18話 月の力
真夜中。みなが寝静まった頃にそれは始まった。
ルイは隣の部屋から聞こえてきた悲鳴で飛び起きた。その声がよく知っている声だったことを思い出し、急いで隣室へと向かった。
嫌な予感がする。
胸がざわついた。
半分開いている扉の中から灯りが漏れていた。入り口に槍や剣を持ったエン族の男たちが三人集まっている。
部屋に踏み込むなり、ルイが声を上げた。
「カナタ!」
部屋には多くの男たちが詰めかけていた。カナタがふたりの男に腕を掴まれている。側にエン族の頭領と、ジルもいた。
「なにをしているの?」
「逃げそうになっていたから捕まえた」
とジルがエト語で説明する。
「ルイ君、助けて!」
カナタがもがきながら自らに助けを求めてくる。
「放してあげて」
ルイが自らの言語、古代エト語でそれを訴えた。
ルイの言葉に一瞬、耳を貸すもアッシュはそれを無視した。伝わっていない。アッシュはエト語を使わない。西で使われているエル語で話している。一方のルイは、エト語しか話せなかった。
アッシュが何かをこちらに言ってきた。
「この娘を放すことは出来ない。と言っている」
ジルがアッシュの言葉を変換してくれた。
「お願い。乱暴なことはしないで」
ジルがルイの言葉をアッシュに伝えてくれる。ジルの言葉は流暢ではなかったが、意図は伝わっているらしかった。
アッシュが吐き捨てる。
「この女は交渉に応じなかった。なら、捕まえるしかないだろ」
「止めてあげて。ジル!」
ジルへ視線を送る。しかしジルは首を横に振って答えた。
「その女は俺たちに必要だ。なにも奴隷みたいに扱うつもりはない。美味い食事も寝床も与える。この国に留まってくれさえすれば、それでいい。不自由はさせない」
「ふざけないで。それが嫌なの。寝床と食事さえ与えれば満足すると思ってるの? バカにしないで」
怒りを露わにするカナタ。男たちが暴れるカナタをロープで縛り上げていく。大きな袋を頭から被せようとしたその時、ルイが数歩前に進み出た。
「待って!」
ルイが近くにいた兵士の懐から剣を奪って構えた。
アッシュが睨みを利かせてくる。罵倒の言葉を浴びせてくるのが分かった。
「辞めろ。武器を捨てろ」
ジルが冷静な口調で諭そうとする。
「カナタを逃がしてあげて。お願い」
「話しにならねぇ。誰が余所者の指示なんて受けるか」
アッシュが一蹴する。
ルイがジルに頼むように視線を送った。だがジルも懐に差した剣に手をかけ、冷たく言い放った。
「もし邪魔をしたら剣を抜く。本望じゃないが、こればかりは譲れない」
「ふん。おとなしく見てろってことだ」
カナタが暴れ、ひとりの男が股を蹴り飛ばされた。
「おい、早くしろ。女ひとりだぞ」
アッシュが布袋を部下から取り上げ、それを頭から強引に被せようと手を伸ばす。
そのとき、カナタの後ろ髪の中からルークが飛び出してきた。威嚇音を発しながら、アッシュを強く牽制する。
アッシュが身を引き布袋でルークの牙を防ぐ。ルークはそれに噛みついた。アッシュが袋を投げ捨てると、懐に忍ばせていたナイフを取り出した。地を這っているルークが今度はアッシュの足に飛びかかる。しかし、アッシュの投げたナイフがルークの頭に突き刺さり、床ごと深く貫いた。
「ルーク!」
カナタがルークの名を呼ぶ。
アッシュはナイフを素早く引き抜くと、ルークの頭を踏み潰した。ごりごりと骨の砕ける音がして、最後に黒い血が勢いよく飛び散った。
カナタが膝から崩れ落ちた。頭のつぶれた蛇の
ルイは抑えきれず飛び出していた。ルークを殺した男めがけて、剣を突き立てる。しかし、寸でのところで、その攻撃は受け止められた。アッシュは動いていない。間に割り込んできたのは、剣を抜いたジルだった。
ルイの剣の尖端が、ジルの長剣の柄の部分でぴたりと止まる。ルイが次の動きを加えようと身体をわずかに動かしたその時、強烈な裏拳が顔面に叩き込まれた。痛みを感じる間もなく、ルイの身体は吹き飛び、壁を突き破って外へと放り出された。
二階から落ちる。真夜中の路上は海より暗かった。固い地面に身を叩きつけられ、一度転がった。
痛みを堪えながら、身を起こす。
蝋燭の灯りを背負い、二階からジルが降ってくる。軽やかに着地した。
「なんで?」
ルイが尋ねた。その言葉に戸惑いが浮かぶ。
「どうして、そんなひどいことするんだ。ルークはカナタの友達だったんだ」
「容赦は出来ない。こちらにも理由がある」
遅れてアッシュが降りてくる。荒々しい着地で土埃が舞い上がった。
「さあ、やるか」
アッシュが言った。
「剣をとれ。納得出来ないなら、力で決めるのがこの国のルールだ。この腐った国のな」
隣のジルが前に進み出ようとしたところで、アッシュがそれを制した。
「待て。俺がやる。同胞と争うのは気が引けるだろう」
「別に構わない。ただ、あいつはこの争いに無関係だ」
「命までは取ってやるなと? 甘いな。向かってくる奴はみな敵だ」
ジルはその言葉に返事をしなかった。
アッシュが足元に転がっている剣を拾い上げて、ルイに投げてよこした。刃先がむき出しになっている剣の柄部分を、ルイが受け止める。
「その剣を使え。丸裸の奴をいたぶってもつまらんからな。それに、お前にはチャンスがある」
上空を指さす。その場にいる誰もが空を見た。
そして、ジルが先に慌てた声を出した。
「おい、アッシュ。止めとけ。意味が分かっているのか」
「ああ。今日は綺麗な満月だ」
「なら俺がやる」
「いいや、俺だ」
「バカ言うな。
「お前こそ俺を見くびるなよ。亜人じゃあない。俺はアッシュだ。あの伝説の名を継ぐエン族の頭領だ。子供の
高揚した気持ちを隠そうとしない。男は自信に満ちていた。己の強さを疑わない強い目、それを裏付ける屈強な肉体。幾度となく死線を越えてきた戦士だからこそ、それだけの自信を持てるのだ。
「さあ、おしゃべりは終わりだ。やるぞ。
アッシュが背負っていた大剣をずしりと両手で構えた。でたらめなほど剣先の太い武器だ。男の構えから、その重量がよく伝わってくる。あれをまともに正面から受けたら、ひとたまりもない。
ルイは相手の気迫に
「俺に勝ったら、鬼の娘を解放してやるよ」
その言葉の意味がルイには理解出来なかった。ジルが古代エト語に直してくれて初めて、その意味を知る。
ルイはうなずき、寸でのところで思い留まった。
「本当に?」
「嘘はない。俺たちは力で全てを決める。その力で決まったことは、必ず守る。シンプルでいいだろ」
ルイも剣を構えた。相手の巨大な剣をかわして、隙をみて攻撃を加えれば勝てる可能性はあった。隣にいるジルは腕組みをして経過を見守っている。少なくとも一対一で戦えるのなら、まだ勝機はあった。
静かな時間が流れる。互いに相手の出方を伺う。
ジルが懐からコインを取り出した。指先でそのコインを弾いて、空に飛ばす。コインは宙で回転しながら、アッシュとルイ、ふたりの間をゆっくりと落ちてくる。無限とも思えるほど長い時間に感じた。
遂に、コインが地面に落ちた。そのとき、ふたりは既に先ほどまでいた場所から移動していた。
ぎいぃぃん、と刃先同士が激突する音が響く。火花が散った。ルイが男に切りかかっていた。男は構えていた大剣でそれを正面から受け止める。岩のように硬い防御だった。
「速いな」
と男が口にする。
「だがそれが、どうした!」
男が豪快に太い剣を振り上げた。竜巻のように風が起こり、ルイはその場からすぐに立ち退く。男が正面で剣を振り上げていた。間合いをあっという間に詰められている。
男の剣が振り下ろされた。
ルイは横に飛び退き、男の太刀をかわした。
剣が大地をえぐり、土埃が舞った。ルイは避けた先で、切り返そうと再び剣を持ち構えた。
「おい! 早く月の力を使え! 嘗めてるのか」
アッシュが土埃の中で声を荒げた。その姿はまだ見えない。
ルイは返事をしなかった。
アッシュの長い三つ編みが揺れる姿を目で捉え、ルイが再び飛び出す。しかし三つ編みはゆらりと残像だけを置いて消えた。ルイが攻撃を加えた先には誰もいなかった。男の姿が忽然と消えている。振り返ろうとしたその時、ルイの顔面に太い拳が叩き込まれていた。一つも存在を臭わせることなく、アッシュはルイの側面に回り込んでいたのだ。ルイは吹き飛ばされ、重い酒樽をいくつも弾き出し、宿屋の壁に背中を激突させた。
立ち上がれないほど、頭を強く打った。口と鼻から大量の血が流れる。赤い血だ。ルイはめまいに襲われ、嗚咽を漏らした。
「待て待て待て。そりゃないだろ」
男に身体を持ち上げられる。強引に首を上に向けられ、瞼を指で開かれた。空だ。空が見えた。その中心に、月が丸く輝いている。
「分かるか、月だ。
アッシュが耳元で知らない言葉を繰り返す。意味は分からなかったが、月の力を使えと言っていることだけは、おぼろげに理解できた。
「お前みたいな雑魚が、そのままの姿で俺に勝てると思ったのか? 万が一が有ると思ったのか。あるわけないだろ。
ルイは胸の中にこみ上げてくるものが辛さだと知って、目に涙を浮かべた。目の前の男は強かった。自分よりよっぽど腕が立つ。勝てる気がしなかった。
「無理だ」
「なんだと?」
ルイはそれ以上、言葉を発しなかった。
伝えたくても、なにから話せばいいのか、相手の言葉さえも、知らなかった。ただ戦意は既に枯れていた。
「おい、この期に及んでまだ嘗めた真似するのか。ふざけるな!」
アッシュが叫んでルイを地面に叩きつけた。蹴りを一発入れる。
ルイは腹を押さえてむせた。意識が朦朧としている。ここで立ち上がらないとカナタがさらわれてしまう。理解していたが、身体も心も動かなかった。
アッシュが落ちている剣を拾い上げ、それを自らに向けて振り上げる様子が見えた。
「おい止めろ」
ジルが近くに駆け寄ってきて、アッシュをなだめる。ジルが首を横に振って続けた。
「月の力を使わないんじゃない。恐らく、使えないんだ」
「そりゃどういうことだ?
「そうだ。みんな使える。だが稀に生まれるんだ。力を授かることが出来ないやつが。村でそいつは役に立たない。だから捨てられるんだ」
アッシュがジルの言葉を聞いて、肩の力を抜いた。そして剣をどこかへ放り投げた。
「こいつに伝えてくれ」
アッシュがジルに言った。
ジルはうなずくと、ルイの理解できる言葉、古代エト語でアッシュの言葉を訳してくれた。
「おまえは殺す価値もない。落ちこぼれはさっさとこの町を出て、安全な場所で静かに暮らせ。紛らわしい雑魚は二度と俺の目の前に姿を見せるんじゃない」
ルイは痛みと苦しみの中、次第に意識が遠のいて行った。
落ちこぼれ、という言葉だけが頭の中で嫌になる程、反芻していた。
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