8話 母の記憶
「いい? 大人しくしているのよ?」
母が私の目の高さにまで腰を落とし、優しく微笑む。右手で私のぶらんとした両腕を捕まえて、念を押す母は、その会場がとても危険に満ちている場所であることを、私に伝えていた。
「レイラ様。時間ですぞ。さ、参りましょう」
ラット族の執事が呼びにきて、母を連れて行った。母の側にはなにも語らない一人の騎士が常に控えていた。
母は、重要な会議に出席していた。エルフたちが治める国の立派なお城に行ったのは、そのときが初めてだ。私は五歳だった。私たちは
その会場には各国の王や貴族、大司教様や名のある市民らが一同に会していた。アルカナハトの王様も、バンキャロナール家やトハイカレ家といった由緒ある鬼の一族も参加していた。
その国際的な会議は母が居なければ実現しなかった。正式な契約にあたって天使と魔女の両方が立ち会ったのは百年ぶりと言われている。母レイラの功績だった。母は顔が広かった。百を越える国から四三の種族が集い、半円形をした会場に設置されている蔦の絡まる木製椅子に、各々その身を預けた。
迷惑をかけないよう、私は広い会場の片隅で契約が交わされるのを静かに待っていた。当時、愛犬のメリーを腕にだっこして、いつも一緒に行動していた。極度のひと見知りで臆病者だった私が、たくさんの人たちが集まる場所に自ら行きたいとせがんだのは、それが初めての経験だ。純粋に大好きだった母の姿を見たいと思ったから。
「みなさま、よくお集まり下さいました。今日という日がこの大陸に平和の光をもたらさんことを、ここに強く願うばかりです。この貴重な機会を与えてくれたバンキャロナールの若き令嬢レイラ・バンキャロナールに感謝の意を表します。そしてこの地へお招き下さったハリの森の領主ラーマ王へ、その勇気を称えて、歴代サミットの慣例に則りここに真玉と盾を贈与します」
拍手が沸いた。
開会式の中、母レイラが発言台へと上った。片腕のない鬼の娘。レイラ・バンキャロナールの名は大陸中に知れ渡っていた。破天荒にもアルカナハトにある屋敷を飛び出し、世界を巡った娘。その先々で魔女を含めた多くの種族と友好を深めた。そして右肩に乗っている相棒の
発言台に立った母は頭を下げてから、力のこもった声で挨拶を始めた。
「西の大戦が起こり、各国は大きく分断されました。このように多くの国家が集うことも難しくなり、ただ
私はこの大陸に真に平和が訪れるよう、今日この集まりを呼びかけました。平和を願わない種族はおりません。魔女でさえ、この大地が滅びてしまうことを望んではいないのです。今日この場に招待したテディはそのことを教えてくれました。各国が話し合う場を設け、疑いを晴らすことで、これ以上の力の保有は無くすことができると信じています。
私たち鬼の一族は五百年前からずっと危険と隣り合わせで生きてきました。政略に巻き込まれ、多くの血が流れました。そして無数の命を奪ってきました。私はこれ以上の救いようのない争いを望んではいません。私たちの子孫に不自由を強いて、生きて欲しくはないのです。これは鬼族に限ったことではありません。この場に参加していない力のない種族たちが虐げられている様を、これ以上見過ごしたくはありません。この大地は誰が作ったにせよ、公平に分け合い、奪い合う世界であってはならないのです。どのような教えにも、種族の言い伝えにも奪うことを是としている教義はありません。この集まりが、みなの対話の場となり、天使と魔女の執行する正式な契約が結ばれることを強く信じて、私の話を終わります」
一礼して発言台から降りてゆく母の姿は凛々しかった。拍手の数はまばらになっていたが、私にとって母は正義だった。
話し合いの場が長引き、日が沈みそうになった頃、私はうとうとしていた。大人しかった愛犬のメリーもしびれを切らして、私の腕から飛び出した。
「メリー」
眠い瞼をこすりあげ、メリーを追いかける。必死にメリーが外を目指していたから、私はそれに夢中になって母の言いつけを忘れていた。
中庭にある庭園でメリーを捕まえた。
「メリーみて、ここすごく綺麗だよ」
滅多に吠えないメリーが珍しく吠えた。噴水の周りには、見たこともないような虹色に輝く薔薇が咲いている。私は思わず見惚けた。
「だめじゃないか。はぐれちゃ」
女の人がいつの間にか後ろに立っていた。私はその人を高く見上げて、メリーをぎゅっと抱いた。女の人の眼は闇に満ちたように漆黒で、赤いドレスを身に纏っている。細いウエストの下までだらりと垂らされた二本の腕は、どちらも手首から先が獣になっていた。長い爪が三本あって、絵本で見た竜族の手にそっくりだった。片方の手には、見たことのある大きな角が一つ握られていて、血が滴っている。
長い舌をしゅるりと出して、女の人が言った。
「頭のよい子が好きなんだ。一と二を足してごらん」
「……さん」
私は答えた。女の人はよくできたと嫌な笑みを浮かべた。
「でもお嬢ちゃんの数はもっとだ。三じゃない。もっとだ」
とっさに逃げようとした私を、素早く抱きかかえて女の人が高ぶった。
「逃がさないぞ。私と一緒においで、さあ」
もう一度、強く吠えたメリーが女の人の腕に噛みついた。
「メリー!」
「この畜生が、誰に楯突いてやがる。思い知れ!」
女の人はメリーを引きはがすと、竜の爪をいびつな形に広げて、聞いたことのない不気味な言葉を唱えた。開かれていた竜の爪をぐっと力を込めて握ると、メリーの頭はぐしゃりとつぶれて目玉が飛び出し、地面に胴体だけが転がった。
「いやあぁぁっっっ!」
私は暴れて恐ろしい女の腕から飛び出した。その爪先が私の頬に触れ、血が流れ出たことすらも気付かず逃げた。叫ぶ私に気付き、近くにいたエルフ兵たちが弓や槍を持って庭に駆けてくる。
「誰に招待された。異端者め」
「人の皮をかぶり、紛れ込んだか」
魔女はあからさまな怒りの表情を浮かべる。
「忌々しい。私と来る気がないなら、答えは三だ。利口に生まれなかったことを後悔しろ」
魔女が再び同じ呪いの言葉を唱える。爪がまたいびつな形に大きく、開かれてゆく。
メリーと同じように私も殺されると思った。
「さようなら、鬼の娘よ」
魔女の爪が握り潰される。
しかしその直前、魔女の握った三本の爪は、手首ごと宙を舞っていた。鎖帷子を身につけた騎士が、私の正面で静かに剣を抜いていた。
母の騎士だった。
魔女の手首から緑色の血が吹き出す。
「ぐおおぉっ! やりやがったな、下等種族が!」
悪魔のような形相になって魔女が叫んだ。叫声とともに、とてつもない邪気が空気中を渦巻いてゆく。
「この場に居る奴ら全員皆殺しにしてやる!」
魔女のドレスが引き千切れて、その姿は竜へと変貌してゆく。だが一転してその場に立ちこめていた邪気が吹き飛ばされた。竜の魔女はその姿を次第に竜から人へと巻き戻してゆく。呆けたような表情になったかと思うと、魔女はある存在に気が付き、舌打ちをした。
「くそ、バカなやつ。だがな覚えておけ。これは反逆だ」
魔女が誰かに向かってそう言った。空から降ってきた箒につかまり、その場から遠ざかってゆく。
「貴様のしていることはサタンの集会で私が必ず告発してやる。後悔しろ」
言い残して、魔女はその場を去って行った。
その後、三日間に及んだ会議は幕を引いた。世界中の国が正式な天使と魔女の契約を交わし、争いを減らすことに決めた。同時に鬼の権利と自由に関する共同の声明を出した。微々たる進展だとしても、この大陸への平和に繋がる大きな一歩だと王様が言っていた。
私は帰りの馬車の中でも、ずっと泣いていた。布にくるまれたメリーの亡骸を抱えて、涙が溢れ続けた。
「カナタ。あなたが助かって本当に良かった」
母の手が私の頭を優しく撫でる。
「帰ったらお墓を立てて、花を添えてやりましょう」
私はうなずいた。母の暖かな腕の中に身を寄せる。
「外の世界は危ないの。私たちはいつも誰かに命を狙われている。それを知ることができたなら、今日あなたが私についてきたことには意味があると思うわ。頬の傷なんて安いものよ」
もう行かない、と私は言った。二度と外の世界へ出たいなんて言わない。こんなことならお屋敷から出たくないと、私は話したのを覚えている。
母は黙って私の話を聞いていたが、やがて胸に埋めている私の顔を持ち上げるように起こして、目を見つめた。傷がまだ癒えない私の頬に優しく手のひらを添え、凛とした声で呼びかける。
「よく聞いてカナタ」
母の紅い瞳が、いつにも増して真剣になった。
「あなたは私のかわいい娘よ。そして鬼の一族の娘なの。さらわれそうになったり、命を狙われることだって当然にあるわ。だけど、それくらいで、自分の生き方を曲げてはダメ。外に出たいって、あんなに話していたじゃない。それを簡単に辞めてしまうの? 理不尽な力に屈してしまったら、喜ぶのは誰? あなたはあなたらしく生きて欲しいの。だから、自分の生き方を縛るのは辞めなさい」
母は自らの角につけていた角飾りを外して、私の小さな角に巻き付けてくれた。リングにはめ込まれた翡翠石が輝きを放つ。リングから伸びている銀色の鎖は、私の角にはまだ少し長かった。
「これはお守りよ。今はもう見せたりできない装飾品だけどね、五百年前には一族はみなこうやって角飾りをして平和に街を歩いていたわ。この翡翠石には精霊が眠っているの」
「死んじゃったの?」
私は尋ねた。
「いいえ。永い眠りについているの。あなたが大人になる頃、もっとたくさんの呪いが地上を覆っているかも知れない。でも、どんなことがあっても希望を見失わないで。このお守りがあなたを導いてくれる」
「平和にならないの?」
「なるわ。必ずなる」
母が私の手を強く握りしめる。
「あなたも大人になったら知るときがくるわ。その角と、あなたが背負っている大きな宿命に。でも信じてる。カナタは私の娘だから、必ず負けない子になるって」
母がいつもの優しい瞳になって微笑んだ。私は頭を撫でられながら、そのあとの馬車の中でも、やはりずっと泣き続けた。冷たくなったメリーを腕に抱いていると悲しみが絶えず沸いてくる。それでも母は私を止めはしなかった。何度でも泣いていいと教えてくれた。そうすれば早く受け止められるからと。
あの日のことを思い返す度に、私の右頬は小さくうずく。母の厳しくも優しい言葉とともに、自分に言い聞かせる。鬼の娘はもっと強くあらねばならない、と。臆病な自分を変えて、せめて弱さを見せずにたくましく生きて行こうと、何度でも心に誓いの旗を立てるのだ。
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