7話 商人

 海水を頭から浴びせられ、カナタは目を覚ました。意識が朦朧とするのを我慢して身を持ち上げる。両腕は後ろ手になにかで縛られている。調理場で嗅いだことのある臭いを鼻で感じ取り、そこが陸揚げされた魚たちを並べる保管庫のような場所だということに気が付いた。


「目が覚めたかい。カナタ」


 ハウエルがこちらを見下ろしている。


「先生どういうこと? 私、気分が悪くなって倒れて、それから」

「説明は不要だ。見たままの状況だよ」

「ここはどこ? なにも分からない。腕が痛い」


 カナタは重い身を持ち上げようとして、前のめりに転んだ。ハウエルの靴が一歩ずつ、前に近づいてくる。


「先生。どうして私は縛られているの? ほどいてよ」


 ハウエルからの返事はない。


「どうして黙ってるの? 先生。助けて」

「助ける? バカを言うな。おまえは誰を助けた? 私の姉の命を奪い、故郷を滅ぼした憎々しい鬼の一族め!」


 振り上げられたハウエルの右足が、カナタの腹部に容赦なく落とされる。カナタの口から嗚咽が漏れ、反対側に転がった。


「……痛い。先生止めて。どうして」


 かがみ込んできたハウエルが、カナタの首もとに両手を回す。そのまま力任せに、宙に引っ張り上げられた。


「苦しい、先生」

「二十年だ。おまえたち一族に復讐を誓ってようやくこの日が来たんだ。俺がどれだけこの日を待ちわびたと思う。おかげで一睡もできなかったよ。ああ、憎い! その忌々しい角を持ったお前が憎い。このまま首をへし折ってやりたい」


 ハウエルの見たこともないようなおぞましい表情を見て、頭が真っ白になる。カナタは息ができず、必死でもがいた。


「その手をどけろ。そいつを殺したらなにもかもが台無しだ」


 どこからともなく聞こえてきた男の声で、ハウエルの目に正気が戻る。

 カナタは床へ投げ飛ばされた。

 顔がこすれて肌が熱くなる。止まっていた呼吸が戻ってきて、激しくむせ返った。身体中に悪寒が走り、腹からこみ上げて来たものを抑えきれずに、嘔吐した。


「おい。扱いには気をつけた方がいい」


 男の声がする。


「その角が暴発でもしたら、どう責任を取る。みな消し飛ぶかも知れないんだぞ」

「暴発? そんなこと起こり得ると思っているのか。鬼の角なんてそこらにある鉱石と大差ないことを知らないのか。おまえたちは触ったこともないんだろ」

「そうなのか。いいことを聞いた。なんせ見るのも初めてだからな。心が躍っているよ。だが恐怖もある。いずれにせよ、丁重に扱うに越したことはない。鬼は凶暴な者も多いと聞くからな」

「ふん。伝聞に惑わされているとも知らずに。無知なやつらめ」


 ハウエルが吐き捨てる。


「鬼の素性を知るものは少ない。だからこその協力関係だ。おまえが鬼を連れて来ると言うから、高い馬車も貸してやったんだ」

「感謝しているよ。これで悲願が叶う」

「ハウエル。久しぶりに顔を合わせてみたら人が変わったような口振りだ。復讐を前にして壊れたんじゃないだろうな」


 別の男の声が、カナタの耳に届いた。

 小屋の入り口付近に立っていたのは、二人の商人風の男たちだった。一人は濃い口髭を生やした小太りの男で、もう一人は長身細身で頭にハネツキ帽を乗せている。


「先生その人たち」


 カナタが苦しそうに言った。


「君を国外へ運び出してくれる僕の仲間だ。話していただろう」

「その人たちに命令されていたのね」

「なにをだい?」


 首を傾げるハウエル。


「僕がなにを命じられていたと?」

「だってそうじゃなきゃ、こんなひどいことするはずがないもん。私の知っている先生は、暴力を振るうような人じゃない」


 ハウエルの口調がいつもの優しいものになった。


「カナタ君。どうやら君の頭の中は、まだお花畑でいっぱいのようだ。一刻も早く刈り取った方がいいよ。君は無知すぎるんだ。その自覚もない。君の知る僕とは、いったい誰のことを指す? 君の知っているハウエル先生とはなんだ? お前は、私のなにを知っている? 十年だ。私は君が五つの頃から十年間民族史や生物史を教えてやった。しかしそれは復讐のために作り上げた偽物の僕の姿だ。君にとっての十年間は人生の多くだったかも知れないが、僕にとっての十年間は僕の人生のごく一部でしかない。君は私がどのような人生を歩んで来たかもろくに知らないくせに、なにが分かるというんだ」


 冷たく突き放された言葉だった。カナタは思わす首を振る。


「嘘よ。嘘だと言って」

「嘘なんて今更ついてどうする」

「私をお屋敷から連れ出してくれたのも、外の世界を見せてくれるためだって」

「見せているじゃないか。これが世界であり、現実だ。君を連れ出したのは他でもない、私の復讐のためさ。君の家族が暮らしているあの屋敷と、この国をむちゃくちゃにしてやるためさ。私の故郷がそうされたようにね。君は知らないから教えてやる。私の故郷を奪ったのは、君と同じ血を引くバンキャロナール一族の、鬼の角さ」

「そんな」

「私の家族は犠牲になった。西の大戦でな。おまえたち鬼の一族は争いを生み出した元凶だ。その残虐な武器で多くの人々の命を奪い、私の故郷を消したんだ。私から姉を奪った。やり返されても文句は言えないはずだ。君のその頭についている角を使ってやる。君はいくらでも生み出すことができる。そうだろこの身体があればな」


 カナタの腹部に片足を乗せ、ハウエルが言い放った。


「鬼の石を増やすんだ。それが貴様の役割だ。生み出した数だけこの忌まわしい国へ石を投じてやる。どこへ逃げようともみな殺しだ。相手は誰がいい? その辺の物好きな男どもでいいさ。待てよ君が望むなら私も手伝ってやろう。たくさん子を産め。この道具が!」


 カナタは熱い涙が己の頬を伝うのを感じた。


「あなたはハウエル先生じゃない。先生はそんなひどいこと言わない」

「知っているよ。君は偽物の僕が好きだったんだろ。せめてもの情けだ。僕の子を産めるなら少しは嬉しいんじゃないのか? そして後悔しろ。あの森を自ら飛び出してきたことをな。己の無知とわがままのせいで、家族を皆殺しにされることを。いいかい。君にハウエル先生として、善良な師として一つ教育してやろう。大人はみな嘘つきだ。本音なんて見せちゃくれない。だから信じるほうがバカなのさ。よく覚えておくんだ」


 カナタの腹部を足で踏み付けながら、ハウエルが甲高く笑う。母の顔を思い浮かべて、カナタは胸がいっぱいになる。あまりの苦しさに現実感は遠のき、夢を見ているような感覚に襲われた。さもなければ心が壊れそうだった。

 そのとき、耳をつんざくような激しい音が、部屋中に響いた。


「ぐっ」


 静けさの後、ハウエルが胸を抑え、膝から崩れ落ちた。


「見たか。これはすごい」


 声の主に目をやると、小太りの男の左手に見たこともないほど小さなマスケットが握られていて、その先端からは一筋の煙が立ち昇っていた。


「なにを」


 ハウエルが声を絞り出す。


「これか? 仲間から流してもらった新しい武器だ」

「俺を狙ったのか」

「外したと思っているのか? 違うな。この短銃は飛んでいるハエの眉間にだって弾を打ち込める。ほら見ろ、この刻印を。鍛冶師バロンの蜂の印だ。帝都ヴェネスで魔女に魂を売ったとされる男だ。おまえも名前くらいは知っているだろう」

「なぜ撃った」


 うつ伏せに倒れたハウエルの胸部から、じわりと血が広がり始める。溺れそうなほど大量の血を吐き、苦悶の表情を浮かべた。


「……どうして」


 かすれ声で問いかける。

 太い方の男がハウエルの元に歩み寄り、静かに答えた。


「俺たちはおまえの復讐なんて興味がない。大国に戦争を仕掛けるだ? 損しかしない。俺たちは商売をやっているんだ。つまり俺たちの目的はもっとシンプルなものだ。金だ。一生遊んで暮らせる金があればそれでいい」

「裏切るのか。どうして」

「その答えはもう出ているはずだ。お前がさっき口にした通りだ。これが現実だ。お前はたかだか五年俺らとつるんだくらいで、俺たちが本当に君の復讐に協力してくれる仲間とでも思ったのか。大人を簡単に信じちゃいけない。みな本音を隠して生きている。今日でお別れだミスターハウエル」


 倒れているハウエルに再び銃口を向ける。胸からはどす黒い血が流れ出していた。


「止めて! 先生!」


 カナタがハウエルの上に覆い被さった。


「嬢ちゃんそこを退け。君を騙し続けていた悪党を庇うのか? 理解できん」

「あなたたちの方が悪党じゃない! お金のためにこんなひどいこと」

「似たもの同士だ。その男が嬢ちゃんにしたことは許されることなのか?」

「違う、先生は……」


 カナタは言葉を詰まらせた。


「退いてくれ。君に守られる筋合いはない」


 ハウエルがカナタを押し退けるように身を転がし、天を仰いだ。先ほどまでの恐ろしい復讐者としての顔はなりを潜め、いつもの優しいハウエルの顔に戻っていた。


「私のような悪人はろくな死に場所がない。その通りだ」

「先生ごめんなさい」

「なぜ君が謝る。なぜ泣いている」


 大粒の涙がハウエルの胸元にこぼれ落ちる。


「私先生のことなにも知らなかった。家族のことも、故郷のことも、私に話してくれたことがあったのに。一族のことがこんなにも嫌いで、私のことも、私たちの国もそんなふうに恨んでいたなんて、なんにも知らなかった。それなのに私、ひとりで浮かれて」

「憎いよ。憎い。やり場のない感情が絶えない。君のことも。頭では分かっていたさ。こんなことをしても、なにも戻ってこないことは。知ってたさ。でも駄目なんだ。感情が言うことを聞いてくれなかった。復讐の念が、どこまでも追いかけてくるんだ。殺せ、殺せと。絶えず怒りが膨らむ。石に触れた、あの日からずっと。自分の中に眠る狂気が、私をおかしくしてしまった」


 消え入りそうな声になる。


「夢に出るんだ。父と母が。大好きだった姉が。毎晩のようにね。辛いと、僕に心情を伝えてくる。仇を討たないと、みなの魂は報われないと思った。だから、なにを差し置いても、私の愛した家族のために、復讐者であり続けたかった。二十年安らかに眠れた日なんて一日もなかった。ずっと恐怖との戦いだ。僕の幸せは誰も望んじゃいない。ただ使命を。仇を討たねば。それだけを考えて走り続けてきた。君に少しでも情が移れば僕は駄目になる。壊れてしまう。それが怖かった」

「ごめんなさい」

「謝らないでくれ。僕は君にひどいことをした。当然の報いだ。それにもういいんだ。ようやく安心して眠りにつけそうだ。何年ぶりだろう。こんなに心が落ち着くのは。全てを晒せた。母と父と、優しかった姉の元へ行ける。ああ、思い出すなあ。あの頃の幸せだった日を。もう誰も恨まなくて済むんだ。だから、どうか泣かないでくれ」

「先生死なないで。いや、私を残して行かないで。ひとりにしないで」


 カナタが泣きじゃくる。


「その男はもう助からない。嬢ちゃんは俺たちの商売道具だ。さあ来い」


 肩と腕を捕まれ、ハウエルの元から引き離される。もう一人の男と二人で強引にかつぎ上げられた。


「止めて放して。先生、ハウエル先生!」


 天を仰いでいるハウエルは、ぐったりとして微動だにしない。床に広がる血溜まりの中、目を見開いたまま魚のように事切れていた。


「よおし、今日は大物が獲れた! 鬼の娘だ。どこの国も喉から手が出るほど欲しがるぞ。こんな腐った時代に、女神が俺たちに微笑んでやがる。血の涙を流してな!」


 カナタは絶叫とともにショックで気を失った。

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