9話 狼族の少年

「……先生」


 床の振動でカナタは目を覚ます。目尻から一筋の涙が鼻先に向かって流れた。うつ伏せに眠っていたことを知り、顔の左半分が徐々に痺れ出してくる。両手の紐がほどかれていることに気付いて、膝を立てて身を起こした。


 荷馬車の中だ。

 檻の中でもあった。


 床は絶えず不規則な振動を繰り返していて、山道を走っていることだけ予測がついた。檻全体に白茶けた布が覆い被さっている。一カ所だけ中を確認するための小窓があって、そこから夕焼け色の光が斜めにまっすぐ差し込んでいた。

 床にパンが四つと赤い果物が一つ落ちていた。馬が二頭入れば十分なくらいの広さの荷馬車の中で、重そうな小樽が二つと、カナタと他にもうひとり、檻に背を預けてうずくまっている誰かがいた。これから売られるのだろう。


 気を失う前の記憶が甦ってくる。


「先生」


 また涙が溢れて数滴、床にこぼれた。カナタは感情に逆らえなくなり、うずくまって大声で泣いた。


「どうして。こんなお別れなんていや。お墓も、花も添えられない。どこで泣けばいいのよ。ハウエル先生」


 馬車の中で泣きたくなんてなかった。失ったものを思い出してしまうから。あの素敵な笑顔も、暖かい手の温もりも、自らの腕の中で暴れるメリーの小さな手足の感触だって全部忘れていたかった。また孤独になった。世界がどん底に落ちてゆくような気持ちになって、嗚咽が止まらなかった。カナタが泣いている間も荷馬車は走り続ける。山を越え平坦な道にさしかかる。夜になって小窓の光が差し込まなくなり、気が付いたらまた差し込んできていた。ひずめの音が止んだかと思うと、外で話し声が聞こえてきて、また走り出した。檻の中を誰かがのぞき込み、複数の人たちでなにか話をしていた。しかしまたすぐに単調な蹄の音が鳴り響く。小樽の中に雨水が入っていることを知り、顔を突っ込んで喉を潤した。しかしまたすぐに悲しくなってきて泣き出した。檻の外から怒りを露わにする声も上がった。カナタの泣き声が煩わしかったから。何度、この流れを繰り返したか忘れた頃だった。


 さすがに泣き疲れた。

 泣くのを止めたとたん、頭が冴えていた。


 カナタはのそりと身を起こすと、とりあえず立ち上がり伸びをした。

 パンが四つと赤い果物が一つ床に落ちている。全部隅っこに寄っていた。でも数は減っていない。誰も食べていないのだ。誰も食べないなら食べてしまえ、と思ってカナタはパンを一つ拾い上げ、かじり付いた。


 パンは固く不味かった。


「そうだ。冷静になったら、これは夢よ」


 カナタが口を動かしながら言った。


「ハウエル先生はいまごろ助かっているわ。あの後、助けがやってきたの。それで助かったの。そうよ。私ったら、なに早とちりしてるんだろ」


 パンを食べ終える。座り込み、今度は赤い果物の皮を剥いてかじり付いた。港で食べた時よりも随分、苦みが増していた。


「ところでこの馬車いったいいつまで走るのかしら? たぶん、南下してるの。だとしたらオービに向かっているのかしら。それからどうなるの? 売られるってことは、闇市かしら。聞いたことあるわ。他国にいろいろな種族を売り買いしている市があるって。どうしよう。でもこの檻、堅くて出られそうもないし。鍵がかかっているみたい」


 背中の檻へ手を伸ばす。太く頑丈な鉄でできた檻だった。


 ふと思い出したようにカナタは正面に目を戻す。当たり前にそこに馴染んでいるが置物ではない。売られそうになっているのはカナタだけではない。もうひとりいた。水を飲むか泣くかしかしていないカナタだったが、この長い時間、一度たりとも、目の前の誰かが動いたところを見ていない。カナタよりいくらか小さいその身体は、檻に背を預け足を三角に折り曲げて、顔をふとももあたりに埋めて微動だにしない。小汚いローブを頭から羽織り、同じくらい汚れた農夫が穿くようなズボンを穿いていた。


「あのー、起きていますか?」


 少し待ってみる。しかし返事はない。

 生きているかさえ怪しい。もしかすれば死体と一緒に夜を過ごしていた可能性だってある。それは気分が悪い。


 膝の前で結ばれている両手は、カナタの手よりも小さい。カナタは恐る恐る片手を伸ばして、手の甲に触れてみた。

 暖かい温もりがある。


「あのー、もしもし。起きていますか?」


 もう一度、呼びかけた。また返事がない。

 カナタは前屈みになり、やや強引な方法だと知った上で、相手の股下から顔を覗こうと試みる。足と足の隙間から、右目の目蓋と小さな額がうすらぼんやり見えた。


「あの――」


 三度目の呼びかけをしようと口を開いたときだった。陰の中にあった目蓋がぱっと開かれて、緑葉色の瞳が現れる。


「近づくな」


 と声がした。

 カナタは思わず身を引いた。やや思い巡らせて、自らの間違いに気付く。ロスタリア語で話しかけても返事がこないのは当然だった。子供のような声の主は、エト語を使っていたから。


 カナタは抑制が利かず、声の主のフードに手をかけた。力任せに引っ張って声の主の頭を剥く。


「おい!」

「やっぱり。あなた狼族ウェアウルフね」


 銀色の毛に、頭に生えた三角の耳。緑葉色の瞳をしている種族といったら狼族以外に考えられない。そしてレムリア大陸でかつて話されていたとされる古代エト語を知っているならば、なお合点がいく。


「さわるな」


 声の主がカナタの手を払いのけた。顔を持ち上げて続ける。


「おまえ、なんで言葉が分かるんだ。魔女か?」

「違うわ。覚えたのよ」

「覚えた? 俺たちの言葉をか?」

「ええ、ほかにも西で話されている言葉はだいたい分かるわ。私ね、たくさんの種族とお話がしたかったから覚えたの」

「なんだよそれ」


 怪訝な顔になる。見た目も言葉遣いも子供だった。カナタは少年の耳をじっとみて、その後、たまらず表情が綻んだ。


「わっ、やっぱり耳ってちょっと動くんだね。あらこれ、どうなってるの? ねえ、さわってもいい?」

「さわるなって言っただろ」


 手首を掴まれて、睨まれる。


「君の名前はなんて言うの? 私はカナタ。カナタ――」


 そこまで言って、カナタはためらった。


「ええと、カナタ・モンドメールよ」

「おまえに名乗る名はない」

「どうして。私、名乗ったのに」

「おまえと関係なんて持ちたくない」

「おまえじゃないわ、カナタよ」

「そんなの知らない。あっち行け」

「そんな言い方ないじゃない」


 カナタは唇を尖らせる。なんとしても少年の耳を触ってやりたくなって、反対側の腕も伸ばした。素早く繰り出したはずだったのに、少年はあっさりと余っている腕でカナタの手首を掴み返してくる。力任せに押しても、岩のように動かない。少年の目が鋭くなった。


「分かったわ。諦めるから放して。ごめんなさい」


 肩を落としカナタが言った。少年の手から力が抜けてゆく。


「狼族が大陸で一番強いっていうのは本当なのね」


 少年からの返事はない。


「ねえ、あなたずっとここに居るの? いつここに入れられたの?」

「それに答えたらなにがあるの?」

「なにがあるって、別になにもないわ。なにか欲しいの? それじゃパンをあげるわ」

「バカにするな。僕が言ってるのは、その質問に答えると意味があるのかって聞いてるの」

「意味? 意味なんて、ないかもだけど。私が知りたいだけじゃだめなの?」

「だめ。意味のないこと話しかけないで」


 カナタは閉口した。こんなにも、可愛いげのない少年を始めてみた。部屋で飼っていたモモンガのダニエルですらもう少し友好的だ。お腹をさすってやると可愛い声を上げて鳴く。この少年は耳も触らせてくれない。


「ねえ、じゃあもう一つ聞いていいかしら?」


 カナタが再び顔を近づける。


「いやだよ」

「お願い」

「あっち行ってよ」

「答えてくれたら、あっち行く」


 迷惑そうに眉をひそめる少年。許しを得たと解釈したカナタが矢継ぎ早に尋ねた。


「私って何日くらい泣いていたっけ? ずいぶん遠くまで走ってるみたいだけど」

「七日」

「よく覚えてるわね」

「朝になったら光が入ってくるだろ。数えてるんだよ」

「あら、全く動かないと思ったら。まじめな性格ね」

「言い方が気にくわない」

「そんなことないわよ。どうしてそんなに邪険にするのよ」


 カナタはむっとなって、軽く床を叩いた。


「だいたい私ずっと泣いていたのよ? 七日も。普通はね、レディが泣いてたら、どうしたんですかって声かけるのが紳士だと思うのよ。あなた蚊ほども動かなかったわ」

「どうでもいいよ。どうせ売られるのがイヤで泣いてたんでしょ」

「違うわ」


 言葉に力がこもる。


「もっと悲しいことがあったの。子供のあなたには分からないわ。この深い悲しみが」


 少年がじっと黙りこむ。楽しくなさそうな顔をしている。


「好きな人に裏切られたの。いいえ、ずっと騙されていたの。私、ばかみたい。それでその人が目の前で、殺されそうになってね……」

「死んだの?」


 少年の言葉に、カナタは胸が詰まった。呼吸を整えて、なんとか落ち着こうとする。深いため息をついた。


 少しの沈黙の後、気持ちを切り替えたカナタは、目の前の少年の耳めがけて、両腕を素早く繰り出した。


「えいやあっ」


 カナタの両手はあっけなく捕まる。


「うそ、いまのは早かったと思うのに」

「遅いよ。こんなの止まってるのと変わらない」

「やっぱり、狼ってすごいのね!」

「どこがだよ。バカにするな」


 目の前にある少年の耳が少し垂れた。少年は見るからに卑屈そうな態度で、悲しい目をしていた。


 また無益な押し合いが始まろうとしていたそのとき、目の端になにか動くものがちらついた。顔をそちらに向けてみると、右手の床にとぐろを巻いて一匹の蛇がこちらの様子を伺っていた。


「ルーク!」


 カナタはすぐさま駆け寄った。


「あなた無事だったのね。ごめんなさい私、はぐれちゃったと思ってて」


 手を差し出すと、しゅるしゅると腕を登ってくる。懐かしい感触だ。

 ルークは口元に光るなにかをくわえていた。それをみてカナタが高い声を出した。


「わっ、あなたこれ、鍵ね」


 鍵を受け取り、ルークの頭を撫で回す。


「よくやったわ。えらい。ルークはやっぱり利口ね。救世主よ。これで檻から出られるわ」

「おい、なにしてる!」


 怒声が響く。何事かと振り返ると、少年が立ち上がり、両手を広げて威嚇の姿勢をとっていた。


「どうしたの。そんな大声を出して」

「落ち着いてる場合じゃないだろ。危ないぞ」

「危なくないわ。友達のルークよ」


 手前に差し出して紹介する。少年が一歩後ずさり、声を震わせた。


「信じられない。蛇は邪の力を持ってる。おまえやっぱり魔女だろ」

「失礼ね。ルークにそんな力ないわ。ただの毒蛇よ。でもお利口だから安心して」

「おまえのにおい、さっきから――」


 少年は小さな鼻を使い、周辺を注意深く嗅ぎ始める。


「やっぱり邪のにおいがする」

「残念だけど、あなたの鼻はまったく役に立ってないわ」


 カナタが顔をしかめて反論する。


「そのローブかなり臭いの。気付いてないでしょ? 川で洗ってやりたいくらい」

「うるさいな。いまはそんなこと、どうでもいいんだ。答えろ。おまえ魔女だろ」

「いいえ違うわ。まるで審問官みたいね。魔女かどうか何回も聞いてくる。西の国々が滅びたのもそれが原因だって教わったわ。むやみに誰かを疑うのは良くないことよ」


 カナタは右手を左肩に回し、ルークを首元に移す。被っている頭巾を後ろに降ろしてやると、ルークは大人しくいつも通りの場所に、カナタの左角にするすると巻き付いて姿を隠した。


「鬼?」


 その光景をみた少年の口からこぼれる。カナタはうなずいて答えた。


「そうよ。私は鬼よ。この国の、アルカナハトのバンキャロナール一族の娘なの。でも魔女じゃない。これは信じてちょうだい」

「だから売られるのか」


 カナタはもう一度うなずいた。


「あなたも同じような理由じゃない」


 そう言ってカナタは、扉のあるところまで近づいてゆく。荷馬車の側面に南京錠が取り付けられている。外に手を回して、鍵をはめた。


 がちゃりと音がして、鍵がはずれた。


「やった。ねえ、ここから飛べば降りられるわ」

「無理だよ」


 少年が首を振って否定する。

 その言葉を無視して、カナタは檻を覆っている厚めの布をそっと開けてみた。夕日が手元に落ちる。山道を走っている様子が分かった。しかしすぐ頭を引っ込めた。

 荷馬車の後続にもう一台荷馬車が見えて、そのさらに後方に、いくつもの馬が見えた。


「だから言っただろ」


 と少年の声。


「大勢居るわ」

「当たり前だよ。何日も走るんだ。山賊に襲われないように傭兵を雇ってる。おまえが乗せられた街で二人増えた。そいつ等が一番腕が立つ」

「どうしてそこまで詳しいの」

「音が聞こえるだろ」


 カナタは耳を澄ました。しかし自身が乗っている荷馬車の音のほかに、よく聞いたら遠くの馬の蹄の音がかろうじて聞こえる程度だ。狼族は耳がいいと聞く。

「ねえ、あなた強いんでしょ? 降りて戦えないかしら」

「どうして僕まで行くことになってるの。武器がないよ。ましてや、僕じゃ勝てない」

「そうよね。ごめんなさい。でも、逃げるなら一緒がいいわ」

「行かないよ。勝手に行けよ」

「どうして? このままだと売られちゃうんだよ。奴隷になるのよ」

「それがどうした」

「奴隷になると一生自由がないのよ。あなたそれでもいいの?」


 カナタの問いに、少年は少しためらい気味に答えた。


「だからなんだよ。希望なんてなにもないんだ。自由なんてあっても、使い道がない」


 カナタは狼族が少数部族で、様々な場所で迫害にあっていることを思い出した。この少年も行き場を失ったのかも知れない。


「あなたは信用できると思ったの。だから私がついてきて欲しい、だけじゃ理由としてだめ?」

「どの辺りが信用できると思ったの?」

「大人は信用できない。みんな嘘つきだって学んだわ。でもあなたは、ほら、子供でしょ?」

「バカにしてるの?」

「それに、こんなところで売られそうになってるなんて、私たち似たもの同士よ」

「いい加減にしろ」


 少年の語気が強くなる。


「おまえになにが分かる。ずかずかと俺の心に踏み込んでこようとするな」


 少年が頑なに拒んだ。刺すような鋭い瞳の中、揺れ動く感情が垣間見えた。悲しみに似た別の感情だ。カナタはそれ以上、返す言葉を見つけることが出来なかった。


 沈黙が流れる。


 道が次第に険しくなり、荷馬車が右へ左へと揺れた。山頂にさしかかったようだ。カナタは水の流れる音を聞いて、再び鍵の開いた扉から、顔を覗かせた。


「橋よ」


 少年に報告する。


「ねえ、ここから飛ぶの。そしたら追っ手は来ないわ」


 身を丸めている少年は反応しない。カナタは少年の腕を掴んで引っ張った。


「ねえきてよ」

「何だよ、掴むなよ」

「ほら、見て。ここから飛べばいいの」


 少年を扉の前に連れて行き外を覗かせる。

 桟橋の下方に渓流が広がる。


「なに考えてるの。高いよ」

「でもここしかないわ。ほら、橋が終わっちゃう」


 カナタが少年の背を押す。


「冗談言うなよ、下手すると死ぬよ」

「ひとりじゃ怖いの。一緒に飛んで」

「バカ言うな、ふたりでも怖いよ」


 檻の両端を掴んで少年が踏ん張る。


「どうせこのままじゃ売られちゃうわ」

「いいよ、それで。どうせ逃げてもろくなことない」

「嫌よ。売られてまたどこかに閉じ込められるなんて、私なんのために屋敷から逃げ出してきたのか分からないじゃない。お願い一緒に逃げて」


 懇願する。しかし少年は強い力で、それを拒否した。


「無駄だよ。そんな力で押しても動かない。押したって僕は――」


 少年の身体が痙攣を起こしたように跳ねた。


「わっ」


 少年の肩にいつの間にかルークが乗り移っていた。

 両手が檻から離れる。


「うわーっ、気持ち悪い!」

「きゃあっ」


 ふたりはつまずいて頭から勢いよく落ちた。桟橋の脇に身を打ち付けて、転がった勢いで真下にある川に飛び出す。ふたりの身体は離れた。

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