14話 国境と追っ手2

「あなたは港町に行ったはずだ。船で国外へ出るために。道中、行商人がそれを目撃している。だが、なぜハウエル殿が亡くなったかまでは分かっていない」


 無言でその話に耳を傾ける。

 ラルゴがさらに続けた。


「屋敷ではいま困ったことが起きています。ハウエル殿の亡骸が運び込まれたが、弔うべきか否か、意見が割れているのです」

「どういうこと?」


 カナタが尋ねた。


「ハウエル殿には長年の功労がある。母レイラ様の代から仕えた優秀な教師だったと評判がいい。多くの者が彼を庇う。しかし最も重要なのは、彼に罪があるかないかだ。あなたがハウエル殿を連れ出したのか、それともハウエル殿があなたを連れ出したのか。状況によっては、彼は罪人として裁かれることになる」

「裁かれるもなにも、先生は既に命を落としたのよ」

「亡骸の処遇について変わってくるのです」


 ラルゴが答えた


「もし彼が、バンキャロナールの名誉のために命を落としたのであれば、一族の庭で礼儀を尽くして弔われるべきでしょう。しかし彼が誘拐を働いたのであれば、そうは行きません。その骨は北方の冷たい海へ捨てるべきでしょう。二度と陸に戻ってこれぬよう、石を括り付けて沈めるのです。天使に祝福されるべきではない」

「そんな」


 カナタの口から戸惑いの声が漏れた。


「真実を聞きたい。カナタ様、あなたの口から。何がありました?」


 カナタはしばし考えて、ラルゴの問いに答えた。


「庭で弔ってあげて。先生は他に身寄りがないの」

「ハウエル殿に罪はないと?」


 うなずくカナタ。


「先生は私を守ろうとしたの。悪い商人たちから」


 カナタは嘘をついた。ハウエルに裏切られたことをみなに知られたくなかった。自らの恥ずかしい想いまで晒すことになるくらいなら、隠し通した方がましだ。なにより、北方の冷たい海に骨を沈めるなんて、自分だったら絶えられないと思った。


「ひどい娘だ」


 陸将が呆れ声で言った。


「己の我が儘のために、恩のある者を利用し彼を死なせた。そして今まさに反省もなく国境を越えようとしている。屋敷の従者たちも、あなたを良くは思わないでしょうな」


 カナタは唇をかんで反論する。


「別に構わないわ。誰も私のこと、分かってくれなかったじゃない。いつも、どこか余所余所しくて、婚約だって私の意思とは関係なく準備が進められて行った。私、いろんな人に相談していたわ。でも親身になって話を聞いてくれたのはロレッタさんだけ。みな従うのが当たり前だと、言い方を変えて私に言い聞かせてきただけじゃない。そんな人たちに嫌われても、何とも思わない」

「それが答えだからでしょう」

「私が欲しい答えじゃない」

「それを我が儘と言うのです。あなたのその我が儘で、どれだけ多くの者が迷惑を被っているか、理解できませんか」

「鬼の自由をおざなりにした罰よ」


 カナタが言った。


「私が逃げ出した日、国中から大勢の戦士たちが集まったんでしょう? 盛大なセレモニーをして、叔父は皆の前でどうしたの? 私がいないって、謝ったのかしら。いい気味よ」


 カナタが勝ち誇ったような顔になる。

 しかしラルゴは顔色一つ変えず、答えた。


「騎士の儀は無事に執り行われました。南の小国ティリーシアの第三王子がカナタ様の婿に選ばれた」


 カナタは面食らった。


「そのまま進めたの? 私はここに居るのに? 勝手に婿を決めないで。相手も困るでしょう」

「あなたではない」


 ラルゴが首を横に振る。


「どういうこと?」


 カナタはその言葉の意味がすぐには理解できなかった。しばらく考え、ある一つの最悪な可能性に行き着く。カナタ・バンキャロナールはまだ屋敷に存在している。身代わりを用意したのだ。


「まさか、ニーア? ニーアね」


 とカナタが言った。


「おかしいと思ったの。ニーアは遠くの田舎の村からやってきた。そんな遠い場所から召使いを連れてきたことなんて、いままで一度もなかった。叔父が連れて来させたんでしょう」


 ラルゴはそれ以上答えない。それは肯定を意味していた。


「ひどい。ニーアは私の友達よ。ほんの少しだけど、仲良くなれそうな気がしたの。ニーアを身代わりにしたのね。いいえ、最初からそれが目的だったんだ!」


 いまごろ屋敷でカナタとして振る舞っているニーアを考えると胸が痛んだ。同時に叔父への怒りがますます強くなる。信頼など一つもされていなかった。叔父にとってカナタは一つの駒にしか過ぎない。だから平気で身代わりを立てるなんてことが出来るのだ。


 ラルゴがゆっくりと口を開いた。


「あなたの責任だ。鬼の娘が逃げ出したとあっては、国王にも顔向け出来ない。一族の恥だ。アルカナハトは他国より強い非難を浴びる。レオ殿は国を守った」

「うるさい!」


 カナタが叫ぶ。着ている服の袖で涙を拭い、ラルゴを睨みつけた。


「意地でも捕まってやるもんか」


 言い残すと、きびすを返して駆け出した。


「まさか走って逃げられると?」

「ルイ君、戦って。腕を切り落としてもいい」


 カナタのかけ声でルイが再びラルゴに飛びかかる。背後でふたりの激しいぶつかり合いがまた始まった。


「無駄なこと、すぐ追いつく。この森から逃げられると思わないことだ」


 道を引き返し、カナタは見晴らしのよい場所にまで戻った。崖から身を乗り出す。風が吹き荒れる絶壁だ。深い渓谷になっていた。下方にはライトブルーの川が流れる。そして対岸に、また別の岩山がそそり立つ。


 カナタは親指と中指で輪を作ると、それを唇に押し当て高い音を鳴らした。指笛の音が空へと広がってゆく。


 まもなく、一頭の鷲が羽をめいっぱい羽ばたかせて接近してくるのが分かった。黄色いくちばしに光る何かをくわえている。その光るものは、くちばしから向こう岸の山にまでずっと伸びていた。空蜘蛛の糸だ。

 鷲はカナタの上空を何度か旋回して、糸を落とした。


「上出来よピーク」


 糸を受け取ったカナタが、左腕を横に伸ばす。ピークと呼ばれた鷲が高度を徐々に切り下げて行き、翼に風をはらませながら、ふわりとその左腕に降り立った。


「わっ! ピーク重い。久しぶりにあったら、また成長したのね。翼もこんなに立派になって」


 腰の巾着から木の実を取り出し、ピークに与える。ピークは餌を丸飲みするとカナタの方を見て、すぐに別の方角へ首を向けた。

 ラルゴは知らない。自らが飼っている鷲が、あるじをふたり持っていることを。恐らく話しても信じないだろう。


「ほら、飼い主に見つかる前に離れなさい。あなたの役目は終わり。協力してくれて、ありがとう」


 カナタはピークを腕から解放すると、受け取った糸をたぐり寄せながら、森へと引き返した。上空でピークがまた羽を広げ旋回している。

 カナタは糸を結びつけやすそうな樹木を見つけると、頑丈な糸を根本に縛り付けた。結んでいる間にも少し離れたところで木が何本も倒れる音がした。

 振り返るとルイが吹き飛ばされていた。ルイの身体は樹木に叩きつけられ、地面へ落ちる。


「ルイ君!」


 駆け寄ろうとしたカナタは、途中で足を止めた。


「遊びは終わりだ」


 ラルゴが背後に立つ。カナタの頭よりも大きな手のひらが、カナタの肩にぽんと添えられる。それだけで身動きが取れない。凄まじい迫力だった。


「帰りましょう」


 ラルゴの言葉に、優しさがこもる。

 カナタは無言で首を横に振った。


「仕方ない。乱暴を許してくだされ」


 まるで重さのない羽でも持つかのように、ラルゴが片手でカナタの身を宙に引っ張り上げた。あっという間に、両腕をつるし上げられてしまう。


「いやっ、放して」

「放しません。大人しくしないなら、少しばかり眠ってもらいますよ」

「このばかっ! 騎士だからって調子に乗らないで!」


 ラルゴの巨大な胸板を、鎧の上から蹴り上げる。びくともしない。岩を相手に戦っているようだ。


「私が帰っても居場所なんてないじゃない。ニーアが代わりになったのなら、私は不要でしょ。追い出せばいいわ」

「そうは行きません。あなたがもし他国の兵や魔女にでも掴まろうものなら、この東の地域の一大事になる。どのみち連れ戻すことに代わりはない」

「じゃあ私はどうなるの?」

「それは叔父であるレオ殿が決めることです」

「ろくな扱いしないわ。私を地下にでも閉じこめておくつもりよ。何の権利があって私の自由を奪うの」

「親としての権利でしょう」

「親だなんて思ったことない。私を育ててくれたのは、母様だけ」

「レイラ様は優しい方でした。私も大変世話になった。ただ――」


 ラルゴが一つ間を挟んでから、言い放った。


「親として見るなら、あなたを導くことは出来なかった。いまのあなたが、それを証明している」

「母様を悪く言わないで!」


 カナタが怒りを露わにする。

 それと同時に、ラルゴの顔が歪んだ。カナタを拘束しているラルゴの腕に、一匹の蛇が乗り移っていた。


 ルークだ。


 ラルゴがすぐさま手を振り払う。


「きゃっ」


 カナタは地面に転がった。


「正気か。己のしたことが分かっているのか」


 ラルゴの手首から血が滴る。


「うるさい! 母様を悪く言う奴は、みんな死ねばいいの」

「この程度の毒で私が死ぬとでも」

「ライガーのあなたなら死なないでしょうね。でもルークの毒は全身を駆け巡り、三日三晩は熱でうなされるわ」


 ラルゴの腕がみるみる青ざめてゆく。


「その前にあなたを連れ戻す」


 ラルゴは口で毒を吸い出し、腰に巻き付けていた布で腕をきつく縛り上げた。そして倒れているカナタに再び手を伸ばす。


「さあ、行きましょう」

「いや。近寄らないで」


 ラルゴがカナタの腕を掴もうと屈んだときだ。ラルゴの影とは別の黒い影が、カナタの頭上を覆っていた。

 ラルゴの兜に、渾身の両足蹴りが炸裂している。ラルゴの頭は弾かれたように後方へと吹き飛ばされ、ひっくり返った。


「ルイ君!」

「急ぐよ。準備は」


 カナタの身体を抱え上げ、ルイが尋ねる。


「あっち」


 ルイの腕の中で、カナタは答えた。その方角を確かめると、ルイは全速力で駆け出した。崖の先端にまで出ると、ルイは迷わず張られている一本の糸の上に飛び乗り、空を突き進む。ふたりの足下にライトブルーの川が広がった。


 ルイがバランスを少し崩した。


「うわっ、高い。これ大丈夫なの」

「急いでルイ君」


 とカナタが耳元でつぶやく。吐息が肩に当たるほどの距離だ。カナタはルイの背中越しに、ラルゴの姿を捉えた。追いつこうとしている。ラルゴも一瞬の躊躇こそ見せたものの、糸の上に飛び乗り、こちらへ駆けてくる。糸がさらに揺れた。


「ちょっと、とと、揺らさないで」

「先に渡りきって糸を切るの」

「分かってるけど、焦らさないで」


 ラルゴが指笛を鳴らす。空を見上げると、ピークが太陽を背に翼を広げていた。すごい勢いで落下してくる前触れでもある。


「何の音?」

「ピークよ。私たちの足止めをしようとしてる」

「ここで? それは困るよ」

「任せて。ピークは私の言うことも聞いてくれるの」


 カナタも指笛を鳴らした。

 ピークは西に生息する冠鷲グラマイーグルだ。生涯、仕える主は変えない。しかし、ピークは人語を理解するほど知性がある。ふたりの主から、相反する指示を送られ、ピークは大空を旋回し続けた。


「ピーク!」


 ラルゴが大声で叫ぶ。

 だがピークは指示に従わない。


「あの怒りよう、見てルイ君」

「楽しそうなところ悪いけど、動かないで」


 ルイが橋を渡りきり、対岸へ着地した。


「早く切って」

「いいの? 死ぬかも」

「死なないわ。化け物よ。ルイ君は知らないの」

「カナタ様!」


 ラルゴの怒声が響く。


「早く!」


 カナタの指示でルイは糸を短剣ダガーでぎりぎり切った。余りに固く、短剣が刃こぼれする。摩擦で熱を帯びて糸がとうとう、ぷつりと切れた。

 糸を切る間際、ラルゴは飛んでいた。

 弧を描き、こちらに迫り来る。


「この鬼が!」


 ラルゴの怒りは頂点に達する。カナタを鬼呼ばわりするのは、堪忍袋の尾が切れた時だけだ。


「しつこいな。こないで!」


 カナタも負けないくらい腹が立っていた。叔父の肩を持ち母を悪く言うラルゴとは生涯、価値観が合わない相手だ。


 迫り来る巨体が、着実に差し迫る。ぎりぎり届きそうな距離だった。

 カナタはとっさに腰に吊した本を手に取り、前に差し出した。開く必要もない。言葉は覚えていた。


息吹ル・リィビア


 唱えたとたん、背後から凄まじい勢いの風が吹き抜けた。

 カナタは背中を押され、前方へと投げ出される。


「わっ」

「カナタ!」


 ルイがとっさに右手を伸ばして、カナタの手を掴んだ。反対の手で大地に短剣を突き刺し、飛ばされないように踏ん張る。カナタの身体は先ほど渡ってきた崖の上から投げ出される。


「放しちゃ駄目だよ」


 ルイが自らの元へとカナタを引き寄せる。

 背後を振り返ると、ラルゴの身体は既に遠く向こう岸にまで吹き飛ばされていた。


「うおおおっ、なんだこれは」


 目を大きく見開き、混乱していた。ラルゴの身体は抵抗できないまま向こう岸の壁に激突した。激突する直前、右手に持った斧を岩肌に差し込んで衝撃を和らげる。斧にぶら下がる形で落下を防いだ。


 風がようやく止み、ルイとカナタは安全な崖の上へと戻った。


「ラルゴ!」


 カナタが寝そべった状態で、身を乗り出し、向こう岸へ呼びかけた。


「カナタ様、その力はなんだ! 説明をしろ」

「先生のことはお願い。私たちの庭で埋葬して」

「逃げるのか? 許しませんぞ。領主の想いがあなたは、なぜ分からない。この親不孝が」

「うるさい! さっさと帰って、先生を埋めて!」


 ラルゴがまだ何かを叫んでいたが、身体の重みとともに突き刺している斧が下にずり落ち始めた。岩肌は脆かったようで、斧がちゃんと奥まで突き刺さっていない。ラルゴの身体は、勢いを増しながら遙か崖下へ向けて、ずるずるずると落ちて行く。粉塵を巻き上げながら。


「おおおおおおっ」


 ラルゴが悔しそうな声で叫ぶ。

 その様子が少しだけ滑稽に見えて、カナタは思わず笑った。


「いい気味ね。すかっとしたわ」

「いまのはなに?」


 隣にいるルイも真面目な顔で尋ねてくる。よっぽど疲れていたのか、大の字になって、お腹を膨らませたり萎ませたりしていた。


「君はやっぱり魔女なの?」

「違うわ。これは、母様の本に書いてた、魔法の言葉」

「魔法を使うのが魔女なんじゃ」

「いいえ。魔女はこの力を邪悪なことに使うの。私はラルゴを追い払っただけ。それに魔女は不死よ。私は、ここから落ちたら潰れて死ぬの。必死よ」

「でも、それが使えるならなんで隠してたのさ」

「それは」


 カナタが言葉を切る。少し考えて返答した。


「あまり見せちゃ行けないって母様に言われたの。秘密にしないと、魔女と勘違いされるでしょ」

「他にも使えるの?」

「いいえ。音が分かるものだけ。たくさん使えたら、こんなに苦労はしないでしょ。箒に乗って旅するわ。でも、風を吹かせるだけであんなに危ないんじゃ、あまり使わない方がいいかも」

「分かったよ。それを信じる」


 ルイが深呼吸をした。


「殺されるかと思った」

「ルイ君すごいね。ラルゴがひっくり返って尻餅をついたところなんて、一度も見たことない。本当に強いのよ」

「たまたまだよ。反応が鈍っていたみたいだし」


 ルークに噛まれた影響だろう。ルークの毒は人間であれば一時間も持たずに命を奪う。耐性のあるライガー族ですら、戦闘不能にしてしまうほど、その毒は強力だ。いまごろ高熱でうなされているに違いない。


 遙か下方で、笛の音が響いた。上空で旋回していたピークが、一目散に崖の下めがけて降下を始める。


「大丈夫なの? あのラルゴって騎士」

「母様を悪く言った報いよ。ちょっと心配だけど。ルイ君ほら早く、森を抜けましょう」


 カナタは立ち上がると、ルイに手を差し出した。


「すごく気が重いわ。私もうカナタお嬢様じゃなくなっちゃったみたい。ただの一族の裏切り者ね。これじゃ、ニーアに顔向け出来ない。私のせいで」

「どういうこと」

「ニーアが私の身代わりになったの。あの子がカナタとしてどこかの国の皇子と婚約したって話」

「そうなんだ」


 カナタの助けを借りて、ルイが立ち上がる。


「でもそれって、正しい対応だと思うよ」


 とルイが言った。


「代わりがいれば、君が逃げ出したことは国には広まらない。それって君にとっては危険が減るよ」

「そんなのどうでもいいの。叔父は私が敷地を抜け出して清々してると思うわ。問題ばかり起こしていた娘がいなくなったんだから。どこかで野垂れ死ねばいいと思ってそう。私のことなんて気にかけてないわよ。ニーアを身代わりにしたのは、他国への顔色を伺っているから。それだけでニーアを犠牲にするの。叔父はとんだ外道よ。魔女よりたちが悪い」


 ふたりはまた崖沿いの道を歩き始める。日没までには、山を降りられそうだ。

 ルイが遠慮がちに、隣でつぶやいた。


「君は、問題を起こしていた自覚はちゃんとあるんだ」

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