バンキャロナールの鬼の令嬢
はやし
1話 プロローグ
世界を平和にするための言葉がある。
それは『白の魔法』と呼ばれる。
その書き方は分かっていた。難しくない。ペンを手にとって、パピルス紙にでも書き起こせばいい。長くない。ほんの三文節でいい。
だけれど、肝心の音が分からなかった。
「いい。カナタ? 呪文や魔法に本来、違いはないの。悪しき目的で唱えれば呪文と呼ばれる。良き目的で口にすれば魔法となる。だから魔法はいつだって希望になる」
敬愛する母から教わった。
母はまたこうも言っていた。
「言葉には二つあるの。伝えるための言葉と、創るための言葉。私がいまカナタ、あなたに話しかけている言葉は、伝えるための言葉。反対に呪文や魔法は口に出して唱えれば、たちまち世界を生まれ変わらせることが出来る。だから創る言葉。そこには大いなる力が宿るの。でもね、言葉に力を宿すのは、とても難しいことなの。一つでも発音を
幼かった私は、純粋な気持ちで母に尋ねた。
「ねえ、母様。どうして
「古い書物に出てくるの。でも音は書かれていない」
「じゃあどうして、まだ誰も唱えていないって分かるの? だって世界のどこかで、誰かが口にしているかも知れないよ」
「いいえ。もしそうなら、世界はとっくに平和になっているわ。でも、そうなっているかしら?」
私は考えてみた。
なるほど、と納得した。
だって世界にはまだ平和は訪れていないのだ。西の国は多くが滅びたと聞く。私たち鬼族の角が各地へと運ばれ、街の上から次々に投下された。鬼族の角は、街を簡単に消し飛ばしてしまう。だからこうして辺境の森に隠れて、角が盗まれないように暮らしている。王様は国家のために鬼族と協定を結んだ。バンキャロナール家も立派な貴族で、叔父は侯爵として政治を担っている。
「魔女が悪いって、召使いの人が言ってたよ」
私はやはり純粋な気持ちで母の眼を見た。
魔女たちが『白の戦争』を始めて五百年が経つ。魔女たちは鬼の角を鬼たちから奪って、呪文を使ってひどい悪さをしている。西の都はそうして滅ぼされた。
だけど母は、それすらも首を振って否定した。私の純粋な二つの眼から瞳を逸らすことなく、私の頬にそっと右手を添えてくる。母の右手は大きくて温かい。私が幼い頃から片腕だった母は、いつも決まって右側から私を抱き寄せる。私はそうされると、母の背中に両手を回して母の温もりを目一杯に感じた。
「魔女にもいい魔女と悪い魔女が居るの。私の友達はいい魔女。あなたもいつかそれが分かる日がくるわ」
「魔女と友達になれるの?」
「ええ」
「どうやったらなれるの?」
「相手を知ることが大切よ。言葉を知り、文化を知り、そして大切にしている価値観を同じだけ大切にすること」
「それじゃあ、まずは言葉を覚えればいいの?」
「ええ、そうよ。簡単なことではないのよ。世界はとても広いの。西の地へ行けば、聞いたこともない言葉を話す種族がたくさん居る。誰とも関わりを持とうとしない偏屈な種族も居るわ。臆病な種族も、もちろん優しい種族もね。魔女はいろんな種族の中に紛れ込んでいるの。不死者であることを隠してね。だから多くの種族たちから言葉を教わらないと行けないのよ」
母は私に、言葉の起源は全て同じだという事実を教えてくれた。言葉が世界を創り、そして言葉が種族を分けたのだ。母にとって言葉を学ぶことは、その起源を探求することに他ならない。一つだった言葉は創世祖語と呼ばれ、世界を作り替える力を宿していた。
それから私は母の留守中に数多くの言葉を学んだ。母からもらった鬼の角飾り。私は本に書かれてある物語がみんなには見えないことをしばらく経ってから知った。角飾りをつけている時だけ、白紙の本に文字が浮かぶのだ。母は自らの旅の記録を、その秘密の日記に残した。日記であり、生涯をかけた研究成果だ。
母は世界中の人たちと和平の交渉をして、偉大な功績を残した。いつも私に話し聞かせてくれたのは、架空のおとぎ話や書庫に積まれた絵本の中の物語ではない。自らが観て、聴いて、知り得たことを面白おかしく話してくれた。
母の旅の目的はいつも明確だった。
私もいつか母のような強い女性になりたい。
だけれどいまはまだ、それに近づけない自分がもどかしくて、この鳥かごの中の生活がとても嫌いだ。
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