第106話 出発、そして来客
「それでは兄様、行ってきます。私の身体をお願いします。」
「あぁ。何があっても守りきる。だから、瑠衣も必ず帰って来ると約束してくれ。」
「はい。」
「必ずだからな・・・」
腕の中に瑠衣を抱きしめて、翔はこのまま時が止まればいいとすら思っていた。
この手を離せば、瑠衣は行ってしまう。
翔の手の届かない場所へ。
「・・・ふふっ」
そんな想いなどつゆ知らず、腕の中でうずくまっていた瑠衣が笑いを漏らした。
「これではいつもと反対ですね。」
「・・・そうだな。出かけに瑠衣が不安がるのを大袈裟だと思っていたが、今ならその気持ちが分かる気がする。」
「私も同じ事思ってました。今なら私を置いて出て行く兄様の気持ち、分かる気がします。だからって訳じゃないですけど・・・大丈夫ですよ。ちゃんと帰ってくるって約束します。だから、兄様も。」
「あぁ。そばには行けないが、この場所で共に戦う。安心して行ってこい。」
「はい。」
決意の固い瑠衣を、引き留めることは出来ない。
だったらせめて、いつも通りに送り出すと決めた。
抱きしめていた手を離すと、瑠衣はいそいそと布団に横たわる。
何度か神界へ行く練習した瑠衣はコツをつかんだらしく、願えば眠りに落ちると同時に魂と器を分離することができるようになったのだとか。
瑠衣の髪を撫でると、気恥ずかしそうに顔を赤らめた瑠衣は、それでも「安心します・・・」と朗らかに微笑んで目を瞑った。
やがて聞こえてくるのは、聞き逃しそうなくらいに小さな吐息。
器を保つ為だけの、細い細い命綱の音。
「史郎、瑠衣を頼む。」
「なんて顔してんだよったく。いつまでたっても甘いんだから。言いたかないが、傷一つつけても瑠衣ちゃんは戻らないと思えよ。」
「分かっている。」
もぬけの殻となった瑠衣の無事を確認した史郎が、嫌な忠告を残し立ち上がる。
「んじゃ、行くわ。後よろしくね。」
「あぁ。」
さっさと背中を向けた史郎がそう言って空高く飛んでいくのを見届けてから、翔は眠る瑠衣の横に座った。
「無事行ったのね。」
何処で見ていたのか、今まで存在感の欠片すら出さなかったエネが、部屋へ姿を現す。
「居たなら声の一つでも掛けてやれば良かっただろう。姿が見えないことを瑠衣が気にしていた。」
「今更掛ける言葉なんて無いわよ。言いたいことは全部伝えてあるし。今生の分かれって訳でもあるまいし。」
「・・・・・・そうか。」
「そうよ。」
「・・・。」
今生の分かれじゃない。
たとえそれすらもエネの強がりだったとしても、全てを客観視するエネから発せられるその言葉は心強かった。
「・・・にしても、あんた案外あっさり手放したわね。もっと渋るかと思ってたけど。参考程度に聞かせてよ、どうして瑠衣を引き留めなかったの?」
作家を名乗るエネは、良いネタを見つけたとばかりに詰め寄って来る。
「何故・・・? 俺に引き留める資格があると思うか?」
その質問に答えてやる義理などないのだが、心にあるわだかまりを吐き出す場所として、事情を知りつつ適切に距離を保つエネは丁度良かった。
昨日の朝方、史郎が傷だらけで家に帰ってきた。
息も絶え絶えで、それでも「何とかなった」とはにかむ史郎を、瑠衣が涙ながらに迎え入れ、直ぐに傷の処置が行われた。
頼まれた布と水を用意して部屋へ戻る途中
「ごめんなさい。私が史郎さんを兄様の身代わりにしたから・・・」
そんな声が聞こえた。
「違うでしょ。僕がこの役を引き受けたのは、僕自身の選択。
それより、瑠衣ちゃんの反応から察するに・・・翔だったらもっと上手くやってた?」
「それは・・・分かりませんけど、少なくともイベントで兄様が大怪我をおうと描写は全くて。だから私、史郎さんなら軽々出来るのかなって・・・。」
「やっぱりかぁ。僕、ギリギリ死ぬとこだったよ。あはは、面目ないねぇ。」
史郎の傷は見た目ほど酷くは無かった。
疲労はかなりあったようだけれど、パフォーマンスであった部分も大きいのだろう。
おかげで瑠衣が
「私、甘く見てました。神様相手に簡単な事なんて一つも無いはずなのに。こんなんじゃ、勝てないです。」
と、気合いを入れ直していたから。
「瑠衣に守られるだけの不甲斐ない俺に、どうして瑠衣を引き留められる?」
「あぁ、役立たずに発言権はないって? 確かにその通りだわね。まぁでも、ああなった瑠衣はどうせ止めたって聞く耳持たないでしょ。あの猪突猛進さって、一体誰に似たのかしら?」
「さぁな。勢いで瑠衣を作り出すような
「あぁ、成る程。・・・ん? ねぇ。」
「今度は何だ?」
「客が来たわ。」
警戒感を漂わせたエネに倣い、周囲に意識を集中させる。
翔には何も捉えられないが、周囲に結界を張っているエネには徐々に近づいてくる何かの気配が手に取るように分かるらしい。
この場ですら性能が劣る事はもどかしいが、種族による能力差を嘆いたって仕方がない事だ。
「相手が何か分かるか?」
「神、あるいはそれに準ずる何かね。」
「チっ・・・」
「結界を丁寧に潜ってきてるこの感じ、好戦的ではないと見るか、足下見てるのか・・・」
「どちらにせよ、だろ。」
「そうね。」
襲ってくる様子をいっさい見せないまま、そうしてやってきた来客は、コンコンとご丁寧に玄関の戸を叩いた。
「用件は?」
戸は開けず、来客に向けて問いかける。
「私達は戦いにきた訳じゃない。」
「おまえ達に頼みがあってきた。」
幼い少女の声が翔の問いに答えた。
「誰だか知らんが取り込み中だ。悪いが頼みごとを聞いてやる暇はない。」
「私達は観測者。他者を消す力は持たない。」
「私達は戦いにきた訳じゃない。」
だから開けろと言っているのだろうが、それを信じて招き入れるほど、翔は寛容ではない。
わざわざこのタイミングで乗り込んできたからには、瑠衣に纏わる何かがあるに違いないのだ。
だから追い返そうと刀に手を伸ばし掛けたその手を、エネが止めた。
「ねぇ、あんた達、もしかして歯車の観測者?」
「「そう。私達は歯車の間の番人。ノルとニル。」」
返って来た応えに、やっぱりとエネが複雑な表情を浮かべる。
「どう言うことだ?」
「あの2人、鬼を倒した後からずっと、瑠衣に干渉し続けているらしいのよ。ただ、直接の接触は無くて、理由も分からないんだって。」
「それが何故今?」
「だからでしょ。・・・それと、運命の歯車の番人は公平に世界を観測して、然るべき場所に橋渡しをする事が役目。だから、基本的には交戦しない。その力を持たないとは・・・信じがたいけど。」
「・・・話を聞いてみるか。瑠衣は?」
エネが大丈夫だと頷くのを確認し、翔は警戒しつつも戸を開けた。
***
眠る瑠衣の横で、神を名乗る双子の少女と向い合せ。
何故か4人で茶を啜っているカオス。
「この茶は美味いな」
「お茶菓子も美味いな。」
「そりゃ、そのお茶もお茶菓子も良い所の物だもの。戦中の糖分補給に用意したものだけど、役に立って良かったわ。」
「それは、申し訳ない事をした。」
「いいわよ別に。そんなもの気休めなんだから。あ、気に入ったなら、店の場所教えましょうか?」
「ありがたいが、私たちは人間界の金とやらを持っていない。」
「それは残念ね。なら、好きなだけどうぞ。持って帰ってもいいわよ。」
「助かる。」
仲良さそうにノルとニルと話し込むエネ。
神の思考も妖怪の思考もサッパリ分からないが、これは正解なのだろうか。
ノルとニルが居る間は、この場所に何かが立ち入る事は無いらしい。
争う力はそう無いが、守る力に限っては大いなる力を持っているのだとか。
そうでなくとも、神界で大きな権限を持つ2人に手を出そうとする輩はいないそうだ。
「で、用件は? 頼みがあるとか言ってなかったか?」
とはいえ。
そろそろそんな状況にも辛抱できなくなり、翔は何度目かの茶のお変わりをテーブルに叩き置くと同時に、ノルとニルを見下ろした。
「急くな人間。」
「私達は茶を堪能している。」
「呑気に見守るのが仕事な奴らと違って、俺は気が短いんだよ。さっさと用件を言え。」
「・・・」
「・・・良かろう」
ノルとニルがすっと立ち上がり、手をつないだ。
目を瞑った2人の体はふわりと宙び浮かび、眩い光に包まれる。
繋いだ手を前に差し出すと、その先で小さな歯車がひとつ。
回り出した歯車の隣に、次々と湧き出る歯車が繋がり、徐々に一つの形を作り出した。
時を刻む時計塔だ。
「見事ね。」
「あぁ・・・」
圧巻の創作物に、おもわず言葉を失った。
「「これは世界。一個一個は人間界に住まう魂。」」
同時に話す、ぴったりと重なったノルとニルの声に不気味さを覚えるも、2人は気にせず言葉を続けた。
「「これを・・・」」
繋がれた手そそっと開く。
その手の中には数枚の歯車。
「「これが、その娘のしている事」」
「瑠衣が? 一体何の話をしている・・・」
「「このままでは世界は機能しなくなる。これは私達の過ち。歯車を持たぬ異物の存在を消せなかった。」」
その瞬間、時計塔からまた一つ、歯車がカランと音を立てて落ちた。
「運命の歯車の一つ一つは、世界を構成する生きとし生ける全ての命。それが形作るのが世界の形。・・・瑠衣は、瑠衣の存在は、そこには無かったというの?」
「「そう、その娘は歯車を持たぬ異物。世界が存在を認めていない者。そして、運命の歯車を破壊する者。」」
「・・・瑠衣が運命を変えているから?」
「「その通りだ」」
エネとノル、ニルの話について行くのがやっとではあるが、あらかたの状況は理解できた。
神の愚行によって生み出された瑠衣は、本来ならばひとつの歯車として身をおくはずの世界によって拒絶された。
瑠衣のような異物を、世界は望んではいなかった。
「「私達はその存在を今も許してはいない。しかし、私達がその娘に接触すると死神が邪魔をする。」」
ノルとニルの役割は、世界が歯車が恙なく動くように見守ること。
当然今までも力の限り瑠衣を消そうと努力したそうだが、裁く力を持たない2人には限界があったし、なにより瑠衣には、レンと史郎、そして姿はなくともユーメルが付いていて、到底かなう相手ではなかった。
そこで、人間でもある瑠衣の情に訴えかけようと、瑠衣を歯車の間に呼び寄せたが、それすらもレンに邪魔されたのだという。
「「その娘は他者の運命をねじ曲げ、世界との繋がりを絶つ。こぼれ落ちた歯車が世界に戻ることは無い。」」
ノルが、眠る瑠衣の方へ手をかざす。
瑠衣の着物の袂が光、そこから何かが浮いて来てノルの手に収まった。
「それ・・・」
息をのんでいるエネが見ているのは、瑠衣が友人から貰ったという、鬼を倒す際に聖水が入っていた根付け。
確か瑠衣はオベリスクと言っていたその中身は今、黄金色に輝いている。
「「全て、その娘によって運命をねじ曲げられた者達。この中にはおまえ達もいる。」」
差し出されたオベリスクをよく見れば、中は全て小さな歯車。
そんな物に心を奪われる気がするのは、やはりそこに自分が在るからなのかもしれない。
「「これらを全て世界へと戻す方法が一つだけ在る。繋がりを解かれた第一の人間、初めの逸脱者である
「・・・俺に瑠衣を殺せというか? 冗談だろ。瑠衣が運命に干渉しなければ、俺は既に死んでいた。殺されたならまだしも、生きながらえさせて貰っている身だ。瑠衣には感謝しかしていないさ。お陰で、今もまだ瑠衣の側に居られるんだから。」
「「だが、お前はその娘によって落ちた最初の歯車。お前がその手でその娘を消すことでしか、全ては元に戻らない。」」
強制的に翔の手に収まってきた、黄金色に輝くオベリスクを見つめる。
いったいいくつの歯車が入っているのか知れないが、瑠衣を殺さなければそれらが世界に返れないらしい。
「・・・だから何だ? 瑠衣は今、その世界を救うために戦っている。」
「「それは、私達には関係ない話。大切な事は、その娘が異物であり、他者の運命をねじ曲げられる悪であるという事だけ。もう一度言う、世界との繋がりを絶たれた歯車が、再び世界と繋がる術はない。つまり、おまえ達に在るのは消滅のみだ。慈悲ある死に方も出来ず、生まれ変わることもなく、苦痛に身を歪めながら消えていく定め。」」
「それがどうした。人間なんていつか死ぬ。たいていの人間は、それがいつかなんて気にして生きてはいない。考えたって無意味だからな。そして死んだら終わりだ。俺と言う人間は、そこで消滅する。生まれ変わった後の俺に興味など無い。」
「そうね。あなた達は見えているから異常と思うかも知れないけれど、それを知ったとして私達は、瑠衣に殺されるとは思わないわ。」
「「・・・・・・・・・」」
その反論に、意味が分からないと言いたげに、ノルとニルは首を傾げて静止してしまった。
見開いた目だけが、翔をじっと見つめて何かを訴えかけてくるが、その目を強い意志を持ってにらみ返して、翔は言葉を続けた。
「ここにある幾人の命と瑠衣の命、どちらを選ぶのかと言われたら、俺は瑠衣の命を選ぶ。それが瑠衣の重荷になるのなら、この歯車が朽ちる前に、全ての人間を俺が殺して消し去ってでもな。」
「「・・・決意は固そうだな」」
「当たり前だ。瑠衣を守ることはあっても、消すことはない。」
「「そうか。」」
案外あっさりと、そう納得し、ノルとニルは宙にあった歯車の時計塔を消して床に降りたった。
「っていうか、そもそも今瑠衣は世界を救うために戦っている、居なくなるとそれこそ世界の危機だとおもうど、それはどう考えるの?」
「「その娘が世界を救う光かは定かではない。しかし、異物であることは定かである。世界が存在を否定するもの。私達はそれを無視することは出来ない。」」
「さすがは「公平」な神様ね」
これも瑠衣を消す手段の一つ。
その一つがつぶれたところで、大した痛手ではないこだろう。
何ならこの戦いで、瑠衣がうっかり命を落としてしまえたなら、歯車が元に戻らなくとも、ノルニルには都合が良いのかも知れない。
「「初めの逸脱者よ、気が変わったならいつでもその娘を消すと良い。世界に戻らねばその魂は、歯車が朽ちるその時共に消滅する。時間はそう長くは無いぞ。」」
「生憎、人間様は短い今を生きるのに必死でな、不要な事を考える余裕はない。気が変わることは無いだろう。」
「「ねじ曲げられた運命を、よもや受け入れる人間がいるとは・・・。いや、だからこそ、お前の運命が初めに捻じ曲げられたのかも知れぬな。」」
何が可笑しいのか、ノルとニルはふっと笑って納得したような表情を見せた。
「・・・では人間よ。長々と居座ってすまなかった。これにて失礼するとしよう。」
「妖狐も、世話になった。」
来た道を帰るように、玄関の戸を静かに開けて、そっと家を出て行くノルとニル。
気づけばどっぷりと日は暮れていて、辺りは夜闇に包まれていた。
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