19話 与えられなかったもの
「いいかルイ。月は三つある。俺たち一族はこの力によって、生かされている。それを忘れるな」
と父が教えてくれた。
父は
「あの月を見ろ」
父が指さした丸い月はトゥルムと呼ばれていた。一番大きな月だ。だいたい二八回、陽が昇り沈んでを繰り返すと、その大きな月は丸くなる。続いて反対の空に映った欠けた月を指さして、父が言った。
「あれはトゥーラと呼ばれている。お前が生まれたのは、ちょうどあの月が丸かった日だ」
一つ目のトゥルムと比べると、その月は半分くらいの大きさだった。だいたい四一回、陽が昇り沈んでを繰り返すと、その半分の大きさの月は丸くなる。トゥルムとトゥーラが一緒に丸くなるところは、僕も片手で数えられるほどしか見たことがない。珍しい現象だった。
そして三つ目はリタ。魔女が作ったとされる月で一番小さかった。いつ現れるか予測の難しい月だった。三つの月が全部丸くなったところは、母でも見たことがないらしい。言い伝えによると、百年以上も昔に一度だけ、それが起こったと一族の
同じ場所に留まることが出来なかったのには、もう一つ理由がある。それは魔女が落とす石の存在だ。五〇〇年前までは、僕ら一族も一つの場所に根を下ろし、当たり前のように生活していたらしい。だけど魔女が空から石を落とすことから、それを避けるためにいまの生活になったのだ。これも
「お前も俺の跡を継いで、この
一番はじめに
九歳になった頃、同世代の仲間はみな力を授かっていた。ただひとり僕を除いて。最後まで僕を励ましてくれた幼なじみのマヤも力を授かって、僕より強くなった。
僕が十になる日のことだった。
「呼ばれた理由が分かるな」
マヤの大叔母が僕の目を見て尋ねた。その瞳に光はなく、かつて魔女に視界を奪われた過去がある。だが、大叔母は代わりにみなの心が読めるらしかった。
僕は黙ってうなずいた。
「お前の歳は今宵で十を数える。綺麗な満月が空に輝くだろう。だが力はまだ目覚めない。なぜだか分かるか?」
「みんなより遅いんだ。僕の力は今日の満月で目覚めるはずだよ」
と答えた。
だけど大叔母は首を静かに振って答えた。
「十を迎えて目覚めなかったものは生涯、力に目覚めない。それは古記にも記されておる」
「嘘だ。文字が読めないからって、デタラメ言うな」
「ルイ、本当よ」
隣にいたマヤが言った。
「書かれてあるの。珍しいことだけど、そういう一族も稀にいるって」
「マヤまで俺を騙すのか? 他の奴らと一緒になって、俺のことをバカにしてるんだろ」
「そんなことない」
「嘘だ。イーサンが話してた。マヤは俺に嘘を吐いてるって。何も知らないことを良いことに、俺を騙して楽しんでるんだ」
「違う。私はルイをバカにしたりなんてしない。あなたの力になりたいと思っているの」
マヤが目を潤ませながら訴える。
それすらも僕には嘘に思えて、腹が立った。
「そうやって月の力がない俺を、弱い者扱いするんだ。満月が出ていない日は俺の方が強いだろ。月のない
「止めてルイ。あなたは強いわ」
「言葉だけ取り繕うのは止めろよ!」
僕はありったけの力で、床に穴を空けていた。叩き割れた床下から冷たい空気が入り込んでくる。
僕はマヤを睨んだ。自分を慰めようと必死になっているマヤの言葉が、その態度が、全て腹立たしかった。惨めな気持ちに拍車をかけた。
マヤが涙を拭い、強い瞳で僕を睨み返してくる。怒っているときの表情をしていた。
「ルイは強いわ。いいえ、強かった。でも今のルイは弱い。あなたに守ってもらおうなんて思わない」
「誰がお前なんて守るもんか!」
「いい加減にしろ!」
父の珍しい怒声が飛んだ。僕はそんな声で怒った父を見るのが初めてだったから、すぐに黙った。
父は凛とした顔を崩すことなく、静かに続けた。
「大叔母様。話の続きを。よく聞けルイ。
父に促されて、大叔母が淡々と話し始めた。
「古記には書かれておる。力に目覚めない者が現れたとき、その者を
みなの視線が、僕に注がれているのが分かった。
少しの沈黙が流れる。
「俺のようなやつは
と僕が言った。
「都合良くそんな言い伝えを使って、しきたりだとか決まりだとかのせいにして、俺を追い出したいだけなんだろ」
「止めろルイ。その口を閉じなさい」
父の制止の声を振り切って、僕は続けた。
「みんなで俺に嘘を吐いて! 邪魔者を追い出したいんだ。それが
言い終えるよりも先に、僕の頬に、父の拳が叩き込まれていた。僕の身体は壁を突き破って、
父が裸足で僕のそばに寄ってきて、僕の衣服の裾を掴み、起こした。それから強い口調で言った。
「ルイ。お前は本当に、俺の息子か。その眼も、その耳も、そのしゃべり方も、昔の俺にそっくりだ。だがな、似ていないところが一つある。どこだか、分かるか」
父に問われ、僕は目を見ずに、答えた。
「月の力を、授かれなかったところ」
「違う。俺の目を見ろ!」
父に怯えながら、僕は父の目を見た。かつて向けてくれた父親としての目ではなかった。それは
「お前に足りないのは、月の力ではない。別のものだ。分からないのか? 仲間が月の力に目覚めたときも、お前は祝おうとしなかった。
その問いに僕は答えられない。先回りして、父が言った。
「己の間違った強さが、揺らぐことを畏れていたからだ。比べることでしか、自分を誇れないのか。お前は俺の何を見てきた。確かに、決闘には勝ち負けがある。当然のことだ。だがな、決闘に勝った者が勝者ではない。勝利を信じ、己に打ち勝った者が勝者だ。与えられなかった力に、いつまでもしがみつくのは止めろ。あるもので闘え。それが
父の手が離れた。僕の身体は地面に落ちて、僕はしばらく屍のように転がっていた。
今夜は満月だ。日が西へ傾き、月の輪郭がうっすらと空に現れ始めていた。母と兄と、大叔母らが僕の元へ集まってきて、僕の処遇について話し合っていた。大叔母は今すぐ去ることを提案した。しかし、母と兄が猶予を与えるよう懇願していた。
そして、最後のチャンスが与えられた。
今夜、もし月の加護が現れなければ、出て行く。
僕はそれに同意してうなずいた。
その日、
その日は、皮肉なことに二つの月が満ちる珍しい夜だった。
僕はその場で一夜を過ごした。祭壇上では風が吹き、僕から少しずつ体温を奪っていった。ひとり、またひとりと
月が見えなくなる明け方まで、僕は祭壇に立ち尽くした。僕の家族と、大叔母とマヤだけがその姿を見届けた。月が見えなくなってしばらくした後、僕は膝から崩れ落ちた。
分かっていたことだ。
月の力は授かれない。でも、受け入れたくなかった。
「なんでだよ。ちくしょう!」
僕は泣き崩れた。みんな当たり前に授かれるものが、僕には与えられなかった。
父が歩み寄ってきて食料や衣服、そして獲物を狩る武器の入った袋を、僕の脇に置いた。
僕はなにも言わずにそれを手にすると、祭壇を降りた。
父が僕の後ろで、誰にも聞こえないくらい小さな声で、つぶやいたのが分かった。
「すまない」
父の声は震えていた。そんな悲しい声を聞いたのも初めてだった僕は、なにも言い返せなかった。ただ父の期待に応えられず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
これ以上、留まり続けると頭がどうにかなってしまいそうだった僕は、すぐに
「待ってルイ」
引き留められ、振り返る。
そこにはマヤが立っていた。
「ひとりで行くの?」
その言葉が、僕の心を揺さぶる。
「じゃあ、ついて来てくれるの?」
マヤはうなずきもせずに、僕の元へと歩み寄ってきた。
そっと僕の手を取り、目を見つめてくる。
「お前には、
「大叔母様がいるわ」
「大叔母は年寄りだ。お前が居なくなったら、誰が
マヤは僕の問いに答えなかった。
厄災をもたらすだろう――。
大叔母の言葉が、脳裏をよぎる。
「冗談言うなよ」
僕の声が震えた。
でも、マヤの目は真剣だった。
「なんで俺なんか」
「分からないの?」
「分からないよ」
僕はうつむいた。マヤが僕に何を求めているのか、本当に分からなかった。目の前の幼なじみは
「私を守って。ルイ」
マヤが言った。
「どんなことがあっても。約束して」
「なんでそんなこと言うんだよ。俺は、お前より弱いんだぞ。だいたい、俺に守ってもらいたくないって、言ったじゃないか」
「そうじゃない。ルイの気持ちを聞かせて。私を守って」
その言葉に僕は怖くなった。恐怖はみるみる膨らんでいって、僕は怒りの声を上げていた。
「バカにするなよ」
僕はマヤの手を振り払った。
「誰に言われたんだ。俺がひとりだと危ないから、お前がついて行くように仕向けたんだろ。母さんか?」
「違うわ」
「嘘だ。いま分かった。マヤが、俺を守る側なんだ。俺が危なくなったら、俺を守れと言われてるんだ。どこまでも俺をバカにしやがって!」
マヤが首を振って「違うの」と小さく言った。
僕はマヤから距離を取った。後ずさりしながら、マヤを睨み続ける。そうしなければ、僕の傷ついた心が守れないと思った。
「俺はひとりで行くんだ。誰にも守ってもらおうなんて思わない。お前も自分のことは自分で守ればいいだろ。それでいいんだ。
マヤがしゃがみ込む。顔を伏せ、肩を震わせた。
僕は背を向けて走り出していた。
森の中をひとり駆け抜けてゆく。
マヤの最後の言葉が、ずっと心に残り続けている。
――
僕は、その言葉で呪いにかかった。
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