3話 旅立ち1
蹄の音が漆黒の森に響く。馬のニックに跨がり、カナタは一直線に西へと急いだ。空を見上げると、生い茂る木々の葉の隙間から月光が漏れ出て、時折り星々が顔を覗かせている。とりわけ赤く光る恒星が進むべき方角を指し示していた。
辺境の山奥に築かれたバンキャロナール一族の屋敷群はアルカナハトの王都ユイレクと同じ広さを誇る。この霧の森の中では、匿われるかのように計十六、一族らの屋敷が点在している。屋敷同士は細い道で繋がれていたり、孤立していたりする。この森はさながら一族を閉じこめておくための鳥かごのような役割を果たしていた。
カナタは夜光蛾の群がる棒きれを灯りにして、三里ほど進んだところでニックの足を止めた。
「あれがそうかしら。ニック、あのお屋敷まで行きましょ」
古びた屋敷を見つけた。中に誰も居住していないことは、一見してすぐに分かった。崩れた城壁の表面には苔が広がる。道は雑草で覆われ、家屋の壁には蔦が絡まって、植物に取り込まれそうになっている。テラスの内側から外へ向けて太い樹木が伸びていた。ここまでなるには、数百年は年月がかかる。何世代も前の一族がかつて暮らしていた屋敷に違いなかった。
カナタは右手に持っている棒の先端を、崩れた城壁の一角に近づけ、その様子を確かめた。棒きれの先端には甘い蜜が塗られている。それを餌に無数の夜行蛾たちが群がり、まだら模様の四枚の羽を小刻みに震わせては発光する鱗粉を辺りにまき散らす。微香が鼻をくすぐり、淡い光がニックの足元にまで届いた。この方法で火を使わずに明かりを灯すことが出来る。森で遊んでいた頃の知恵が役に立った。
《おかしな子。早くいなくなってしまえ》
半壊している壁には、そう刻まれていた。古い文字が使われていることから、おのずと時代も読み解けた。
さらに屋敷へと近づいてゆく。カナタはニックの背から降りると、かつて石像かなにかが置かれていたであろう石段を見つけ、そばに駆け寄った。
「きっとこれね。母様の日記に書かれてあった場所」
森を抜け出すための下調べはしていた。半信半疑だったが、母の日記に同じ石段が登場する。
「この森にはね、天の力が働いているんだって」
天使がこの森を監視し、往来を取り締まっていると聞く。もちろん屋敷の中の噂に過ぎない。カナタがまた背後のニックに話しかけた。
「でも脱出の糸口を見つけたの。今日はいつもと違うわ。見てて」
カナタは自信ありげに胸を張ると、脇に携えている本を手に持ち、堅い表紙を開いた。何も書かれていない白のページに、西方の言葉であるエル語が浮かび上がる。エル語は三十一からなるルルク文字で表される言葉だ。
母レイラの研究資料には文字そのものの必要性が大いに説かれていた。文字は言葉を形として記録し、後生に継承してゆくことが出来るだけに留まらない。魔法の言葉すらも補完してくれる。口に出して唱える必要のない言葉を文字で書き記して、少ない発音だけで力を宿すことが出来る。母はこれを省略魔法と記述していた。
『庭の虚像にひざまずき、始まりの言葉を見つけた者には、新たな果実を与えん。さすれば道は開かれるであろう』
本に浮かび上がったエル語は、そのように書かれている。だが、その後に続く文字の羅列は、意味をなしていなかった。いや、意味をなさないと考えていた。
「この文字の形状はルルク文字と同じなの。途中で変わってるから、おかしいんだけど、きっとこの部分が鍵になってる。だから母様は言葉を変えたはずよ。エル語で発音しても意味が通じなくしてある。ハルシャ語なら読めるわ」
ルルク文字を使った言葉はいくつか存在している。その中のハルシャ語で読めば、意味が通るようになる。ハルシャ語の発音はカナタも耳にしたことがなかった。西のごく一部でしか既に使われていないという。ほとんど死語のようなものだと、西方出身の召使いから教えてもらった。だけど予測は出来ると思った。一つの文字に、地域ごとに異なる発音が付されて使われている。とはいえ、似ている音も多かった。
カナタは石段の正面でひざまずいた。
石段に刻まれている文字はこうだ。
『もし我を揺り起こそうとする者あれば、主の命により汝の記憶を貪り尽くす』
物騒な言葉だ。母レイラが話していた。霧の森を抜けようとしたら、獣に記憶を奪われると。そして全部忘れて、森を抜けようとしたことさえも覚えていないらしい。
カナタは本に浮かび上がったルルク文字を、ハルシャ語の発音で、声に出して読み上げた。十七パターン思い付いたので順番に繰り返した。
『
カナタの言葉に応じるかのように、石段の文字が光りを帯びる。角飾りも呼応して、見たこともない唐紅色に輝いた。光はすぐ弾けたように、大人しくなって消えた。
カナタは立ち上がり、周辺の様子を確かめる。石段が小刻みに揺れ始め、その揺れは次第に周辺へと波及してゆく。ふと屋敷のテラスがある方へと、視線を送った。そこであるものを目にして、カナタは思わずあっと声を出しそうになり、すぐに口を手で塞いだ。
テラスの上に、狐の姿をした巨大な影が出現していた。影には九つの尻尾が生えており、三角の鋭い目が赤黒く光っている。その影が、石段に居るカナタに気付き、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
「代償は払ってもらうぞ。鬼の娘よ」
野性的な太い声とともに、影がテラスを飛び降りて、駆け出してくる。
カナタはニックの元へと走った。本をたたみ、馬上へ飛び乗ると、急いでニックに伝えた。
「逃げるわニック、急いで」
ニックは鼻をぶんと鳴らして返事をする。
「捕まったら記憶を消される。早く!」
ニックの腹にかかとで合図を送ると、馬は再び力強く前進を始めた。草木をかき分け、全速力を出させた。
振り返ると、木を乱暴になぎ倒し、野鳥を弾き飛ばしながら、巨大な影が差し迫る。
「霧が晴れてる」
カナタがつぶやいた。
道は確かに開かれていた。霧の森はどこまで走っても抜け出すことが出来ない。それが掟だと教えられていた。何度ニックで逃げ出そうとしても、越えることは出来なかった。
しかし、今日は違う。
霧が晴れていた。
「成功してる。外へ出られるわニック。一度も耳にしたこともない魔法を唱えられたの。そんなことってある? 初めての経験よ!」
胸が高鳴った。森を抜ける喜びだけではない。
カナタの中にこみ上げてきたものは、それ以上に大きな希望だった。
「母様が居る。大丈夫、この旅はきっと楽しいものになる。いま確信したわ。そうと分かれば、絶対に捕まるもんか!」
カナタは両手を大きく広げて叫ぶと、よりいっそうニックの駆ける足を鼓舞した。崩れた城壁跡を飛び越え、蹄の音を森の中いっぱいに響き渡らせる。
不思議なことに捕まる気がしなかった。
不安と恐怖。それをはるかに凌ぐ喜びが、カナタの中で芽生えていた。
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