1章 生涯で見た一番きれいな景色
2話 お屋敷にて
お屋敷の広い屋根は、夜の散歩にはちょうど良かった。
馬二頭分ほどの大きさの
屋根にまで上ると、お屋敷を取り囲んでいる壁のてっぺんが低くなる。その向こうで鬱蒼と生い茂る緑の木々は終わりが見えないが、少しばかり遠くが見渡せるようになる。別の屋敷の外壁もわずかに顔を出して、霧の森の位置関係をちょっとだけ把握することができた。
地平線、というものがこの世界には存在するらしい。知識で覚えた。もちろん一度も見たことはない。だって、どこまで高い場所へ上っても、目に飛び込んでくるのは、でぼこぼした汚い緑の境界線だけ。夜ともなるとその森は息苦しいほどの重圧とともに闇に覆い隠される。山の狭間、辺境。籠の中と自ら揶揄している。
嫌になる。
ふと遠くの空に視線を送ると、月の光を背にして巨大な何かが翼を上下させている様子が映った。距離から推し量るに、竜種ほどの大きさをしているようにも見えるが、この地方に飛んでくるのはせいぜいホークとカバを祖先に持つ奇形の野鳥くらいだ。それか大きめの豚カラス。あれがもし西方に広がる大山脈に生息するグリフォンだとか、人語を操ったとされる嵐鳥の一族だったら、どれだけ心が躍るだろう。
「はぁ」
カナタは深いため息を吐いた。
虎猫のドリーが「にゃあん」と野太く鳴いた。
「励ましてくれるの?」
視線を落として、ドリーの頭を撫でてやる。
「ごめんね。暗い気持ちにさせちゃって。寂しい? 私もそう。でも、あれだけ悩んで決めたじゃない。ここにはもう、私の居場所はないの。いいえ、ここが私の居場所だと言われても、私は納得しない。明日を迎えてしまったら、私はますますここから飛び出すことができなくなる。今日が最後のチャンス」
ドリーがまたにゃあ、と鳴いた。
「ありがとう。みんなにも挨拶しなきゃね。そろそろ行きましょ」
屋根瓦を一枚、破壊してドリーが飛び跳ねた。
その身体が急降下を始め、屋根から階下のテラスへと華麗に着地した。どんと床が鳴った。だが、ドリーの柔らかい身のこなしで落下の衝撃はほとんど背中に跨がるカナタの元には届いてこない。
「きゃあっ!」
テラスで見回りをしていたメイドが悲鳴を上げた。宵闇で光る虎猫の鋭い眼光は確かに迫力がある。屋根から振ってきたら叫びたくもなるだろう。何人かのハウスメイドに遭遇して、みなびっくりして部屋の中へ引っ込んだ。
ドリーはのそりのそりと、燭台の上の蝋燭が灯る長い廊下を進んだ。
「散歩してるだけなのに、ね」
カナタがつぶやいた。
夜行性の虎猫は夜に歩く方がいい。当然の活動だった。もちろんメイドたちが逃げてゆくのもうなずける。虎猫は安全な生き物ではないので当然だ。でもドリーはちゃんとしつけられている。悪さを働くなんてことはない。
「カナタ様、またですか」
物陰からぬっと姿を現したのは、メイド長のロレッタだった。幼い頃からカナタを厳しく教育している、おっかない存在だ。その身体のサイズは、ドリーと張り合えるくらいには大きい。
「召使いが驚くから止めなさいと注意したはずよ」
「堅いこと言わないで」
「だめです。ほんとに、お転婆に育ったんだから。明日は騎士の儀があるんですよ。これ以上、身体の傷を増やされちゃ、私たちの立場ってものがないですよ」
「大丈夫よ」
「どこがです? 虎猫は夜は気性が荒くなるの。背に乗って仲良く散歩なんて、普通はやれないのよ」
「ドリーは分別をわきまえてるわ。そんなことしない」
「分かったから、早くそこを降りなさい。あなたはお嬢様としての自覚を持つべきよ」
ドリーから降りて、ドレスをたくしあげる。
恭しく礼をした。
「お嬢様の真似ごとなら得意よ。作法も覚えたわ」
「そういうことじゃないの」
ロレッタが大きな胸板を持ち上げるように息を吸い、ため息とともにそれをぐっと落とした。
燭台の上に立て掛けられている鏡の中に、自らの容姿が映し出されるのに気付く。桃色の艶のある髪と、赤い瞳。大好きな母親譲りの二重まぶたと、ちょっとだけ不満の残る形のくるまった鼻。屁理屈には多少の自信を持っている薄い唇。そして、目元から耳の近くにかけて刻まれている大きな頬の傷。そこだけ薄黒く巨大なシミのように変色していた。
目の前のメイド長は、この顔が傷つくのが不満のようだった。
当の本人は、もうこの傷のことはどうでも良かった。塞いだこともあったが、全体的に自分が好きだ。
母が愛してくれた、自分が好きだ。
「明日は、目一杯おめかししてあげるからね。いい騎士が婿になるといいわね」
ロレッタがそう言った。その言葉に悪意はない。
しかし、カナタは唇を噛んで、ぎゅっと拳を握った。
騎士の儀なんてものが、どうして存在しているのか。ばかばかしいしきたりは早く消えてしまえと、心の中で強く念じる。なにが騎士だ。争いごとが好きな粗暴な連中じゃないか。だいたい、本人の意思を無視して婚約なんてしたところで、幸せになんてなれやしないのだ。子供を産ませることばかり考えているこの一族の保身には辟易とする。たとえそれがこの国を守ることに繋がるとしてもだ。
「明日が楽しみだわ」
カナタは微笑みで返した。
内心では炎が燃えたぎっていた。いまに見ていろ。明日になったら目にもの見せてやる、と。
ロレッタの背後から蝋燭の明かりが近づいてくる様子が見えた。
曲がり角が淡い光をゆらゆらさせている。足音が近づいてきて、ひとりの少女が姿を現した。
「お嬢様」
「あら、あなたは?」
「ニーアと申します。あの、侯爵様がお呼びです」
「叔父様が?」
たどたどしく話す少女は、初めて見る召使いだった。黒い髪と黒い瞳が蝋燭の炎を受けて深みを増す。ロレッタのお下がりの古びた装飾のないドレスを着ていた。頬にはそばかすが散らばり、大人しそうな雰囲気が漂う。
「この子はつい数日ほどまえに来たんだ。カナタ様の新しい世話役よ」
ロレッタが、ニーアの肩に手を当てて、紹介する。
容姿以上にカナタの興味を引いたのは、その言葉がカナタたちと同じロスタリア語だったことにある。
「あなたどこの町からきたの? 黒い髪をしているなんて、珍しいわ」
興味本位でカナタが尋ねた。
「南方のロネルという村からです」
「ガッス地方かしら? でもあそこはリィ語が主流じゃないかしら。アルカナハトが治めるまではリィ族が麦を育てて暮らしてたって学んだの」
「仰るとおりです。でも私たち家族はリィ族ではありません。その言葉を話せていたのは父だけでした。祖父は遠い移民だったようで、黒い髪は村でも珍しくて」
「そうなの。ねえニーア、聞かせて。あなたの村のこと」
カナタは、虎猫のドリーにまたがろうとした。
「カナタ様、だめです。ドリーは私が連れていきますよ」
「どうして、叔父様のところへ一緒に行くわ」
「おふたりで、歩いて向かいなさい。私が檻に戻しておきます。ほら、主を待たせては行けません」
「魔女が出るかも知れないわ。召使いたちも話してた」
「またそんな根も葉もない噂を」
「本当よ。何かを探しているらしいの。だからドリーと一緒に見張りをしてたんだから」
「次から次へと。口が回りますね。屋敷の警備は万全です。それにこの森には、守り神もいます。ご存じでしょう」
「天使様ね」
「知っているなら、歩いて向かいなさい。ほら早く。今日のことはなかったことにしてあげますから」
「分かったわよ。どうせろくな用もないくせに」
カナタは不満を漏らすと、ドリーの頬をさすった。ドリーは大きな目を少し細めて、んにゃぁと野太く泣いた。その後、ぐるぐると喉を鳴らす。何かを感じ取ったように、いつも以上に頬を押し当ててきた。
「じゃあねドリー、お休み。いい子でいるのよ」
ロレッタにドリーを預ける。
カナタとニーアのふたりは、叔父の部屋を目指して歩き始めた。
「ねえニーア。あなた、村からこの屋敷へ来る途中、珍しい鳥を見なかったかしら?」
「鳥ですか? 覚えていなくて」
「鳥じゃなくてもいいのよ。ガッス地方だと、ここより暖かいから、植物だって種類が多いんじゃないの。川に亀はいなかったの?」
「亀はいたかも知れませんが、覚えていなくて」
「じゃあ、あなたの村にはどういう種族が暮らしていたの? 南だと
「私の村はみんなヒト族でした。閉鎖的だったので」
「へえ、田舎なのね」
「ちゃんとお答え出来ずに、申し訳ありません」
ニーアが頭を下げた。
「謝らないで。軽い気持ちで聞いただけだから」
ニーアと名乗る少女は、小刻みに手を震わせていた。それに気付いたのは、手に持っている蝋燭の先端の揺れが増幅されて大きくなっていたからだ。よくよく考えると、声の中にも畏れの感情が見え隠れしている。
ニーアとの距離を詰めると、手の震えは少し大きくなった。ニーアはそれを悟られまいと、必死で堪えていた。
ふたりは赤い絨毯の敷かれた廊下を歩いた。螺旋階段を下りて、大理石の柱を何十本も横切り、東の一室にある叔父の部屋を目指した。
両開きの扉をニーアが開き、中央広間にある上り階段にさしかかる。頭上が高くなり、アーチ状になっている天井には、
カナタの桃色の長い髪の後ろから、一匹の蛇が顔を覗かせた。カナタの頭の後ろにある鬼の角に巻き付くようにして隠れていた蛇は、シャンデリアの灯りで目を覚ましたようで、カナタの左肩から腕にかけて、巻き付きながら降りてきた。
ニーアが驚き、距離を取ろうとする。
「安心して。ルークは噛まないわ」
自らの指示がなければ、と付け加えるのは差し控えた。
ニーアの震えはまだ消えない。それは自らに対する畏れの気持ちというよりかは、この鬼の角に対するものだと分かっていた。
鬼の角は、それだけで危険だと考えられている。片田舎からやって来たこの娘にとっては、これが当然の反応だろう。
「ねえニーア」
カナタが呼びかける。
「はい。お嬢様」
緊張を隠せない様子でニーアが返事をした。
「あなたは魔女を見たことがある?」
「いえ、噂で聞いたことはあります」
箒に乗って千里の砂漠を越える。海を渡り、空に浮かぶ大陸へも飛んでいける。それだけじゃない。不思議な力を使う。呪いの言葉を口にして、この世の
「噂と言うより、おとぎ話に近いかも知れません」
とニーアが続けた。
「私たち鬼の一族は魔女に狙われているわ。魔女たちは巧妙に自分が魔女であることを隠してる。だってそれが知れ渡ると、火刑に処されるんだから当然よ」
「カナタ様は見たことがあるのですか?」
「幼い頃に一度だけ」
「大丈夫だったんですか?」
カナタは返事をせずに、自らの頬の傷に手を当てた。
「私にお力になれることがあれば、言って下さい」
「守ってくれるの? 騎士みたいに」
「それは私では務まりません。でも、話を聞くことくらいは私でも出来ます」
「あなた口は堅いの?」
カナタの問いに、ニーアは戸惑いながら答えた。
「誰かに秘密を話すほど、気が強くありません。カナタ様が黙っていろとおっしゃるなら、なんでも従います。ずっと私はそうでしたから」
ニーアの可愛らしい顔に影が差した。
この娘は、そうして村でもやり過ごしてきたらしい。田舎の村の掟に従属することで暮らしていたのだ。母の日記にも、同じような村娘が登場する。従うことでしか生きていけない民が、この地上には数多く居る。それは自分にも当てはまるかも知れないと考えたら、ますます嫌気に襲われた。
「着きました。私はこちらで待っています」
頭を深く下げるニーア。
蛇のルークは再びカナタの角にくるまって眠りについた。カナタはニーアに背を向け、叔父の居る寝室の扉をくぐった。
「そこへ座りなさい」
叔父が言った。
椅子に深く腰を下ろし、テーブルには上等のワインとグラスが乗っている。政務で王族と面会する時のような、堅苦しい雰囲気はない。夜の安らかなひとときを過ごしている、そんな様子だった。
「明日でもう十五だ」
「おかげさまで」
「嬉しくないか。妹のレイラも不満があったらそんな顔をしていた」
「ええ、そうですね。だって私はお母様の娘ですもの」
椅子に座って、叔父の目を見ずに答える。
「いい加減、受け入れたらどうだ」
「なにを?」
「明日、騎士の儀が執り行われる」
「そうですね」
「明朝には国中から集めたえりすぐりの強者たちがやってくる。そこで腕を見せ合い――」
「最も強い者と私が婚約するんでしたわね。くだらない。まだ会ったこともないのに、結婚相手が決まっているなんて」
「なんと言おうと構わない。バンキャロナール家を絶やさないためのしきたりだ」
「なくなってしまえばいいのに。しきたりも、この血も。全部」
「おまえにも分かる日が来る。どうして我々は守られなければならないのか。我々が滅びると言うことは、この国が滅ぶということでもある。それは西方諸国が道を踏み誤ったように、この東方地域全体の終わりを意味している」
叔父は椅子から立ち上がると、暖炉へと歩み寄り、飾ってある母の、レイラ・バンキャロナールの肖像画に手をかけた。いつの時もカナタの前ではそうだったように、レイラの顔には笑みが浮かんでいた。
「おまえにはレイラのようになって欲しくない。いつ誰がおまえをさらいにくるか分からない。だからこそ強い騎士が必要なんだ」
叔父の頭には他の鬼よりもひときわ大きな角が二つ生えている。鬼の角は頭の後ろ側から、うなじにかけて下向きに伸びる。長いものだと首の付け根や背中あたりに達するものもあるという。形はヤギの角に似て、長くなるほど巻き型になる。かつて古来より恐れられている強大な悪魔と見間違われることもあった。
「この角は我らの誇りだ。そう易々と誰かに触れさせていいものではない。ましてや争いの道具にされてもいけない。レイラはおまえの幸せを願っていたし、おまえの安全を誰よりも考えていた。おまえも十五になるバンキャロナールの娘として、鬼の一族として、自らの立場を早く理解するんだ」
「母さんを出してきて、いつもズルい」
カナタが言った。
「私だって少しは理解してる。騎士に守ってもらわないと駄目だって。でも、もう少し時間が欲しいの。私にだってまだやりたいことの一つや二つ、あるんだから。それからでも遅くないはずよ。結婚なんて、正直まだよく分からない」
「想っている相手が居るのか? まかさ、執事じゃないだろうな。笑えない冗談だ」
「だから、そういうのが嫌なの」
叔父の言葉にカナタはむっとなって立ち上がる。
「叔父様は、私を人形か何かだと思ってるんでしょ。ひどい」
「猫を飼うのも蛇を飼うのも自由にすればいい。だが結婚相手は騎士でないと駄目だ。それを受け入れろと話しているんだ」
「それをもっと待てって言ってるのよ。この分からずや!」
カナタは走り出し、部屋の扉を勢いよく開いた。外で待っていたニーアが驚いて退く。
去り際に叔父の顔をすごい剣幕で睨みつけてやった。
「叔父様のばかたれ」
「何とでもいえ。明日は早いぞ。もう寝ろ。それにカナタ、おまえはな」
扉を閉じた後もなにか話していたが、聞く耳は持たない。ニーアの腕を強引に掴みとって自室へと戻ってゆく。カナタの勇ましい足音が廊下に響き渡った。
西側にある寝室の前にまでやってくる。
「カナタ様。わたしはここまでです」
ニーアが扉の前で立ち止まる。カナタはそんな声をよそにしてニーアを自室の中へと引き込んだ。
「カナタ様。あの、困ります」
「ねえニーア。あなた私と同じくらいの大きさしてるわ」
「どういうことでしょう?」
「こっちへ来て」
部屋の奥までニーアを連れて行く。
「や、その、この部屋」
「驚いた? 初めて見るメイドたちはね、みんな逃げ出しちゃうの。でもメイド長のロレッタさんは別よ」
カナタの部屋の中央には太い樹木が根を張っている。足下に広がっている強硬な蔦は至るところで絡み合い、側壁をのぼり、長いものだと天井にまで達する。部屋の隅には藁で作られた鳥の巣があった。カナタが部屋に戻ってくるなり、何匹かの友達が嬉しそうに寄り集まってくる。足下からリスのミリアとエイミーが、頭上から滑空してくるのはモモンガのダニエル、離れたところで鳴いているのはアカスズメフクロウのルーカスだ。この地域に生息している様々な種たちがカナタの部屋で一緒に暮らしていた。
二人は足下を気にしながらベッドの側にまでやってくる。ニーアの眼が周囲へ釘付けになっていた。
「カナタ様、わたしはここでいったいなにを」
「いいから。服を脱いでちょうだい」
カナタはニーアの古着のドレスに手をかけた。薄生地で所々が破れている装飾のない簡素なドレス。その裾を足下からまくりあげて、頭まで脱がしてゆく。抵抗するまもなくニーアは肌着を露わにした。カナタは自らが着ているワンピースもすぐに脱ぎ捨てた。
「カナタ様、いけません。わたしそんな、ごめんなさい」
「あなたが私のことをどう思っているかなんて、ぜんぜん気にしないわ。でも言うことを聞いてちょうだい」
逃げ出しそうになっているニーアを引き留めながら、今度はニーアの頭から自らの寝間着をかぶせた。フリルやレースで装飾されたワンピースを身にまとったニーアは言葉を失い、大人しくなった。
「ベッドに入って」
いまだとばかりにニーアをベッドへと放り投げた。肌着姿のカナタがその上に馬乗りになる。
「カナタ様、これは」
「思った通り、あなた私と背丈が近いからちょうどいいわ。このお古の服はロレッタさんからもらったものね。そうでしょ?」
枕元で小さくうなずくニーア。
「ねぇニーア。あなた好きなひとは居る?」
「好きなひと、ですか?」
「そう、そのひとのことを考えだしたら頭から離れなくなるの。他の女のひとと話していると胸が苦しくなるのよ。そんな相手いない?」
考える素振りを見せてからニーアは答えた。
「分かりません。わたし、男性の方と話したことがあまりなくて」
「そうなの? でも、そうよね。分かった、理解したわ。安心してニーア。ここに来たのはとても幸運なことだと思うわ。なぜかって? だってここには男の使用人がたくさん居るもの。あなたがこれから働いて、お料理もお掃除もうまくなったら、きっといい相手が見つかるはずよ」
得意げになってカナタが続けた。
「でもニーア気をつけて。安易に男性を選んじゃだめよ。ひどい男も居るの。さっき話していた叔父みたいなのはダメ。いくら偉くても、女性の話をちっとも聞かない。いい? 肝に銘じておいて。本当に自分のことを想ってくれるひとはね、ちゃんとあなたの目を見て話を聞いてくれるひと。相談にだって、ちゃんと乗ってくれるひと。そして相手の身を案じてくれるひと」
「カナタ様は、想いびとがおられるのですか?」
ニーアの問いかけに一つ間を空けて、カナタは答えた。
「居るわ。ずっと好きなひとが居るの。小さい頃からずっと」
「この屋敷に?」
「ええ。でも住み込みじゃない。私の家庭教師をしている先生。森の外からやってきて、森の外へと帰っていく。実は私、先生をもう七日も待たせてるの」
「待たせる?」
「そうよ。ニーアお願い、聞いて。今日が最後なの。朝になったら私は婚約しなくちゃいけない。そんなのごめんよ。だから、ここで私のふりをして、朝までいてちょうだい」
ニーアがちょっとよく分からないといった表情になる。
カナタはその後、全てを話した。今日この屋敷を抜け出し先生と一緒に旅に出る算段をつけていたこと。この部屋に何度か見回りがくること。そして部屋に居る大勢の友達のこと。
「みんなのお世話もお願い。あなた私が居なくなったら、私のお世話のしようがないでしょ? だから代わりにこの部屋のみんなをお世話して欲しいの。分からないことはメイド長のロレッタさんに聞いて。あの人とても世話焼きで、たまに餌をあげたり、この部屋の掃除を率先してやってくれていたのよ。みんないい子たちだから」
「そんなこと突然、おっしゃられても」
「ずっとじゃないわ。時間が欲しいの。三年、いえ五年くらい。私、屋敷の外の世界を知りたいの。ここで結婚してずっとこの屋敷の中で生きて行くなんてまっぴらよ。西方にはね、この辺りじゃ生息していない珍しい種がたくさんいるんだって。会ってみたいわ。母様が見た世界を私は追いかけたい。ねえ、あなた秘密を守ってくれる? 絶対、誰にも言っちゃだめな秘密」
それを聞いて、ニーアが戸惑いながら、うなずいた。
「それが命令であれば、そうします」
「私の母様は西の国で、ある言葉を探していたの」
「言葉? ですか」
「そうよ。争いをなくす言葉。その言葉を口にすれば、争いが消えてなくなる。白の魔法って言うの。争いがなくなれば、私たち鬼の一族も、こうやって森の中でこそこそ暮らさなくても良くなる。鬼の自由が手に入る」
「言葉一つで、そんなことが――」
そこまで話すと、ニーアは思い出したように言葉を切った。
恐ろしいものを見るような眼になって続ける。
「カナタ様のお母様は、魔女なのですか?」
「いいえ」
カナタが首を横に振る。
「言葉に長けているからって、魔女だとは限らないわ。確かに魔女は不死者で、長い年月を生きて、多くの言葉を操ることが出来ると聞くわ。でも、それは船乗りや商人だって同じようなものでしょ。必要があれば話す言葉の数も増えていく。母様はね、言葉の研究をしていたの。その中には、力を宿す言葉も含まれていたわ」
人差し指を口元に当て、カナタが念を押した。
「これは誰にも話しちゃだめよ」
「カナタ様も、その白の魔法というのを探しに、西へ行くのですか?」
ニーアに問われて、カナタは声のトーンを少し落とした。
「どうだろう。私は母様みたいに、強くないから。見つけられる自信もない。母様は私の中で遠い憧れなの。だからいまは胸を張って母様みたいになりたいなんて言えない」
そこまで話すと、カナタはニーアから離れた。
「朝になったら、私に命令されたって話しなさい。それであなたは責められないわ。叔父は私には厳しいけど、使用人には優しいの」
ベッドから降りると、カナタは床に落ちているロレッタの古着のドレスを身につけた。何匹かの友達の調子をうかがいながら、別れの挨拶を惜しむ。フクロウのルーカスの喉元を優しくさすり、リスのミリアと少しだけ戯れて、旅の支度を整える。
机の引き出しから母がくれた角飾りを取り出し、左の角に巻き付けた。翡翠色をした石がシャンデリアの光に当てられ、淡い輝きを放つ。銀色の鎖がこすれて、しゃらんと一度だけ音を立てた。
「母様の形見なの」
カナタが言った。
「この角飾りにはね、母様の思い出がたくさん詰まってる。私が幼かった頃、母様は西方のいろんな話を聞かせてくれたわ。叔父には禁止されていたみたいだけど」
カナタは壁にある本棚から一冊の本をつかみ取り、それを肩から紐で吊して、腰に下げた。そして鬼の角を隠すためフードをかぶり、顎のところで麻ひもを結ぶ。
「私の母様は偉大な方だった。世界中の王様たちに呼びかけて、世界の平和を約束させたの。私たち鬼の自由だけじゃない、多くの種族と西の国と、そして、この大陸まで含めた全部を救おうとしたの。理想に立ち向かった」
今度は足下に転がっている樹木の蔦を、一束持ち上げる。そのまま窓際にまで歩み寄った。
「それなのに叔父ときたら。母様とは大違い。叔父が考えていることは全部、自分たちのことばかり。この国と、鬼の一族がどうたらといつも説教してくるのよ。私をいっさい外に出してくれないし、しきたりだとかなんだとか言って、結婚相手まで決められるこっちの身にもなって欲しいもんよ。あの、すかとんちん!」
カナタは怒りを吐き出しながら、蔦をもっていない方の左手で窓を開いた。風が強く吹き込む。白のカーテンが月光を浴びて寒そうに揺らめいた。
「でも、そんな冴えない日常は、今日でおしまい。わたしは十五歳になる。これからは大人の女として自由を手に入れる。それがこの旅なの。誰にも止められないわ」
握りしめている蔦を二階の窓から放り投げる。蔦は階下めがけて落下し、地表ですとんと音を立てて止まった。それが貧弱でないことを何度か確かめると、カナタは窓枠に足をかけ、身体を浮かせて全身乗りかかった。
「カナタ様」
ニーアが呼びかけてくる。
「なに? 止めてもダメよ。もし朝まで待たずに誰かに言ったりしたら、私あなたを一生恨むからね」
「その、わたし……」
ニーアが深呼吸をして、恐る恐るに言葉を続けた。
「カナタ様がどんなお気持ちで悩まれていたのか、わたしには想像することは出来ません。わたしは、いまでも鬼に対して恐怖を感じています。この気持ちはすぐには拭えないと思います。でも、カナタ様のお話を聞いて、少しずつ理解していきたいと感じました。カナタ様に任されたお仕事は必ず全うします。だから、その、どうかお元気で」
意外な言葉に、カナタの頬が思わず緩んだ。
「ありがとうニーア。あとちょっとこの屋敷に来るのが早かったら、いいお友達になれたかもね。私たち」
迷いはなかった。
蔦を頼りに地上へと降り立つと、落ち葉を蹴り上げ颯爽と駆けだしてゆく。
霧の森の中へと――。
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