5話 港町
「船を出してもらえない。まいったよ」
扉を閉めるなり、ハウエルが肩を落とした。
どうやら市場から戻ってきたらしい。
「なにかあったの?」
目を覚ましたばかりのカナタが、おもむろにベッドから身を起こし尋ねる。
「北の海域が荒れているらしい。海鳥の様子がおかしいって船員も話していたよ。こんなに晴れているのに一隻も出航しないんだ」
「なんだ。てっきり私たちのせいかと思ったわ」
立ち上がったカナタは、部屋の中央にあるテーブルにまで寄っていき、そこにある木製の椅子に腰を下ろした。
トルテナという交易都市を訪れていた。トルテナは北側を海に、南側を山に挟まれている賑やかな街だ。山から流れてくる川が何本かあって、その合流地点がこの港町として栄えている。カナタたちは何本かある川の中で最大の水量を誇るギフズ川沿いを三日間、馬を走らせて、この町にたどり着いていた。
「気楽な話じゃないよ」
とハウエルがぼやいた。テーブルの上に巾着袋を置いて続ける。
「海路が使えないとなると、陸路で国境を越える必要が出てくるんだ」
「どう進むの?」
「南下する。オービっていう町があるんだ。その町に隣接している山を知ってるかい?」
「ハレー諸島は聞いたことあるわ」
「そうだね。あそこまでなら門所を避けて進める」
「長いの?」
「荷馬車を引いて十日はかかる。今のうちに体力を温存しておいた方がいい。よく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまで。先生は? 休んでないでしょ」
「僕は大丈夫」
「嘘よ。無理してる。だってここに来るまでの間、先生が眠っているところ見てないわ。泊まっていかないの?」
「それは難しいかな。国境を越えるまでは安心できないからね。ひとまず食事にしよう」
そういってハウエルが巾着袋からパンと赤い果物を取り出す。
それを見て、カナタは立ち上がった。
「紅茶を入れるわ」
「いや君は座っていてくれ。ほら。僕が入れるよ」
ハウエルに肩を押され、カナタはまた椅子に腰を落とした。
「私もなにか役に立ちたい。こう見えてロレッタさんから色々と教わってるんだから」
「大丈夫だよ。君の手を煩わせたくない」
「煩わしいなんて思ってない。いつまでもお嬢様扱いされるのは嫌なの」
カナタの言葉を聞いてハウエルが軽く笑う。その後、暖炉の端で二つのカップに紅茶を注いでくれた。
そわそわしているカナタの元にハウエルが戻ってきて、縁が少し欠けているカップをテーブルの上に二つ並べる。宿の食器はおんぼろだ。
「先生、やっぱり疲れてるでしょ」
ハウエルの手が小刻みに震えていることに気付いた。寝る間も惜しんで馬を走らせてきたのに、また南へ長旅をするのだ。その顔からも焦りの色が伺える。
「荷馬車は私が走らせるわ。だから休んで」
「ここから南へ行くなら、人を雇った方がいい。まだ準備してきた資金もあるしね」
「じゃあ先生は休めるのね?」
「そうだね。君がそこまで言うなら休むよ」
「それを聞いて安心した。私はさっきたくさん眠ったから、すっかり元気」
紅茶の香りで空腹を思い出す。カナタはパンをちぎって口に運び、続けて赤い果物の皮を手で剥くと、それにかぶりついた。
ハウエルの視線が気になったカナタが、ごまかすように言った。
「一度、やってみたかったの」
「メイド長に見つかったら怒られるよ」
と冷やかされる。
「ここにロレッタさんはいないわ。先生まで私に作法をうるさく言うの? あんなもの屋敷の外では通用しないの」
「君は正直だね。少し羨ましいよ」
「全然正直じゃない。私だって悩み事の一つや二つ、いいえ、もっとあるわ」
強めに反論するカナタ。
それを聞いてハウエルが優しく微笑んだ。
「街の食事はどうだい?」
「お屋敷で食べる方がおいしい。でも、この果物は嫌いじゃない」
「はは。厳しいな」
「でもいいの。街の人たちの生活を知れて楽しい。これはなんの紅茶なの?」
「南方にあるかやの葉からとった飲み物さ。船で運ばれてくるよ」
「へえ、少し苦いけどおいしい」
カップの中の飲み物を口に含んで味わう。
「よかった。新しい生活にも早く馴染めそうだね。さすがだよ」
「いまね、夢を見てるみたい」
カナタの口から、そんな言葉が漏れた。
「どうして?」
と尋ね返すハウエル。
「だって、こうやって先生と――」
そう言いかけて、言葉尻を濁してしまう。カナタは言い直した。
「いえ、あの屋敷を抜け出せて清々してるの。私、なにも知らなかったんだなって思うもの。それが楽しい」
「君は好奇心が強いからね。西へ行けば、君の価値観はもっと変わるよ」
「今からわくわくしてる」
「それなら僕も一安心だ」
ハウエルがほっとした表情になって、パンを口へと運んだ。
「何年前だろうね。君が屋敷からいなくなって、大騒ぎになったことがあっただろう」
「十歳の時じゃないかな」
「そう。レイラさんを失って君がずっと落ち込んでいた時期だよ。僕が森で君を見つけたんだ。あのときのこと覚えているかい?」
「先生に泣きついてたっけ」
「あの場所で君の夢を教えてもらって、力になりたいと思ったんだ。外の世界を見せてやりたいってね」
「母様みたいになりたいって、言ってたあれ?」
「そうだよ。レイラさんは僕にとっても希望だった。本当に世界を変えてしまいそうだと思えた。まだ生きていたらと思うと」
そこでハウエルが言葉を切る。
カナタはかぶりを振って、それを否定した。
「あれは子供の頃の話よ。大それた夢。私が母様みたいになれるとは思えないわ。いまはただ、もっと外の世界を旅したい。本当よ?」
「そんなことはないよ。カナタ君を見ているとレイラさんのようになれる気がしてる。自信を持っていいと思うよ」
師に励まされ、カナタは母の顔を思い浮かべた。母レイラは自分にとって遠い存在で、あこがれの念が強かった。各国の王や貴族を前にしても凛とした佇まいを崩さず、大陸の平和を切に願っていた。あらゆる種族が公平で憎しみのない世界を作るために戦っていた。一方で、カナタの前でだけ見せてくれる母親としての笑顔が忘れられない。
カナタはしんみりした気持ちになって、パンを食べる手を止めていた。
「ねえ先生。ハウエル先生」
と師に話しかける。
「どうしたんだい。もうお腹いっぱいかい?」
「違うの。もし私が母様みたいになるって言ったら、応援してくれる?」
「もちろんだよ」
「なにをしたらいいと思う?」
「色んなものを見るんだ。君は箱入り娘だから外のことを知らないだろ。広い世界を知って、現実を見てから、レイラさんのように理想へ向かって行けばいいと思うよ」
「じゃあ、私が旅をしてる間、ずっと一緒にいてくれる? なにがあっても?」
「どうしたんだい急に。君は寂しがり屋なところがあるから、少しは独り立ちした方がいいかも知れないよ」
「やだ。茶化さないで」
カナタの言葉は真剣だった。
「そうだな。一緒に旅を続けられる限りはね。ところで、少し休憩したらここを出て行くけど、残りは食べないのかい?」
「もちろん食べるわ。そんなにすぐに出て行かないといけないの?」
「時間に余裕はないと言ったはずだよ。国境を越えるにはどのみち仲間の助けも必要だ」
「仲間って言うのは、先生が前に話してた」
「君にも既に伝えていたかな。二人とはこの町で落ち合う段取りさ。おっと――」
紅茶を手に取ろうとして、ハウエルの指からカップがするりと抜け落ちた。テーブルの上に紅茶がこぼれる。
「しまった」
「大変! 拭くものをとってこないと」
ハウエルが立ち上がる。しかし足腰に力が入らず、椅子にもたれ掛かった。
「先生、大丈夫?」
「ああ、少し立ちくらみがしただけだ」
ハウエルの目元にはクマがあった。顔も少しやつれ気味で、いつもより顔が青い。額に汗が滲んでいる。
「私が取ってくる。先生さっきから、よっぽど疲れているように見える。少し横になったら?」
「大丈夫だ。眠ってなんか居られないんだ」
「大丈夫じゃないわ。やっぱり、この宿でしばらく休みましょ。無理してる」
「確かに無理はしているね。でも本当に大丈夫だよ。もう少しの辛抱だ」
「辛抱しないで。私になにか手伝えることがあれば言って。こんなときこそ協力しないと」
カナタは部屋の壁に掛けてある布切れをとってくる。テーブルの上に転がるティーカップを横にどけて、布切れをかぶせた。とたんにカナタも急激なめまいに襲われた。世界が大きく歪み、立っていることもままならない。テーブルに両手をついて堪えた。
「先生、大丈夫?」
「大丈夫だよ。カナタ君は具合が悪いのかい?」
「わたしは、駄目そう。気持ち悪い」
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちる。床に伏して、薄れゆく意識の中で、ハウエルの声だけが耳に届いていた。
「悪く思わないでくれ」
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