2 休日の終わり
神妙な顔つきで、妻は口にした。
「コロニーから出ようと思うの」
彼女は目を伏せがちになり、落ち着かせようと赤ワインで口を潤した。
「すぐにじゃないわ。10年後かもしれないし、もっと先かも。だけど、いずれは出ていかなければいけないわ」
自然と頷いた。
そう、いずれは出ていかなければいけない。
もう多くの友人たちがこの時の中から出て行ったのだ。
「考えていて」
彼女は立ち上がると、テーブルの上に置かれていた私の手に触れ、足早に離れていった。
そして今日が始まった。
部屋の電気をつけ、姿見の鏡の前に立つ。
草臥れた老人が立っていた。
痩せ細っているが、腹だけは出ている。白と灰色の髪に、汚く禿げかけた頭。頬はたれ、ブルドックのようだ。
何も変わってはいない。
ソファーに横たわりながら、ぼんやりと天井を眺める。
空腹だったが、もう何十年も食事はおろか水すら飲んでいない。別に、一日食事を抜くだけなのだから問題などない。不満なのは、何も口にしていないのにトイレにはいかないといけない事だ。
どうして何も食べなくなったのだろう? 確か、食べるという行為に飽き飽きしてしまい、空腹で食べればなんだって美味しく感じるかもしれないと思ってからだ。
どれだけの時間、ここに居るのだろうか。
数十年、日にちはもうわからない。
昨日何をしていたか思い出せない。
何不自由のない日々に、色々なことを忘れてしまった。それなのに不思議と父親、母親、友達に仕事については忘れていない。それどころか、時間が経つにつれて鮮明になり始めていた。
ただ疲れていたのだ。
介護に疲れ、妻と共に一日だけ休みをもらった。10月12日だ。家は別々にしてもらった。妻と私は、1人になりたかったのだ。
深夜になると義母が叫び声を上げた。オムツをかえ、食事を作って口へと持って行く。言葉にならぬ説教をされ、腕には引っかき傷が残っていた。
私は仕事があったからまだよかったが、妻はずっとつきっきりだった。1年、2年と過ぎていき、目に見えて精神がすり減っていくのが分かった。
息子、親戚の勧めで5年前に開業したループジョンカンパニーの分厚いテストを受けた。最低1年、最長で無限の時間を過ごす事ができるらしい。家族のみんなはどうにか私たちを休ませようとしてくれたらしい。そして、信じられないことに無限の時間に受かったのだ。
まるで宝くじに当たったかのように、私たちは妻と共に喜んで宇宙コロニーへと向かった。
それから長い時間が過ぎた。
時計を見ればまだ3時、部屋の中にいると息が詰まりそうで外に出ることにした。
都市は、人はいないが生きている。
今は人が退去しているが、生活基盤がしっかりとしていた。一週間ほど暮らし、客が来る1日だけ隣のコロニーに移るそうだ。そのおかげで、デザイン都市のような無機質さがない。
建築家が頭の中で作り上げた理想の都市という物は、生活してみると不便なものだ。宇宙暮らしが普通になり始め、論文に書かれている。
道の端に置かれたテーブルにはママレードが置かれ、どうぞ飲んでくださいと子供の文字で書かれた看板。あまりおいしくはなかったが、このママレードがどれだけ心を慰めてくれたか。
車などの移動手段を使わず、歩いて街へと向かっていた。
息が上がり、汗が滝のように流れる。脚はズキズキと痛み、首周りが石のように固くなっていた。ここでは体を鍛えても明日には元通りになってしまうので、まったく意味がない。衰えることもないが、良くなることもない。それだけは残念だ。
昼頃になるとやっとビルが増えてゆき、巨大なレジャー施設にたどり着いた。
自動で開く大きな扉をくぐると、煌びやかなシャンデリアが出迎えた。景気のいい音楽、並ぶスロットの音がかき消していた。自動ポーカーの台の近くに、円柱形の機械がウエルカムドリンクを配っていた。私はかけ事が嫌いだ。普通に弱いのだ。だから全く縁遠い場所だったのだが、今では敷かれた絨毯のシミの場所まで完璧に把握していた。今はもう飽きたという気持ちで、品のない金色のエレベーターに向かった。
エレベーターに乗ると最上階のボタンを押す。体がすっと冷たくなり、体が重たくなった。
ドアが開くと、そこはまるで外に出たかのように開放的な場所だった。
透明な屋根に壁、世界各国の伝統的な建築物が並んでいる。地面を見下ろせる景色、空を見上げれば丸い地面があり不思議な景色だ。
汗をかいたが、やはり口に異物を入れたいという欲求はわいてい来ない。ただ景色のいいオープンカフェへと向かった。
不思議な感覚になるカフェだ。この不思議な絶景が楽しめ、高所恐怖症に少々辛い作りになっていた。
カフェなのにビールやコーヒーはおろか、水すら飲まずその景色を楽しむ。
「あら、珍しい人が来たわね」
「やぁ、ピサロ。変わりないかい」
当たり前でしょというように、大きく欠伸をした。
ペルシャ猫のピサロは、バーカウンターの上に座りぼんやりと虚空を眺めていた。
「何が見えるんだい?」
「耳を澄ませているだけよ。何度も言ったでしょ?」
「初めて聞いたよ」
「そうだったかしら?」
興味なさそうに顔を洗った。
彼女は数百年生きた猫だ。
昔は愛嬌のある猫だったのよとうそぶいていた。
「話し相手が欲しいんだ、いいかな?」
「ええ、私もよ。ご無沙汰だったわね。えっと、そうよね?」
「たいした問題じゃないさ」
景色に背を向け、バーカウンターの席に腰掛けた。
「また何か新しい発見をしているのかい、ピサロ」
「当然でしょ、おバカさん。いつだって不満なことばかりよ」
彼女は人間のように微笑んだ。
ここはペット、愛する家族と永劫の時を暮らせる場所だ。
変化は、100年後ぐらいに現れるそうだ。
明確に意思を示す様になり、文字を覚え、言葉を練習し始める。動物は人間のようにはならない、そのような概念を覆した。
「生きることは不満を解消しようとすることよ。ほら、頭を撫でなさい」
ピサロが頭を押し付けてきたのでふかふかの毛を優しく撫でた。
「君は、家族と別れて寂しくないのかい」
「あら、随分プライベートなことを聞くのね」
猫らしい唸り声を上げる。
「寂しいわ。だけど、いつも一緒ってわけにもいかないでしょ? 親から巣立つのは子の役目よ。100年以上一緒にいた私は甘えん坊なのよ」
いつもなら聞き流してしまいそうな言葉だが、ひどく動揺させられた。
彼女の言う親は、猫の親じゃない。飼い主のことだ。彼らいわく、愛情たっぷりに暮らしていれば知性もつくそうだ。
つまり彼女は幸せだったということだ。
「家族を忘れることはあるのかい?」
「ないわ」
すくっと綺麗な体を持ち上げた。
「外に出たらたったの15年で死んじゃうでしょ? だけど外に出ればすぐに会いに行くわ。ママのブラッシングじゃないと決まらないのよ」
長い毛を自慢げになびかせた。
「どうしたの? あなたも行っちゃうの?」
小さく息を吐き、頷いた。
「妻が、もう帰ろうと言って来たんだ」
「そう、寂しくなるわね」
彼女はぺろぺろと自分の腕を舐めた。
「随分浮かない顔ね、出ていきたくないの?」
「わからないんだ。なぜこんなに落ち着かないのか」
このコロニーに来た時は、ただ放心して明日が来ることを恐れた。
今日が続く事が分かると、生きることを楽しみ始めた。それから次に死を、老いを恐れた。
しかし生きることを渇望し始めた頃から、明日を想い始めた。
「わかっているんだ、心のどこかでもう休みが終わっていることを。こんな日が来ることも分かっていた。それなのに、ひどく落ち着かないんだ」
「みんなそうよ。みんなそうだったわ」
彼女は優しく声を上げた。
「家の鍵を閉めてきたかしら、食べかけのピザを出しっぱなしにしていないかしら、そう思い振り返るものよ」
「・・・」
難しい言葉だ。
彼女は何でも知っている。多くの人たちと出会い、悩みを聞き解決してきた。ただその言葉は遠回しで、難しい。
「あなたが不安で家に帰るのも、もういいやと先に進むのも好きにすればいいわ。そういうものでしょ?」
「ああ、そうか、そうだね」
自分で決めればいいのだ。
この場所は、そういう場所なのだから。
妻と一緒に、一年間のリハビリを開始した。
まずは食事ととる事。精神的に受け付けなかったが、別に体が変化したわけでもなし、すぐに物が食べられるようになった。
次にコロニーに入る前に製作したプロフィールデータを何度も見直した。身の回りの人物、その姿、声、性格を再び記憶する必要があった。忘れていないつもりだったが、かなりの記憶が抜けていて驚いた。
まだ残っていた少数の友人たちと別れのパーティーをして、出た後のことを話し合った。行政のサービスを受ければ寝たきりの祖母を病院で引き受けてくれることを知り、更に外の世界でどのようにお金を儲けるかについても話した。お金が無いと何もできない。私は今になって、やっと理解できた。
私と妻は、来た時と同じ空港に来た。
この捕らわれた牢獄から逃げ出すのは簡単だ。コロニーから出て行けばいい。誰もいない、真っ白な建物を進み、やはり誰もいないシャトルに乗った。
妻と手を握り合っていた。
「帰るのね、私たち」
「そうだね。楽しみだね」
妻は手を強く握った。
「ええ、本当に」
シャトルには椅子が二つしかなかった。
どういう事だろうと思いながら、夫婦はその椅子に座った。
「おおっ、これは」
思わず声を上げてしまう。
腰、首、足首に腕に鉄の輪で拘束されてしまう。
椅子が動き始めると、中央で止まった。
スクリーンが現れ、状況を説明し始める。いろいろと説明があった。わかりやすく言うと、動き回られると困るので拘束させてもらったそうだ。
シャトルが動き出したようだ。映画のようにエンジン音や浮遊感もない、静かな発進だった。
しばらくすると、身体に変化が表れ始めた。
シャトルは揺れていないのに体が揺れていた。
「あなた」
「ああ」
体がぶれ始めた。
周囲が揺れ始め、人の姿が現れ始めた。
同じように拘束された人たちは自分たちと同じようにきょろきょろと顔を見合わせている。
「あらみんな、ずいぶん久しぶりね。私のこと覚えているかしら」
台の上で大あくびをするピサロがそんなことを言ってきた。
「ついさっき別れたばかりだよ」
「あら、記憶が確かなら10年ぶりよ」
「俺はどうだ?」
「あなたとは50年ぶりね。変わらないようで安心したわ」
妻と顔見合わせ、声を上げて笑った。
ループジョンカンパニー 新藤広釈 @hirotoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ループジョンカンパニーの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます