13話 国境と追っ手

 初日の夜は洞窟を見つけて暖をとった。南の町オービはカナタが飛び出した霧の森ほど寒くない。しかし夜になると標高の高い山では肌寒さを感じる程度には気温が下がる。ルイはなるべく暖かく眠れる場所を見つけるのが得意のようだった。


 二日目の夜は山を一つ越え、山間部で夜を過ごした。もっとも緑が生い茂り、熊や鹿が生息している森だ。食料が豊富で、木の実やキノコを採取して腹の足しにした。小動物をルイの短剣で捌いて肉を焼いて食べた。味付けなどはない。食材を焼いて食べるだけで十分おいしかった。口に出来る食事と、口に出来ない毒物をルイが判別してくれる。


 小枝を拾い上げて、ルイがつぶやいた。


「ほら見て。実をかじった跡がある。ムササビが食事をした跡だ」

「よく気付くねルイ君」


 カナタが感心する。

 自らもモモンガのダニエルやフクロウのルーカス、リスのミリアと屋敷でたくさんの友達を飼育していたが、野生の動物の跡を見つけることはまた違った経験が必要なのだと、改めて気付かされた。ルイは基本的に小動物を狩りの対象として見ていた。狼の嗅覚が鋭いことにも驚かされた。


「森へ入るなら、これくらい出来ないとまずいよ」


 ルイが嫌みもなく、そう返事をする。時間とともに、カナタの中のルイへの信頼性がどんどん増していくのが分かった。


 三日目の日没が近づく頃、山の頂き付近にある壊れかけの山小屋を見つけて喜んだ。かつて正規の道が開拓されていない時代に作られた小屋のようだった。稀に旅人が利用しているのか、暖炉と薪はまだ使える。次第にカナタの体力がきつくなってきた。日中、ずっと山道を登り降りするのは骨が折れる。


 四日目の朝を迎え、山小屋を出発したカナタたちは、しばらく傾斜を登ったり降りたりを繰り返した。まもなく急傾斜の岩壁を登りきったところで、開放的な景色に望むことが出来た。


 眼下では白い雲がまだらに漂い、雲の隙間から隣国の荒野が一面に見渡せる。その中にぽつんとイェシアの町が見えた。


「あれだ」

「まだずっと遠いね」

「あそこに到着したら護衛はおしまいだよ」


 ルイが言った。


「ルイ君はその後、どうするの?」

「さあ。どうしよ。目的がないから」

「目的がないなら、その先も着いてきて」


 ルイは少し考えたかと思うと、首を横に振った。


「西へは行かない」

「どうして?」

「西の空気が苦手なんだ。戦争ばかりしてるし、魔女たちが至るところで悪さをしてる。僕ら一族だって迫害を受けた。そんな場所になぜ行くの?」


 ルイが尋ね返してくる。

 カナタは答えた。


「幼かった頃にね、母様から西の話をたくさん聞いたわ。私が眠るまで枕元でずっと。西にはね、この国にいたら一生会えないような種族がいる。動物や植物たちがある。島や町があって、不思議な風習がある。それを聞いて私もいつか旅をしたいって話してた。確かに戦争や魔女の悪い話もあったわ。呪いに覆われた土地もあるんだって。でも母様は西のことを素敵な場所だって話してた」

「それでカナタは故郷を飛び出したんだね」


 カナタは自信なさげにうなずいた。左肩に掛けている空蜘蛛の糸を反対側に掛け直し、付け足すように言った。


「本当はね、先生と一緒に旅をしたかったんだけど。でも私ひとりだって行くわ。お屋敷の中は不自由がなかったけど、一生あそこで暮らして死んでいくんだって考えたら、嫌だなって思ったの」

「僕には理解できないや」

「どうして?」

「僕はずっとみなと居たかった。家族と離れるなんて、考えられないよ。僕ら一族は特定の村を持っていないから、ずっと流れ続けてるんだ。どこへ行くにも家族や友達と一緒だ。でも、みんなと一緒に行けなくなっちゃった。家族の居る先が僕の居場所だったのに」


 フードの中で、ルイの耳が垂れた。

 カナタはルイが少し羨ましかった。ルイみたいに考えられたら、いまごろお屋敷の中で楽しく暮らしていたのかも知れない。


 ふたりは岩でできた椅子に腰掛け食事をとった。休憩を終えると立ち上がり、また歩き出す。

 道は下りばかりになり、側壁に沿って進んだ。


「ルイ君、ちょっと待って」


 足場が悪く、カナタの足が泥に埋まった。


「抜けないの?」

「見ての通り。えいやっ」


 引っ張り上げたら、足は抜けた。

 勢い余って転倒してしまう。


「やだもう……」

「足場が良くないから気を付けないと」

「ルイ君は疲れないの? 私、体力には自信があったのに。乗馬だって上手いのよ。召使いに追いかけられてもすぐ逃げ切れるし」

「僕ら一族はみんなこうだよ。おとなはもっと早く進む」


 ルイが手を差し伸べてくる。カナタはルイの手を取り立ち上がった。オービの町で見繕った栗色のズボンが泥で濡れた。

 離れた場所から徐々に地鳴音が近づいてくるのが分かった。


「落石だ」


 ルイが上方を指さして言った。大きな岩が急傾斜を転がり落ちてくる。その数は両手に余るくらい。落石の軌道は、山肌のでこぼこと木への衝突で減速したり、急に曲がったり不規則性を高めて読み切れない。


「乗って」


 ルイが背中をこちらへ向けてくる。カナタはうなずくと、ひょいとルイの背中に飛び乗った。

 岩の動きを目で追いかける。

 ますます迫ってきた。岩の大きさは、そこで初めて自分より大きいことを理解した。ぶつかったらひとたまりもない。

 ルイが膝を屈めて低めの体勢を取った。岩が軌道を変え、急にこちらに飛び出してくる。ルイの身体はそれよりも早く、反射的に跳躍していた。先ほどカナタたちがいた場所が、岩で沈んだ。


「まだだ」


 飛び退いた先へも他の岩が迫る。

 ルイがまた膝を曲げ、避けようとした、その時――。


 目の前で、巨大な岩がまっぷたつに割れた。


 ふたりの視線がその光景に釘付けになる。上空で落石に向かって斧を叩きつけている何者かがいた。

 割れた岩は左右に広がりながら、山の下方へと落ちてゆく。岩を砕いた巨大な斧が空から降ってきて、地面に突き刺さった。地が揺れるほどの重さだ。遅れて、全身鎧プレートアーマーに身を包んだ大男が、その場所へと降り立った。


 目の前の大男が、おもむろに兜を取った。百獣の王を彷彿とさせる血に飢えた眼光と、立派に蓄えられた白髭。青空の向こう側から一頭の大きめの鷲が羽ばたいてきて、その巨大な肩の上に停まった。


「もしかして、ラルゴなの?」

「カナタ様。ご無事でなによりです」

「やっぱりラルゴなのね。私は、おかげさまでこの通り元気よ。どうしてこんなところに……」


 言葉が尻すぼみになる。カナタが言いにくそうにしていると、先にラルゴが口を開いた。


「まさかですな。危険なこの山を越えようとするとは。おかげで探すのに苦労しました。なぜ私がここへ来たか、分かりますな」

「お願い。見逃して」

「なりません。侯爵からの命令です」

「誰?」


 ルイが尋ねてくる。

 カナタはルイに目の前の男のことを話した。


「彼は一族の騎士よ。母様の従兄弟のメーテル叔母様の騎士なの。若い頃は国軍の大将を務めていたわ。だから爵位もある」

「じゃあ味方なの?」

「それは、これから決まるとこ」

「護衛を雇ったのですね。賢明な判断だ」


 ラルゴが言った。

 そしてルイに向かって、頭を下げた。


「カナタ様の命を守って頂き感謝します。いくらの金で雇われましたか? もし不足があれば、より多くの褒美を与えます。さあカナタ様、帰りましょう」

「嫌よ」


 カナタが即答した。

 ラルゴが表情一つ変えずに続ける。


「残念ながら、あなたの意志は問うていない。さあ、そこの護衛の方。カナタ様を渡して下さい」

「なんて言ってるの? 教えて」


 ラルゴの言葉はルイには通じていない。

 カナタはラルゴのロスタリア語を、古代エト語に直して、ルイに伝えた。

 それを聞いたルイが、カナタに尋ねた。


「引き渡せって、どうするの?」

「守って。そういう約束でしょ」

「でも味方でしょ?」

「違う。私を連れ戻そうとする敵よ」

「たぶん、勝てない」


 ルイが首を横に振って答えた。

 無理もない。ラルゴは軍に身を置いていた頃、アルカナハトで一、二を争うほどの強者つわものと評されていた。あまりの強さに爵位が与えられ、バンキャロナール一族の森へと招かれた経緯がある。一線を退いたとはいえ、その強さは未だ衰えを知らない。


「私にいい考えがあるの。時間を稼げないかしら」


 カナタが少し間をおいて答えた。

 ルイの耳元に作戦を吹き込む。


「隙を見て、ね? どう?」


 しばらく黙っていたルイが、言い聞かせるように複数回うなずいた。


「分かったよ。嫌だけど。それしかないなら従う」


 ルイの目が鋭くなる。敵と対峙した時に見せる目だ。

 カナタはルイの背中から降りて、ルイから距離を取った。ルイは腰に納めている短剣ダガーを引き抜いて、構えた。


「やめておけ」


 ラルゴが警告する。


「あなたも戦士の端くれなら分かるはずだ。力量差がな」


 ルイが頭のかぶりものを取った。隠れていたふさふさの耳が、ひょこりと姿を現した。

「ほう、これは驚きだ。その耳、狼族ウェアウルフだったか。まさか、この時代に再び会えるとは感慨深い。戦場で一度見て以来だ。覚えているぞ、あの強さ。目に焼き付いて離れない。いやこれは、失敬した。言葉が伝わっていなかったのだな。良かろう。少し相手してやろうという気になった。幼いとはいえ、いい護衛を見つけましたな」


 抑え気味だが、ラルゴの気持ちが高ぶっているのが分かった。


「しかし残念だ。月が出るまで待ってやるほど、私は優しくないぞ」


 狼族ウェアウルフが強いと言われるゆえんは、その身体能力の高さだけではない。月が満ちる時、彼らは獣神へとその姿を変える。狼族は光の一族の末裔とされていた。


 ラルゴが巨大な斧を地面から引き抜き、大きく回して肩に乗せた。肩に乗っていた大鷲が空へと羽ばたいた。


 ルイが、相手の懐めがけて走り出す。カナタは、ルイの全速力を初めて目の当たりにした。想像以上に速かった。


 一息で間合いを詰め、斧を振らせる間を与えない。ルイは体格差が五倍はあろうかという巨大男の、鎧の手薄な足を短剣で狙った。ルイがくり出した刃先はくうを切り裂く。ラルゴの足が消えていた。


 右側面からラルゴの巨大な拳が迫っていた。その大きさはルイの頭から腰にかけて広がる。ルイは殴り飛ばされた。しかし、その姿は霧のように揺らいで、消失した。

 ルイはラルゴの後ろに回り込んでいた。ふたたび短剣でを素早く足に突き出す。足を止めて動けなくしてしまえば、逃げ切れると考えた。


 しかし、ラルゴの背後に隙はなかった。あえてルイに背中を晒したと思えるほど意図的だった。当初、斧を右で担いでいたラルゴは、ルイの前方からの初撃を交わすと、右拳をルイにくり出していた。それは右手から斧が既に離れていることを示している。背中で落下を始めていた斧は、いま、ラルゴの左手に持ち代わり、ルイの目の前に柄が突き出されている。ルイは眼前に迫る巨大斧の柄を紙一重で交わした。重心が崩れ、一瞬の無駄が生じた。その瞬間を逃す相手ではなかった。ラルゴの裏肘がルイの顔面に叩き込まれる。


 ルイの身体は幾本もの木の枝をへし折りながら、吹き飛んでゆく。その身体は、太い幹にぶつかって、ようやく地面に落ちた。


「っつぅ」


 ルイが痛みを堪える。


「なるほど。速さはあるようだ。しかし! 身のこなしがなっていない!」


 ラルゴが熱く叫んだ。


「重みもない。所詮は子供だ」


 ルイの元へと一歩ずつ近づいてゆく。道を塞ぐ樹木を斧で叩き切る。ひとたび斧を振れば、なんでも真っ二つになる。木はルイの方へと倒れた。

 ルイはおぼつかない足取りながらも一度退いて、ラルゴから距離を取った。木の上に登る。まるでライオンに追われている猿のようだった。


「恐れたか。無理もない。いや、言葉をたがえた。他の多くの戦士と同様、最初から恐れていたな。恐怖が深まったと言うべきか。言葉が通じていなくとも、身体から伝わってくるぞ。貴殿のいまの感情がな」


 ルイが枝から枝へと飛び移り、また距離を稼いだ。頭から流れ出る赤い血が、顎を伝い、滴り落ちる。


「まだやるのか? 見たはずだ。勝ち目はない。その貧弱な腕では私のこの鍛え上げられた強靱な肉体に致命傷を負わせることなど不可能。仮にだ、貴殿のその刃の先端が私の鎧の隙間に潜り込んだとしても、ライガー族の皮膚は硬くかつ分厚い。足を狙おうとも同じだ。致命傷には至らん。百も承知の上だ」


 ルイが何度も枝の上を飛び移る。


「足が震えているな。当然だ。この戦い、そちらに万が一にも勝ち目はない。それでも戦うか。なぜだ? 報酬が目的なら、褒美は弾むぞ」


 ルイに言葉が通じていない。

 ラルゴが苛立った様子で大声を上げた。


「カナタ様!」


 その声は遠くにいたカナタに届いた。


「先ほどから遠くでこそこそと、何を企んでおられるのですか。あなたは昔から悪知恵だけは働く」


 カナタが木の影から顔をのぞかせる。


「なにもしていないわ。ルイ君が勝つのを見守っているだけ」


 カナタはその場からほとんど動いていない。ただ、崖の向こう側へ何度か視線を送っていた。


「まあいい。どのみち私に見つかった以上、この森を抜け出せるなど、甘い夢を見ないことですな」


 カナタの返事はなかった。


「それよりこの狼族に伝えて下さい。褒美は弾むと」

「ルイ君はそんなもの欲しくないわ」

「あなたの意見ではない。この男の意志を確認したい。なぜこの男は、格上の私に戦いを挑む? 勝てると思ってはいないはずだ。あなたが間違った情報を伝えたんじゃないのか」

「しないわ、そんなこと。ルイ君は私の立派な用心棒よ」

「私はあなたの叔父に頼まれ、あなたを連れ戻しに来たのだ。いわば保護者だ。それを伝えてくれましたか?」

「ええ、もちろん。何が不満なの?」


 カナタがラルゴに尋ねる。


「目の前のこの少年が、もしあなたの口車に乗せられ私と相対しているなら、私はこの少年を手にかけることに抵抗がある。逃げるならば、さっさと逃げればよいものを」

「ルイ君は逃げないわ」

「その理由を聞いて欲しい」


 ラルゴの根は真面目だった。ルイが向かってくる理由が分からないのが嫌なのだ。


「じゃあルイ君に直接、聞けばいいじゃない。私が訳したげる」


 カナタがそこまで伝えると、ラルゴは枝の上に居るルイに向かって、再び話しかけた。


「ルイと言ったか。少年にしては悪くない動きだ。だが私と貴殿との力量差は歴然。なぜ向かってくる。褒美が欲しいなら弾むぞ」


 カナタは言葉を、ありのままエト語にしてやった。


「そんなものはいらない」


 ルイが否定する。

 ラルゴがそれを聞いて、また尋ねた。


「では、カナタ様自身が目的か? あの娘が何者か知っているのか?」

「知ってる。鬼だ。なんたらとかいう一族のことは知らない」

「おまえも鬼の角を狙うのか?」

「違う。僕は争いはしたくない」

「では、なぜ勝ち目のない戦いに挑む? 弱みでも握られているのか?」


 ラルゴの問いかけに、ルイが首を振ってから答えた。


「カナタと約束した。この森を抜けて、隣国まで安全に運ぶと。狼族ウェアウルフは約束を守る。卑怯な選択はしない。それだけだ」


 カナタの口から、その言葉を聞いて、ラルゴはうなずいた。


「なるほど。戦士としては悪くない返事だ。合点がいった。だがな、守る相手を間違えたと言わざる負えない。所詮は子供、そのような安易な理由でこの娘を国外へ逃亡させるなど、理由になっていない。貴殿はこの山の先にある危険を知っているのか? 西への憧れで連れ出してゆけるほど、そこの娘は軽くないぞ。それが鬼であり、バンキャロナールの血を引く一族だ」


 ラルゴの巨大な斧がまた振り抜かれる。正面にあった数本の巨木がなぎ倒された。その唸り声は、肉食動物にも似ていた。

 ラルゴが斧を担ぎ、今度はカナタに向かって声をかけた。


「ところでカナタ様。一つ、聞きたいことがあります。あなたの家庭教師のことだ」

「先生がどうしたの?」


 カナタが話に食いつく。思わず、眉をひそめてしまう。


「港町トルテナに立ち寄りましたか」

「先生は?」


 カナタが繰り返した。


「港町で亡骸が見つかったと報告がありました」

「……そう」

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