4話 旅立ち2

 夜明け前の光が差し込み、勢いよく森を飛び出した。


 眼前に山と草原が広がり、足下には急傾斜が出現する。ニックが急いで速度を落とし、寸でのところで足を止めた。


 カナタは森の方を振り返ると、高揚感を必死で押さえ込みながら、しばし息を潜めた。


「……追ってこない。やったわニック」


 身体中の力が抜けた。思わずニックの背中に抱きつく。ニックは疲れた鼻息で、また一つぶんと返事をした。


「こんなに早く走ったの初めて。見てあの大きい山」


 後光に照らされ、山の頂が綺麗に縁取られていた。嬉しさのあまり目尻に涙が浮かぶ。カナタはニックから降りると、ニックの頬をさすりながら言った。


「こんなに走らせちゃってごめんね。ありがとうニック。本当は一緒に旅をしたいけど、あなたの住処は森なのよね。寂しいけど、ここでお別れ」


 ニックが鼻をぶんと鳴らした。何度かうなずいたようなそぶりを見せ、カナタに背を向ける。そのまま、ゆっくりと森の中へと帰って行った。


 カナタは足下の崖をどう降りようかと悩み始めた。むき出しになった岩壁には掴まるものは一つもない。その高さは、馬を十頭、積み上げたとしても足りない。仕方なく、岩壁に沿って歩き始めた。


 下の場所では、道が枝分かれしている。その左側をずっと進んだところに、小屋が見える。師ハウエルと約束した通りの屋根の形をしていた。


「きっとあれよ。でも、どうやって降りようかしら」


 カナタは膝をついて、悩ましげに下方を見つめた。気持ちが急いているのが分かる。胸の鼓動が森を抜ける時よりも強く聞こえた。


「ハウエル先生。気付いてくれないかしら。でも気付いたところで、この高さじゃ……」


 カナタがぼやき始める。

 諦めて立ち上がった、そのときだった――。


 誰かの手が肩に置かれる。


「きゃっ」

「おっと、僕だ。驚かないで」


 振り向くと、ローブに身を包んだ背の高い男がいた。男はフードを取り、顔をさらすと、いつもの優しい笑顔になって、にこりとほほえんだ。


「先生」

「よく来たね。ずっと待ってた」

「どこから出てきたの?」

「それは着いてくれば分かる。さ、こっちだよ」


 フードを被り直したハウエルが、森へ向け歩き出した。


「ねえ、待って先生」


 カナタが呼び止めた。


「どうしたんだい?」

「そっちには、森の獣が居るわ」

「大丈夫だよ。さっき僕も通ってきた。すぐ入ったところに、抜け穴が掘られているんだ」

「じゃあ手をつないで」


 カナタが手を差し出す。

 始めやや戸惑ったように見えたハウエルだったが、すぐいつもの笑顔になり、カナタの手を握ってくれた。


「君の手を引くのは随分、懐かしいね」


 カナタは返事をしなかった。声を上げたら、感情が外に漏れてしまいそうで、堪えるのに必死だった。恐怖から解放された安堵感と、先生が待っていてくれた喜びで、泣いてしまいそうだった。


 ハウエルの話しも耳に入らずに、ただ手を引かれてゆく。森を入ってすぐの場所に、穴が掘られていた。岩影に隠されるように作られた非常用の通路だと、ハウエルが話している。


「さ、こっちだ」


 ひとり分の身体がかろうじて入る抜け穴を、ひとりずつ進んでゆく。土と小石で固められた地面を半ば滑り降りながら、五分も進めば、下の道への出口にたどり着いた。


「ほら、見えるかい」


 ローブの汚れをはたきながら、ハウエルが目の前の景色を見るよう促す。広い草原を眺めて、カナタはようやく自然と言葉を口にすることが出来た。


「ありがとう先生。すごく嬉しい」

「どうしたんだ急に? まだ始まったばかりだよ」

「先生がいなかったら私、まだお屋敷の中でずっと悩んでたと思う。自分の気持ちに嘘をついて、不満を抱えながら」

「決断するには勇気がいるからね。君は立派だ」

「そんなことない。ひとりじゃこの森を抜け出そうなんて、考えようともしなかった。先生がいたから、先生が一緒に西へ行ってくれるって言ってくれたから、この森を抜け出そうって思えたの。だから……」


 カナタは、後の言葉を続けられなかった。いつもそうだ。遠回りな言い方ばかりで、自分の気持ちをまっすぐ伝えられない。肝心なところで鉛のように言葉が重くなる。再会できたら伝えようと決めていたはずなのに。


「外の景色はどうだい?」


 ハウエルが優しい笑顔で尋ねてきた。


「すごく素敵。でもまだ、実感が沸かなくて」

「時間が解決してくれる。不安はすぐに晴れるさ。やがて自分の決断を、誇りに思えるようになってくるよ」

「うん」


 カナタは小さく返事をした。


「ねえ、先生」

「なんだい?」

「旅をしている間も、私と一緒にいてくれるんだよね?」

「もちろん。君が望む限りね」


 ハウエルがまたカナタの手を取り、ゆっくりと歩き始めた。朝靄に広がる晴れやかな景色と、気持ちの良い風、こんなにも心が躍る朝は初めてだった。


 小屋の側には二頭の馬が繋がれた馬車が待っていた。


「今日のために準備したんだ。さあ、急ごう。追っ手が来る前にね」


 カナタは馬車の後ろに上がり込み、カーテンを閉めた。ハウエルが前に座って、手綱を握る。手綱を力強く叩くと、二頭の馬の足は西へ向けて、ゆっくりと動き出した。


「道中、あまり顔を出しちゃ行けないよ。見つかるとやっかいだからね」


 ハウエルが前方を見据えながら言った。


「代わりに僕が君を退屈させないように頑張るよ」


 カナタは「うん」と返事をしてから、脇に携えている本を開いた。母の旅立ちの記憶を読み返していた。


『山向こうに一羽の鳥がいました。朝焼けの雲の中を、羽を広げて大きく、遠ざかって行きました。鬼の少女は、自らもきっとあの鳥みたいになれると思ったのでした』

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