19話 与えられなかったもの

「いいかルイ。月は三つある。俺たち一族はこの力によって、生かされている。それを忘れるな」


 と父が教えてくれた。


 父は集落グルバおさをしていた。三〇〇もの仲間を束ねているおさ、カイ・フィンレイは僕にとって自慢の父だった。普段は寡黙で無駄なことはなにも語らない。ただひとたび争いが起こると、仲間を守るために戦った。その強さは魔女の間でも噂されるほどだった。屈強な戦士であり、なにより卑劣を嫌い、まっすぐに筋を通す男だった。己に厳しく、他人に優しい。誰からも信頼されるおさだった。


「あの月を見ろ」


 父が指さした丸い月はトゥルムと呼ばれていた。一番大きな月だ。だいたい二八回、陽が昇り沈んでを繰り返すと、その大きな月は丸くなる。続いて反対の空に映った欠けた月を指さして、父が言った。


「あれはトゥーラと呼ばれている。お前が生まれたのは、ちょうどあの月が丸かった日だ」


 一つ目のトゥルムと比べると、その月は半分くらいの大きさだった。だいたい四一回、陽が昇り沈んでを繰り返すと、その半分の大きさの月は丸くなる。トゥルムとトゥーラが一緒に丸くなるところは、僕も片手で数えられるほどしか見たことがない。珍しい現象だった。


 そして三つ目はリタ。魔女が作ったとされる月で一番小さかった。いつ現れるか予測の難しい月だった。三つの月が全部丸くなったところは、母でも見たことがないらしい。言い伝えによると、百年以上も昔に一度だけ、それが起こったと一族の古記こきには記されている。この話は、その後に月詠つきよみの家系であるマヤが僕にひっそりと教えてくれた。それは魔女と狼族ウェアウルフの因縁を生み出したのだと付け足して。


 月詠つきよみの家系は、先祖代々、親から子へ、子から孫へと受け継がれていく。月の動きを学んで、次の月がいつ丸くなるのかを予測するのだ。それは集落グルバにとって重要な役割だった。戦がある日を占えないと僕たちは魔女には勝てないからだ。魔女だけじゃない。ヒト族やドラゴンに乗った竜人たちとも争うことはしばしばあった。みな狼族ウェアウルフの強さを恐れて、町や村から僕らを迫害する。だから僕ら一族は、グルバと呼ばれる小規模の集落を作り、流浪の生活をして暮らしていた。


 同じ場所に留まることが出来なかったのには、もう一つ理由がある。それは魔女が落とす石の存在だ。五〇〇年前までは、僕ら一族も一つの場所に根を下ろし、当たり前のように生活していたらしい。だけど魔女が空から石を落とすことから、それを避けるためにいまの生活になったのだ。これも月詠つきよみのマヤから教わった。マヤは僕の幼なじみで色々と教えてくれた。集落グルバの民からは姫様と呼ばれていた。物知りで、月の動きをよく理解していた。月と星には関係があることを幼い頃から見抜いていたし、星座の位置もほとんど把握していた。僕は村のおさ、カイ・フィンレイの息子だったから、大人になったら姫様を守るんだと、よく言い聞かされていた。やんちゃ者だったから、姫様を至るところに連れ回して、母や兄、マヤの大叔母様によくふたり揃って叱られたのを覚えている。マヤにもしものことがあったら一族は大変なことになると、父が教えてくれた。僕の父は一度も怒っているところを見たことがなかったが、戦士として誰もが恐れていたし、尊敬もされていた。そんな父の血を継いでいる僕も、集落グルバでは随分、強かった。


「お前も俺の跡を継いで、この集落グルバを守るんだ」


 狼族ウェアウルフの生活やしきたり、言い伝えは全て強さに因っている。それは集落グルバの存続を考えれば、ごく自然のことだった。子が産まれる前には、月の力を授かれるようにお祈りを捧げるし、狩りが成功するよう催されるお祭りでは、決まって大人子供を問わずに決闘があった。僕は大人よりもうまく立ち回り、子供の中では一番強かった。その強さが父の息子である僕の証だったし、多少のやんちゃな行動は目を瞑ってもらえた理由だったと思う。


 狼族ウェアウルフの子供たちは七歳を過ぎた頃から次第に力を授かる。


 一番はじめに集落グルバで力を授かったのは、僕によく対抗意識を燃やしていたイーサンだった。イーサンは友達としては仲が良かったけど、僕に決闘で一度も勝った試しがなくて、悔しさを隠そうとしなかった。月が丸くなった日に僕らは決闘をして、僕は初めて負けた。次に力を授かったのは病気がちだった僕の兄だった。月の力に目覚めた子供たちは祝福される。盛大に祝いの場が設けられ、みなの前で授かった力を披露する。大人に混ざって狩りに出ることを許された。もう子供として扱われなくなるのだ。僕も早く力を授かって、その中に入りたいと思っていた。仲間たちが順番に力を授かる。その度に祝福された。次第に肩身が狭くなってくるのを、僕は感じていた。


 九歳になった頃、同世代の仲間はみな力を授かっていた。ただひとり僕を除いて。最後まで僕を励ましてくれた幼なじみのマヤも力を授かって、僕より強くなった。


 僕が十になる日のことだった。月詠つきよみの一族が集まって、僕はその集まりに呼ばれた。父も母も兄もその場にいた。僕はよくひとりで行動するようになっていたから、幼なじみのマヤが髪を短く切ったことさえ知らなかった。


「呼ばれた理由が分かるな」


 マヤの大叔母が僕の目を見て尋ねた。その瞳に光はなく、かつて魔女に視界を奪われた過去がある。だが、大叔母は代わりにみなの心が読めるらしかった。月詠つきよみとして集落グルバで一番力を持っている存在だった。


 僕は黙ってうなずいた。


「お前の歳は今宵で十を数える。綺麗な満月が空に輝くだろう。だが力はまだ目覚めない。なぜだか分かるか?」

「みんなより遅いんだ。僕の力は今日の満月で目覚めるはずだよ」


 と答えた。

 だけど大叔母は首を静かに振って答えた。


「十を迎えて目覚めなかったものは生涯、力に目覚めない。それは古記にも記されておる」

「嘘だ。文字が読めないからって、デタラメ言うな」

「ルイ、本当よ」


 隣にいたマヤが言った。


「書かれてあるの。珍しいことだけど、そういう一族も稀にいるって」

「マヤまで俺を騙すのか? 他の奴らと一緒になって、俺のことをバカにしてるんだろ」

「そんなことない」

「嘘だ。イーサンが話してた。マヤは俺に嘘を吐いてるって。何も知らないことを良いことに、俺を騙して楽しんでるんだ」

「違う。私はルイをバカにしたりなんてしない。あなたの力になりたいと思っているの」


 マヤが目を潤ませながら訴える。

 それすらも僕には嘘に思えて、腹が立った。


「そうやって月の力がない俺を、弱い者扱いするんだ。満月が出ていない日は俺の方が強いだろ。月のない狼族ウェアウルフなんて、ただの弱者だ。月の力がなんだ。授かったらそんなに偉いのか?」

「止めてルイ。あなたは強いわ」

「言葉だけ取り繕うのは止めろよ!」


 僕はありったけの力で、床に穴を空けていた。叩き割れた床下から冷たい空気が入り込んでくる。


 僕はマヤを睨んだ。自分を慰めようと必死になっているマヤの言葉が、その態度が、全て腹立たしかった。惨めな気持ちに拍車をかけた。

 マヤが涙を拭い、強い瞳で僕を睨み返してくる。怒っているときの表情をしていた。


「ルイは強いわ。いいえ、強かった。でも今のルイは弱い。あなたに守ってもらおうなんて思わない」

「誰がお前なんて守るもんか!」

「いい加減にしろ!」


 父の珍しい怒声が飛んだ。僕はそんな声で怒った父を見るのが初めてだったから、すぐに黙った。

 父は凛とした顔を崩すことなく、静かに続けた。


「大叔母様。話の続きを。よく聞けルイ。月詠つきよみの一族が話す言葉が、この集落グルバで最も重要な言葉だ。分かっているな」


 父に促されて、大叔母が淡々と話し始めた。


「古記には書かれておる。力に目覚めない者が現れたとき、その者を集落グルバから追放せよと。十を迎えて月の加護を授かれない者は、呪いを受けた子であると。もし匿うようなことがあれば、その者は必ず一族に疫災をもたらすであろうと。書かれておる」


 みなの視線が、僕に注がれているのが分かった。

 少しの沈黙が流れる。


「俺のようなやつは集落グルバから出て行けって、そう言いたいんだろ」


 と僕が言った。


「都合良くそんな言い伝えを使って、しきたりだとか決まりだとかのせいにして、俺を追い出したいだけなんだろ」

「止めろルイ。その口を閉じなさい」


 父の制止の声を振り切って、僕は続けた。


「みんなで俺に嘘を吐いて! 邪魔者を追い出したいんだ。それが狼族ウェアウルフのやり方なんだ。弱いやつは居なかったことにする。なにが月詠つきよみだ。俺が要らないなら、要らないとはっきり言えばっ――」


 言い終えるよりも先に、僕の頬に、父の拳が叩き込まれていた。僕の身体は壁を突き破って、寒空さむぞらの下に放り出される。でこぼこした地面をごろごろと転がり、そして沈黙した。

 父が裸足で僕のそばに寄ってきて、僕の衣服の裾を掴み、起こした。それから強い口調で言った。


「ルイ。お前は本当に、俺の息子か。その眼も、その耳も、そのしゃべり方も、昔の俺にそっくりだ。だがな、似ていないところが一つある。どこだか、分かるか」


 父に問われ、僕は目を見ずに、答えた。


「月の力を、授かれなかったところ」

「違う。俺の目を見ろ!」


 父に怯えながら、僕は父の目を見た。かつて向けてくれた父親としての目ではなかった。それは集落グルバをまとめるおさとしての目をしていた。


「お前に足りないのは、月の力ではない。別のものだ。分からないのか? 仲間が月の力に目覚めたときも、お前は祝おうとしなかった。集落グルバ全体の喜びを分かち合おうとしなかった。なぜだ?」


 その問いに僕は答えられない。先回りして、父が言った。


「己の間違った強さが、揺らぐことを畏れていたからだ。比べることでしか、自分を誇れないのか。お前は俺の何を見てきた。確かに、決闘には勝ち負けがある。当然のことだ。だがな、決闘に勝った者が勝者ではない。勝利を信じ、己に打ち勝った者が勝者だ。与えられなかった力に、いつまでもしがみつくのは止めろ。あるもので闘え。それが狼族ウェアウルフのあるべき姿だ」


 父の手が離れた。僕の身体は地面に落ちて、僕はしばらく屍のように転がっていた。


 今夜は満月だ。日が西へ傾き、月の輪郭がうっすらと空に現れ始めていた。母と兄と、大叔母らが僕の元へ集まってきて、僕の処遇について話し合っていた。大叔母は今すぐ去ることを提案した。しかし、母と兄が猶予を与えるよう懇願していた。

 そして、最後のチャンスが与えられた。


 今夜、もし月の加護が現れなければ、出て行く。

 僕はそれに同意してうなずいた。


 その日、集落グルバのみなの前で僕は祭壇にあがった。月の加護を受けるときは決まって、祭壇にあがる。みなの視線を一身に受け、みなの前で獣神へと変化へんげするのだ。


 その日は、皮肉なことに二つの月が満ちる珍しい夜だった。

 僕はその場で一夜を過ごした。祭壇上では風が吹き、僕から少しずつ体温を奪っていった。ひとり、またひとりと集落グルバの民が祭壇から背を向ける。みな僕を見る目が同じだった。一族の中にひとりだけ紛れ込んだ異端、もはやそれを隠す者はいなかった。


 月が見えなくなる明け方まで、僕は祭壇に立ち尽くした。僕の家族と、大叔母とマヤだけがその姿を見届けた。月が見えなくなってしばらくした後、僕は膝から崩れ落ちた。


 分かっていたことだ。

 月の力は授かれない。でも、受け入れたくなかった。


「なんでだよ。ちくしょう!」


 僕は泣き崩れた。みんな当たり前に授かれるものが、僕には与えられなかった。狼族ウェアウルフに生まれ、狼族ウェアウルフを誇りに感じていた僕の気持ちは、ずたずたに引き裂かれた。どうして僕だけと、深い悲しみに襲われた。


 父が歩み寄ってきて食料や衣服、そして獲物を狩る武器の入った袋を、僕の脇に置いた。

 僕はなにも言わずにそれを手にすると、祭壇を降りた。

 父が僕の後ろで、誰にも聞こえないくらい小さな声で、つぶやいたのが分かった。


「すまない」


 父の声は震えていた。そんな悲しい声を聞いたのも初めてだった僕は、なにも言い返せなかった。ただ父の期待に応えられず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 これ以上、留まり続けると頭がどうにかなってしまいそうだった僕は、すぐに集落グルバを去ることにした。挨拶など誰にもせずに、ひとりで肩を丸めて、森に入った。行く当てなどなかった。


「待ってルイ」


 引き留められ、振り返る。

 そこにはマヤが立っていた。


「ひとりで行くの?」


 その言葉が、僕の心を揺さぶる。


「じゃあ、ついて来てくれるの?」


 マヤはうなずきもせずに、僕の元へと歩み寄ってきた。

 そっと僕の手を取り、目を見つめてくる。


「お前には、月詠つきよみの役割があるだろ」

「大叔母様がいるわ」

「大叔母は年寄りだ。お前が居なくなったら、誰が集落グルバを案内するんだよ。からかうのは止めろよ」


 マヤは僕の問いに答えなかった。

 月詠つきよみのマヤをここで連れ出せば、跡継ぎのいない月詠つきよみの家系が、この集落グルバから居なくなってしまう。それは集落グルバ全体がこの広い大地の中、路頭に迷うことを意味していた。


 厄災をもたらすだろう――。


 大叔母の言葉が、脳裏をよぎる。


「冗談言うなよ」


 僕の声が震えた。

 でも、マヤの目は真剣だった。


「なんで俺なんか」

「分からないの?」

「分からないよ」


 僕はうつむいた。マヤが僕に何を求めているのか、本当に分からなかった。目の前の幼なじみは集落グルバから必要とされていた。月の力も授かって、僕よりも強くなった。マヤのために出来ることなんて、一つも見つからなかった。


「私を守って。ルイ」


 マヤが言った。


「どんなことがあっても。約束して」

「なんでそんなこと言うんだよ。俺は、お前より弱いんだぞ。だいたい、俺に守ってもらいたくないって、言ったじゃないか」

「そうじゃない。ルイの気持ちを聞かせて。私を守って」


 その言葉に僕は怖くなった。恐怖はみるみる膨らんでいって、僕は怒りの声を上げていた。


「バカにするなよ」


 僕はマヤの手を振り払った。


「誰に言われたんだ。俺がひとりだと危ないから、お前がついて行くように仕向けたんだろ。母さんか?」

「違うわ」

「嘘だ。いま分かった。マヤが、俺を守る側なんだ。俺が危なくなったら、俺を守れと言われてるんだ。どこまでも俺をバカにしやがって!」


 マヤが首を振って「違うの」と小さく言った。


 僕はマヤから距離を取った。後ずさりしながら、マヤを睨み続ける。そうしなければ、僕の傷ついた心が守れないと思った。


「俺はひとりで行くんだ。誰にも守ってもらおうなんて思わない。お前も自分のことは自分で守ればいいだろ。それでいいんだ。狼族ウェアウルフは強いんだ」


 マヤがしゃがみ込む。顔を伏せ、肩を震わせた。


 僕は背を向けて走り出していた。

 森の中をひとり駆け抜けてゆく。


 マヤの最後の言葉が、ずっと心に残り続けている。


 ――意気地いくじなし。


 僕は、その言葉で呪いにかかった。

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