第109話 冥府の泉

「あぁぁ゛・・・・ぁぁぁあ゛・・・」


 自分とは異なる何かが入ってくるのを必死で拒絶する。

 悍ましくて邪悪でしかないそれを、早く消し去らなくてはいけない・・・


 ――― 我にその身を差し出せ。さすれば望みを叶えよう ―――


 そんな言葉に、スゥっと引き寄せられるた瞬間、瑠衣は我に返って自我を保つ。


 外で史郎とレンが何とかしようと頑張ってくれている。

 でも、駄目だ。

 よく分からないけれど、分かるのだ。

 その全てが無駄であると。

 

 だから絶対にコレは手放してはいけない。

 コレは、この身に宿したままに処理しなければ・・・



 ――― 中々の渋とさだな。だが感じるぞ。我を受け入れんとするお前の闇・・・抗うな。我を飲み込み眠りにつくが良い ―――



『駄目だ。意識が薄れていく。この身体を明け渡すわけにはいかない。そんな事をしたらこの世界は終わる・・・でもどうすれば・・・』


 たじろいだ足に蹴られた小石が、カラリと音をたてて落ちていくのを感じて足元に視線をやる。

 足元は崖。

 その遥か下には水が流れている。


 そういえば、この場所は冥府の泉がに繋がっているのだと言っていた。

 

『ユーメルが史郎に殺されるのではなく泉に溶けたのは、伏線だったのかもしれないね。』


 伏線回収。

 そんなメタな単語が頭に浮かんで、瑠衣はクスリと笑ってしまった。


「史郎さんっ。兄様には上手く言っておいてくださいね。」


 いつも通り、明るく言えただろうか。

 上手く笑えただろうか。

 声は震えていなかっただろうか。


 散々迷惑をかけたのだし、最後くらいは格好つけたいもの。


 力を振り絞って意識を操作し、そう言い放った言葉と共に、瑠衣は空へと背中を預けるように崖の下へと落ちていく。


 ――― 愚か者めが・・・その先にあるのは永久の苦しみぞ  ―――


「兄様が生きる世界を救えるのなら、私は愚者でかまいませんよ。」


 ――― ならぬ ならぬならぬ 望め 我を望め ―――


「残念ですね。私は世界の破滅はもう望みません。」


 ――― 我を・・・望め!!! ―――


 けたたましい叫びに頭が割れそうだ。

 けれど、それももうじき・・・。


 ポチャン と身体が水に触れた。

 まるで貯め水に絵の具でも落としたように、波紋を広げながらこの身が泉へと溶けていく。


 その瞬間、二度とここから這い上がれ無いのだと、イヤでも確信した。

 身体がなくなったのだ。

 意思だけを残して。


 なんて恐ろしいことなのだろう。

「私」を形づけるものがなにもない。

 その恐怖に苛まれ、瑠衣は声なき声をあげて叫んだ。



 ***




 どれだけ時間がたっただろうか。


 流れに身を任せてぼんやりと、何故こんな場所にいるのかすら忘れかけた頃、一つの声がして、瑠衣は意識を取り戻した。


「瑠衣さん。そっちへ行っては駄目よ。」


 るい・・・るいとはなんだろう・・・。


「こっちへいらっしゃい。そっちは駄目よ。」


 聞き覚えのない声が呼んでいる気がする。

 

 だけど、流れに逆らう方法など知らないのだ。

 残念だけど、その声には答えられそうもない。


 この身はただ、そうして揺蕩うだけなのだと、瑠衣は静かに目を閉じた。 


「駄目よ。気をしっかり持つの。じゃないと、翔が悲しむわ。」

「・・・かける・・・?」


 何だろう。

 とても、愛しい響きだ。

 あったかくて優しい・・・


「そう、瑠衣さんの帰りを待ってる翔。約束したのでしょう? なら、あなたは翔の元へ帰らなきゃ駄目よ。」

「約束・・・」


 ――― ・・・だから、瑠衣も必ず帰って来ると約束してくれ ―――


 温かい腕の中で、優しい温もりの中で聞いた、消え入りそうな誰かの願い。

 本心を隠してでも、安心して行ってこいと背中を押してくれた・・・


「そう約束・・・ちゃんと帰るって、待ってるって、守っているからって・・・一緒に戦うって・・・兄様・・・翔様・・・私約束、守れなかったな・・・」

「諦めるのはまだ早いわ。さ、こっちへいらっしゃい。瑠衣さん。」


 来いと言われても、ここが何処なのかも、何処へ行けばいいのかもわからない。

 声はずっと頭の中で響いていて、瑠衣はただ流されるままなのだ。


 だけど、だけどもしも叶うのなら、もう一度・・・


『兄様の元に帰りたい!!』


 そう願った次の瞬間、瑠衣は目を見開いた。


「っ!?」


 意識を取り戻すと同時に、意識が無かったことを自覚する。


「夢? え? 待って何処までが・・・?」


 身体がある。

 記憶もある。

 それ即ち・・・辻褄が合わない。


「大丈夫? 瑠衣さん。」


 混乱しているところに、先ほどまで頭の中で鳴っていた声が、今度はちゃんと隣から聞こえてて来た。


「あなたは・・・?」


 当たり前のように瑠衣の名を呼ぶその人物は、20代くらいの細身で長身の女性。残念ながら、瑠衣の記憶にはない人物だった。


「私は美咲。ここは生命の泉のほとり。あなたはここに居るべきじゃない。だから、帰り道を探しましょう?」


 美咲はそう言ってほほ笑むと、手を差し伸べて立ち上がるのを手伝ってくれた。


「あの、帰り道って・・・私、帰れるんですか?」

「それは私には答えられないわ。でも、私はあなたを案内するわ。」

「私の事を知っているんですか? 私は・・・美咲さんに覚えが無いのですが・・・」

「それは当たり前よ。あなたと会うのは初めてだもの。でも、私はあなたが赤子だったころから、あなたを見ていたの。ずっとね。」

「え・・・?」

「まぁ、正確にはあなたを見ていた訳ではないんだけどね。あ、この先にある、ヘル様の部屋へ瑠衣さんを連れて行くのが私の仕事なの。歩けるかしら?」

「あ、はい。」


 瑠衣が頷くと、美咲はまた柔らかく微笑んでゆっくりと歩き始めた。

 

 ザクザクと音が鳴る足元にあるのは白い砂。

 その向こうには透明なが水が、水面をキラキラ光らせて泉を作っていた。


「ヘル様って、冥府の番人のヘル神ですか?」

「そう。ヘル様はとても良い方よ。私の生まれ変わりも先延ばしにしてくださってるの。」

「先延ばしって事は、美咲さんはもう魂の浄化は終わっているんですね。」

「正確にはまだかな。本当の終わりは記憶を全部失って、真新しい存在になって生まれ変わるらしいから。あ、ほら見て。」


 美咲が指さした先にある泉から、まばゆい光が一つ天へと昇っていく。


「あの先に死神が居て、新しい身体を貰って生まれ変わるんですって。」


 それが人間界で母体に宿り、赤子として生まれて成長していくなんて、本当に神秘でしかない。

 昇っていく光をしばらく2人で眺めてから、またゆっくりと歩き出した。


「美咲さんは、生まれ変わりたくないんですか?」

「んー、そういうわけではないんだけど・・・子どもの事が心配なのよね。良い歳して、結婚もせずにまだフラフラしてるから。」

「美咲さん、そんな大きなお子さんが居るんですか!? 全然見えないですけど・・・」

「ふふっ。死人は年を取らないからね。・・・私、十数年前に夫と一緒にこっちに来たの。それで、ずっと2人で子どもの成長を見守ってたのよ。なのに、息子が成人したのを見たら、満足したのか夫は先にいっちゃった。男親ってアッサリよね。今頃は子どもになって、野山を駆け巡っているんじゃないかしら。残念だけど、来世では会えそうにないわ。」

「愛しているんですね。」

「えぇ。自慢の夫と息子。理不尽に引き離されてしまったけれど、壊されてしまったけれど、もう少しだけ愛していたい。せめてあの子が良い人と結ばれて、独りじゃなくなるまで。・・・私には、見守ることしかできないないから。」

「でしたら、言伝でも預かりましょうか? 私もフラフラしている身なので、いつか息子さんに会う事もあるかも。まぁ、帰り道が見つかって、人間界に帰れたらですけど。」

「言伝かぁ・・・それより瑠衣さんがお嫁さんになってくれた方が嬉しいわ。そしたら私も安心していける。うん! 悪い話じゃないわね。愚息だけど、それなりに稼ぎはあるみたいなのよ。顔つきも父親に似て整っている方だし、女を守るくらいの度量はあるわ。・・・どう?」


 先を歩いていた美咲が、振り返って食い気味に瑠衣を見下ろす。

 だけどその時瑠衣の頭には翔の姿が浮かんでいた。


「どう? といわれても・・・あの、それは無理です。私、お慕いしてる方がいますので。」


 それが叶わぬ願いだったとしても。

 きっと生涯において、翔以上に好きになれる人なんてあらわれないだろう。


 大体、今は恋愛に現を抜かしている場合でも無いのだ。


「・・・そう、なら仕方ないか。私も夫とは駆け落ちだったのよね。夫の両親反対されて、2人で逃げたの。だから、人を好きな気持ちは止められないって良く知ってる。残念だけど、無理強いはできないわね。でも、人の気持ちも変わっていくものだから、巡り巡って、瑠衣さんがいつか息子を好きになってくれたら、私は大歓迎。あの子には親はもう居ないから、先に許可出しておくわね。」

「あはは・・・」


 会ったこともない人の親に、婚姻の許可をもらってしまった。


 仮にその人物に出会ったとして「冥府でお母様から許しを得ていますから、結婚してください」なんて言ったら、危ない人間確定だろう。


「どちらにしても私は死者よ。私が語れるのは過去のことだけ。死者が生者に干渉したらいけないわ。だから今私が抱く想いは、息子に伝わるべきじゃないと思わない?」

「・・・確かに。そうかもしれませんね。」

「でも、だから言伝のかわりに一つ、お願いをしておこうかな。もしも瑠衣さんが無事に人間界へと戻れたら。」

「出来ることでしたら?」


 今度はネンを押しておくと「大丈夫よ」と美咲は笑った。


「私ね、死ぬ前日に息子に手紙を書いたの。殺されるのが分かっていたから。でも、渡せないままでね・・・その手紙が、今も住んでいた家の下に埋まってるみたいなのよね。だからもしも瑠衣さんが近くに行くことがあったなら、回収してくれない? もう内容も覚えてないんだけど・・・今更誰かに見つかって、変なことかいてあったら恥ずかしいじゃない。どう?」

「それなら出来そうです。住んでいた場所、何処ですか?」

「ふふっ、良かった。」


 美咲はすぐにその場所を教えてくれた。

 潮領の外れにある、小さな島の、今は人も寄りつかない廃れた集落。

 中心で今もそびえ立つ一本木から南に行った場所に、その家はあったのだという。


 それを聞いて、瑠衣は美咲が誰なのか、何故瑠衣のことを知っているのか、わかってしまった気がした。


「美咲さんって、もしかして・・・」


 投げかけた問いに、美咲は肯定とも否定ともとれない微笑を浮かべるだけで、答えてはくれない。


「島にはもう誰も住んでいないから、急ぐ必要はないわよ。家自体もつぶれちゃってるし、掘り出すのは時間がかかるかもだから・・・瑠衣さんに暇ができて、覚えていたらでいいんだ。その時は、よろしくね。」

「・・・はい。必ず。」


 きっと、いずれ手紙を見つければ、その疑念は確信へと変わるだろう。

 だからこそ、その「願い」を叶えることに、強い使命感を持って頷いた瑠衣に、美咲も嬉しそうに微笑み返していた。


「さて、じゃぁ私はここでお別れね。」


 立ち止まった美咲につられるように立ち止まり、顔を上げる。

 その奥に、仰々しい装飾をまとった金色の大きな扉がそびえ立っていた。


「この先がヘル様の私室。私はまだ行くことは出来ないから。・・・瑠衣さん、話せて楽しかったわ。ありがとう。」

「そんな・・・お礼を言うのは私の方で・・・あ、あの、えっと・・・」


 後腐れなく消えてしまいそうな美咲に、このまま別れてしまうのはなんだか名残惜しくなって言葉を引き伸ばす。

 

 聞きたいことが、話したいことが、沸き上がるのに言葉が続かないのは、聞いたところで、きっと美咲は答えてはくれないだろうと分かるから。

 それでも何か、この繋がりを終わらせたくなくて、振り絞った言葉はあまりにありきりたりな言葉だった。


「最後に一つ、美咲さんの好きなものは何ですか?」

「好きなもの・・・?」

「そう、あの、好きな食べ物とか、花とか色とか何でもいいんですけど。教えてくれませんか? 」

「好きなもの・・・そうね、甘いものなら何でも好きだわ。特に好きなのは、果物の飴がけかな。潮の隣町にある菓子横町に、丸屋さんって飴屋があるんだけどね、本当に時々、太陽の実っていう果物の飴がけが売られてるの。小さいときはそれが大好きだったなぁ。「今日はある?」って、毎日通ってた。多分まだあるから、機会があったら是非食べてみて。」

「それは是非っ!!」

「あと、花? 花は詳しく無いのよね・・・でも、大きなものより小さい方が好きかな。桃色や黄色や水色みたいな、明るくて可愛らしい色が好きね。」


 もういいかしら?

 と小首を傾げる美咲をこれ以上つなぎ止めて置くのも申し訳なくて、感謝の意を伝えると、美咲は少しだけ真剣な眼差しで瑠衣を見つめて来た。


「いつまでも、風があなたに吹くわけじゃない。だからあまり無茶をしないでね。瑠衣さんが大切な人を想うように、瑠衣さんを大切に想う人がいる事を忘れてはいけないわ。」

「・・・はい。」


 美咲の言葉をかみしめて、瑠衣は大きく頷いた。

 諭されるような、叱られているような、ズシンと重い何かが心に落ちるのを感じる。


 そんな瑠衣とは反対に、軽やかに微笑んだ美咲は


「じゃぁね」


 と、手を振ると、笑顔で消えていったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る