天界の輪が吊され、テディレディの身は宙でぶらぶらと揺れ動く。テディレディは息が出来ずにしばらく首輪を引きちぎろうとしてもがき苦しみ、そして両手をだらんと垂らした。第三の蛇眼は開眼を免れた。そして他の二つの眼は、憎しみの色を残した状態で開かれたまま息絶えた。


 テディレディの身体が木枝から落ちる。雨の中、その身はずしゃりと泥水の中に崩れ落ちた。


 狼族の男が、状況を理解せぬまま立ち上がる。剣を構えてこちらの様子を伺っている。


 崩れ落ちたテディレディの身体が一度、激しく痙攣を見せた。その後、大きくむせて、テディレディは息を吹き返した。

 蘇生した女は「ううっ」と低く呻くと、泥水の中に膝を突いて苦しみ出す。

 丸めたテディレディの背中から、二つのこぶが隆起して、うごめき始めた。そして勢いよく背中の黒衣を突き破り、巨大な羽が飛び出した。羽の一つ一つが、血に赤く染まり、柔らかさの欠片も感じさせない。ごつごつとした蛇の皮で埋め尽くされていた。蛇たちは、外へ飛び出した勢いで、地面へとぼろぼろとこぼれ落ちる。雨を嫌って、テディレディの足元から一気に四散する。その様子はカマキリの卵が孵化し赤子が散ってゆくのに似ていた。

 無数にいた蛇が羽からこぼれ落ち、雨で洗い流され、ようやく羽は白みを帯びる。テディレディは大人しくなり、立ち上がった。


 背中の羽を何度かばたつかせ、残った血と蛇を振り落とす。首に巻かれていた天界の輪は頭上で正常に光を放っていた。


 久しぶりに大地を踏みしめた。足の裏に確かな土の感触がある。


「天使様?」


 目の前の狼の少年が、そうつぶやいた。


「地上の民はそう呼びます。ですが私は神の使いでもなければ、平和の使者でもありません」

「じゃあ、誰? どうして、いきなり襲いかかって来るんだ。魔女の臭いがする」

「私の名はスカーレット。そして、先ほどの女はテディレディ。まずは突然の無礼を働いたこと、お許し下さい。我々はあなたの敵ではありません」


 その言葉で少年がまず剣の構えを解いた。

 少年の挙動から、いくらかの混乱が見られたが、こちらの無防備な様子を確かめるや、ゆっくりとした動きで持っている剣を背中の鞘に収めた。


「急いでるんだ。理由は分からないけど、僕は君らに構っている暇はない」

「その剣には記号が刻まれています。我々のよく知る記号なのです。あなたはどこでそれを手に?」


 私の問いかけに、少年が首を傾げながら答えた。


「これは貰い物だよ。いまは僕の剣だけど。もとの持ち主も僕と同じ一族なんだ。僕の名はルイ。ルイ・フィンレイ」


 少年の言葉を耳にし、私はまた一つ、新たな未来を見た。瞼に再現されたその未来は恐ろしいもので、思わず眼を逸らしてしまう。二十年ぶりの悲劇だった。私の中でこれから起こることが、はっきりと見えた。どれだけあらがっても打破することの不可能な未来。私たちはそれを時の運命さだめと呼んだ。


 私の心の半分で、憎悪の気持ちが膨らんだ。


「殺せ。フィンレイを生かしておくな。スカーレット、はやく殺せ」


 テディレディが頭上で叫ぶ。


「こいつを信用するな! 私たちの敵だ。その剣でまた無駄なことを始めるつもりだ」

「テディ、黙りなさい。私の身体がなければ、あなたはただ喚くだけの非力な魔女でしかない。分を弁えなさい」


 私は天界の輪を片手で握り締め、テディレディを黙らせた。

 そして我々のやりとりに疑いの眼を向けている少年に、私は尋ねた。


「あなたは、その剣を携えてどこへ向かうのですか?」

「マレールという町だよ。俺はそこに行かなきゃ」

「なんのために?」

「約束を果たすだめだ。それがどうした」

「娘を助けに行くのですね? 鬼の娘を」


 少年が狼の耳をぴくりと動かし反応する。


「どうしてそれを?」

「我々もまた、娘を追いかけて来たのです。このサリサリに乗って」


 少年が脇で大人しく待っているサリサリの姿を見上げる。その身体は西露諸国で飼われている巨大な象より、ふた周りも大きかった。

 少年がサリサリの尻尾を見て声を上げた。


「この尻尾、もしかしてカナタを連れ戻しにきたの? カナタが話してた。九つの尻尾を持つ獣から逃げて来たって」

「そうだ」


 サリサリが獣の野太い声で答えた。


「あの娘は森の禁忌を犯した。代償を払うまでは我らはどこまでもあの娘を追いかけるぞ」

「代償? カナタはなにを払うの?」

「余所者のお前に関係ない」


 サリサリがその巨大な顔を少年の近くに寄せて、あしらうように答えた。


「カナタに危害を加えるなら、僕はおまえたちでも容赦しないぞ」


 少年の手が再び背中の剣に伸びる。


「サリサリ、止めなさい。争っている場合ではありません」


 私の言葉で、サリサリはこうべを深く垂れた。見る間にその巨大な身体は小さくなってゆき、酒場にある酒瓶くらいの大きさに縮んだ。そしてひょいと飛び跳ねて、私の肩に乗った。


「あなたたちは、カナタの味方なの?」


 少年が問いかけてくる。

 私はうなずいた。


「そうです。私たちの使命は、二〇年前、あの娘の母より仰せつかったもの。もしあの娘に危機が及ぶのなら、私たちはあの娘を森へと連れ戻す約束を取り交わしています。危機はいま迫っています」


 私はどす黒い雨雲で埋め尽くされた空を見上げ、ため息混じりに答えた。

 すべてが、悪い方向へと進んでいた。

 しかし防ぐ手立てはない。


「ルイと言いましたか。もし南の町へ行くなと私が助言をすれば、あなたはどうしますか?」

「止めようとするなら、力づくでも行くよ」


 少年の眼には、力が宿っている。

 私の言葉がもはや意味をなさないことなど、太古より知れたことだった。この少年がなにをしようとも、未来は不変であることに代わりはない。


 私は時の運命さだめを見届けることに決めた。


「いいでしょう。お行きなさい。あなたを待っている者がいる。サリサリ、あなたもついて行きなさい。きっと役に立つ。忠義の獣よ」


 サリサリが私の肩で、こうべを深く垂れて言った。


あるじよ。必ずや、あのお転婆姫を連れ戻します」


 サリサリは少年の肩にひょいと飛び移った。

 狼の少年は馬を呼び戻すと、軽い身のこなしでそれにまたがった。そして私たちに一礼をした後、再び南の町へ向けて、走り去って行った。


 気づけば、一筋の涙が、私の頬を伝っていた。


「お前の涙はろくなことがない」


 テディレディがつぶやく。

 天界の輪から魔女の両目がぎらりと覗いている。なにか言いたそうな口ぶりだった。


「己の無力さをいつも痛感します。この大地で、私たち天空の民アッ=サラの一族がやれることなど、もうほとんど残っていないのかも知れません」

「助からないのか?」


 テディが尋ねた。


「ええ。死は避けられない。それを知りながら、私は行かせてしまったのです。不便ですね。未来が見えるとは」

「気に病むな。娘が無事なら、それでいい」

「そうですね」


 私はまた空を見上げた。


「今は待ちましょう。この雨が上がるまで」

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