第4話 触れられる

 アリヤは自分の体を隠すように洗い場で丸くなっていた。ツヅ子は石鹸とタオルを手にアリヤの背に触れる。触れようとしたというよりは自然に、手の置き場がそこだったというような仕草だった。

「そんな遠慮せんでいいよ。頬っぺたまで土付いてるし、ふふ、小さい子みたい」

「子供扱いしないでよ……」

「アリヤちゃん歳はいくつ? 私は十六だけど」

「十五」

「わあ。一個違いか。嬉しいなあ。歳が近い子ってあんまりいないからなあ」

 ツヅ子は朗らかに笑う。何も後ろめたいことが無い、純粋な笑顔だ。アリヤは照れ臭くなった。

「任しといて。私ね、よく近所のちびっ子の面倒見てるから、こういうの得意!」

「私はちびっ子じゃない……」

「アリヤちゃんは肌もすべすべだー。私の手とは大違いね、ほら、硬いの、こことか」

 ツヅ子はアリヤの目の前に手の平を出して、中指の第二関節を示した。アリヤは恐る恐る触れる。硬かった。

「家は何のお仕事してるん? うちは畑と、田んぼとだけど、今は時期じゃないから畑だけで楽よなあ。あーあー、弟か兄ちゃんがいればもっと楽なのに。ゲンちゃんうちに来んかなあ」

「お父さんはいないの?」

「ええ? いても一緒に住むわけないよぉ。怒られちゃう」

 ツヅ子は「お湯かけるよー」と言って会話を打ち切った。アリヤはどういう意味か聞き返すタイミングを失ってしまった。

「ねえ、こんなにたくさんお湯使って大丈夫?」

 アリヤの家にはシャワーしかないが、水を使いすぎると警告音が鳴って母親に怒られる。ツヅ子はざばざばとアリヤの背中に意味もなくお湯をかけ続けた。

「暖かい方がいいじゃない。アリヤちゃん、寒そうに見えるからねぇ。どう?」

「あ、うん、大丈夫」

「じゃあこっち向いて。万歳して」

「バンザイ?」

「両手をこう!」

 アリヤは習って両手を上げた。ツヅ子は泡塗れのタオルをぽんぽんとアリヤの体にスタンプしてから、その泡を手で伸ばしていく。

「え、ちょ、ちょっと!? 待って!?」

「何?」

 アリヤはツヅ子の手を掴んで止めた。さすがに全身を撫でられるのは恥ずかしい。

「自分で出来る!」

「いいからいいから」

 ツヅ子の笑顔を見ると、アリヤもつい抵抗出来なくなってしまう。彼女の楽しみを邪魔することが罪のようにすら感じた。

 アリヤの皮膚の上を、がさついた手が滑っていく。アリヤはただじっと耐えた。なるべくツヅ子の手を意識しないように、自分の体からも意識を切り離した。

「足開いてよぉ」

「や、そこは、さすがに自分で洗うから」

「そう?」ツヅ子はアリヤから目を離さない。アリヤは開きかけた足を閉じた。

「見なくていい。あっち向いてて」

「でも、ちゃんと洗えてるか見ないと」

「小さい子じゃないから!」

「あ、そうだったね。ごめんごめん」

 ツヅ子は離れて、わざとらしく首を斜め上に向けた。アリヤは今のうちにとツヅ子が触れていない足先まで泡を広げた。

「いいよ。もう全部洗った」

「ちゃんと洗えた?」

「洗えたよ」

 アリヤは彼女からの子供扱いを受け入れつつあった。一つしか違わないというのにツヅ子はとても大人びて見える。彼女が「良かった良かった」と言いながら洗い流してくれるのをアリヤは待っていたが、しかしツヅ子はゆっくり視線を戻しただけだった。仕方なくアリヤから問う。

「泡、流さないの?」

「ねえアリヤちゃん」ツヅ子は落ち着いた声で言った。

「どうしたの」

「触るよ」

 ツヅ子は、湿気で張り付いた髪をそのままに、アリヤのももに手を置いた。アリヤの心臓がドクンと波打った。

「え、な、なっ」

 勢いよく息を吸ったせいで、水分が喉に張り付いてむせた。ツヅ子は身を乗り出して、もう片手もアリヤの膝に乗せる。アリヤの体は勝手に震えた。腿に乗った方の手が、するすると上って、首元を撫でる。

「ふぁっ、は、あ、あの」

 アリヤは現実から目をそらすように目を閉じた。ツヅ子のかさかさした手の平が、アリヤの頬にやんわり触れる。ツヅ子は吐息のように囁いた。

「私が何したいか分かる?」

「わ、分かんないぃ……」

 アリヤの体は勝手に緊張していた。何か分からないが良くないことだ、という意識だけがあった。

 アリヤが顔を真っ赤にして体を震わせていると、ツヅ子はゆっくりと離れた。そして申し訳なさそうに言う。

「ごめんね。流そうか」

「え……うん」

 贅沢な量のお湯がアリヤの上に注ぐ。泡と一緒に、緊張も流されて気持ちがすっきりした。しかし少しだけもやもやが残る。ツヅ子に謝られたことが引っかかった。

「ねえ、あの、さっきの……」

「気にしないで。いいのいいの」

 ツヅ子は浴槽の蓋を開けて「入ってていいよ」と言った。アリヤはなみなみと入っているお湯を見て尻込みしてしまった。先の母親に怒られはしないだろうかと気が気でない。ツヅ子はそんなアリヤを見て笑い声を立てた。

「ふふふ。怖いん?」

「ちっ、違うっ! 怖いんじゃなくて……」怒られるのが怖いので似たようなものだった。

「待ってて。私も洗ったら入るからね」

 言葉通り、ツヅ子は自分の体をさっさと洗い終えると、浴槽に入った。アリヤも後ろめたい気持ちになりながら浴槽の中に足を入れた。銭湯以外でお湯に浸かるのは初めてだ。銭湯も高いので一度か二度しか行ったことがない。

「はあー。アリヤちゃん、生まれたての赤ちゃんみたい。何もかも初めてって感じ」

「しょうがないでしょ! そっちが強引だから、私は」

「そっち?」

 ツヅ子とアリヤは狭い湯船に入りながら、お互い触れ合わないように身を縮めていた。どちらかが動く度にちゃぷちゃぷと水の音がした。

「貴方の……」

「貴方?」

「あんたの」

「あんた?」

「つゅ……つっ、つ、つ」

「今噛んだ?」

「つ! ツヅ子、さんが」

「そんな丁寧に言わなくても」

「ツヅ子」

「そうそう。折角歳が近いんだし、仲良くしようねぇ」

 ツヅ子は丸い頬を持ち上げて愛らしく笑った。アリヤはこのやり取りのせいで何を言おうとしたかすっかり忘れてしまった。溜め息を吐いて、水面を見下ろす。透明な水の下で、自分の足が限界まで曲げられていた。狭い。

「アリヤちゃんは、天人様なの?」

 またテンジンサマだ。アリヤは顔を上げる。ツヅ子は自分の肩に手尺でお湯をかけていた。

「そのテンジンサマって何?」

「上に住んでる人。あの、何だっけ、ノア? とかいう空飛ぶお船に乗ってる人たちのこと。天人様は空じゃないと生きられんって言うけど。んー、でもそしたらアリヤちゃんは違うんかな?」

「私は」言うべきか悩んだ。「私は、人間だよ」

「そうねぇ。私も人間だし、おんなじよね」

 裸で向かい合ってるお互いが、同じ作りをしている。何故“天人様”なんて呼び方をするのか、アリヤには分からなかった。

「アリヤちゃんはどうやってここまで来たん? 何か、家のこととか覚えてない?」

「何でそんなこと聞くの」

 ノアから来たと言ったらどんな反応をするのか、アリヤは怖くなっていた。最初に出会った男たちに無視されたのを思い出すと不安が込み上げる。

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