第32話 八代奈々という記憶

 風鈴から借りた書物を何度も何度も読み返して夜も更けた頃、瑠衣はやっとそれを閉じて床へと転がった。


「読めば読むほどの漫画だ・・・」


 設定もキャラも違うけれど、内容は前世の記憶の中にある、とある同人誌に酷似している。

 絵の動きも、台詞回しも、コマわりも・・・その全てにどこか見覚えがあった。

 その同人作家の名前はアリス。翔と瑠衣を題材とした同人誌を出していて、イベントで知り合い仲良くなった前世の友人だ。


 じっとしていられなくなり瑠衣は徐に部屋の戸を開けて外へと駆け出した。

 行く宛もなく、近くを流れる川のほとりで、欄干に手をかける。

 夜はとっくに更けていて、遠くの空は既に夜明けの準備を始めているようだった。


 少し湿り気を含んだ、ひんやりする風を頬に感じながら、瑠衣の脳裏に巡るのは遠い遠い前世の記憶。

 その記憶は、決して良い思いばかりではなく、必要ないと自ら葬り去っていたものだった。




 ***




 瑠衣の前世、八代奈々やしろななはシンデレラだった。

 といっても、王子様が現れるようなお姫様ではなく、血のつながらない親兄弟使用人としてこき使われる灰かぶり姫。


 普通より少し裕福な家庭。富豪層の中では庶民に近い家庭。

 つつましく生きているのなら、不自由なく暮らせたであろう家庭環境で、外聞を気にする家族達は、あの手この手で見栄を張り、富裕層を気取るのに必死だった。


 生み捨てられた病院で保護され、施設で育った奈々が八代家に貰われることになったとき、皆が祝福してくれていた。

 幸せになれるわよと、声をかけてくれていたのをよく覚えている。それ程両親は慈悲愛に溢れているよう、完璧に取り繕っていた。

 けれど、そんなことはまるでなかった。


 やたら広く数の多い部屋の掃除、見栄のために集められた調度品ガラクタの手入れ、無駄に肥えた舌に見合う料理の提供。姉たちが着る、お抱えのブランドが作っているという自慢の服も、仕立てていたのは奈々。

 そんな所にお金を掛ける余裕など彼らにはなかったのだ。

 

 そんな生活に、初めから順応していたわけではない。反抗もした。けれどそこで義母の正体を知る事となった。


「いいこと? あなたはね、いらない子なの。だから捨てられた。あなたの代わりなんいくらだって転がっている。あなたでなければならない事なんて何一つないのよ。」


 言いつけられた仕事の一切を放棄したその日、呼びつけられた奈々に義母はそういい放ち、ガラスの小瓶を投げつけた。


「そんなに嫌ならそれでも飲み干しなさい。すぐに楽になれる。このネズミのようにね。」


 ついで目の前に転がされたのは、数日前に下校中に公園に捨てられていたハムスター。

 せめて誰かに拾われるまで命を繋いで欲しいと、料理で使った野菜の葉切れをこっそり与えていた子。その伸びきった体には数時間前動き回っていた姿は見る影もなかった。


「廃棄物同士仲良くしていたの?」

「なん・・・で?」

「あら、あなたの教育の為よ? これで自分の立場が理解できたでしょ。良かったわね。あなたと関わったおかげで、このネズミも少しは役に立った。」


 ゆっくりと近寄ってきた義母は、転がった小瓶を踏み砕くと、あざ笑うように奈々の髪をつかみ、その身体を持ち上げた。


「こうなりたくなければ、賢く生きないとね。奈々ちゃん。何度だって言うわ。あなたの代わりなら吐いて捨てるほどいるのよ。」


 義母の高笑いが響く。


『悪魔だ・・・いったいこの子が何をしたんだろう。私が何をしたというのだ。何もしていない。理由などない。ただ、そこにあっただけ。そこにあったから消された・・・・・・そんな理由で・・・死にたくない・・・そんな理由で死にたくないよ・・・』

  

 身の程をしれと奈々を床に投げつけ、義母が部屋を出て行った後、消えていった命を、奈々は呆然と見つめるしかなかった。


 それから奈々は反抗する気も起きず、ただ淡々と業務をこなすようになった。


義父母両親にも義姉姉様にも、よくしていただいて。こんな事でしか恩を返せないことが心苦しいですが、出来ることをしたいんです。」

「本当にこの子ったら、気を使わないでと言っているのに・・・。施設で奈々を見たときに思ったのよ。この子は私の所に来るべきだって。血はつながっていなくとも、奈々は私の大切な娘よ。」


 ホームパーティで、奈々が給仕していることを指摘されると繰り広げられる、くだらない茶番劇。

 その言葉を聞いて感動する大人達に、馬鹿なんだなと心底呆れていた。

 低俗な人間の元には低俗な人間しか集まらない。

 この人達は一生そうやって生きていくのだと知り、同時に自分も、一生この地獄からは抜け出せないのだと知る。

 それでも生きる自分は浅ましいのだろうか。

 そんな事を思っては、転がったハムスターの死骸を思いだし、何度も吐いて、何度も泣いた。


 日々押し付けられる雑用に手一杯だというのに、八代家の恥になると学業を疎かにする事は許されず、家族が寝静まった後に勉学に励む。

 自由どころか寝る時間すらない生活だった。 


 けれど数年そんな状況が続けば流石に気づいてくれる人もいて、彼らが秘密で支援してくれたおかげで奈々にも少しの自由が得られた。

 そのおかげで出会えたのが【VTPゲーム】だったのである。

 そしてすぐにキャラの一人、翔を好きになる・・・。


 そこからの奈々は、少しでもゲームの世界に、翔に触れるために、全神経をそそいだ。

 やるべきことを精査して、秒単位で器用に雑用をこなす。

 全身全霊をかけてなんとか時間をつくりだし、結果同人イベントに参加することも 出来た。

 皮肉にも『賢く生きた』ことにより、地獄のような生活に色がついていったのだった。




 ***




 持っているのはVTPゲーム知識だけで十分だ。

 そのほかの記憶など、抹消してしまいたい。


『いらない・・・いらない・・・いらない!!』


 同人誌と友人の記憶と共に同時に思い出された、封印したい日々に吐き気を覚え、重い頭を抱えながら瑠衣はその場にしゃがみこむ。


「あ・・・れ・・・」


 突如に、手に微妙な違和感を感じた。

 乱れていた呼吸がさらに荒くなっていく。

 呼吸を整えようとすればするほど、身体が空気を取り込むことを拒み、すでにペチャンコに潰れた肺から空気が容赦なく漏れ出ていくような感覚。

 その苦しさに、無意識に喉元と胸をかきむしるように握りしめ、呻きながらその場に倒れこんだ。


『息を・・・しなきゃ・・・どう・・・したら・・・』


「吸うんじゃない。息を吐け。」


 消え入りそうな意識の底で、そんな声が聞こえた。

 次いで倒れていた身体が支えられ、呼吸しやすい体制に自然と誘導される。

 その力強さと優しさに引っ張られるように、薄れていた意識が戻ってきた。


『息を・・・吐く・・・? 』


「ゆっくりと息を吐き出すことに集中しろ。それだけでいい。大丈夫だから、ゆっくり・・・そうだ・・・。」


 声に導かれるように、息を吐き出す。

 さっきまで取り込めなかった空気が、自然に肺を満たしていった。


「大丈夫か? 瑠衣。」

「兄様・・・わた・・・し・・・」

「無理に話さなくていい。落ち着くまで大人しくしておけ。」


 脱力した身体を介抱してくれる温もりに、コクンと首を振り、そのまま身を委ねる。

 その身体に、翔がそっと羽織りを掛けてくれた。

 大好きな匂いに包まれて、安堵に瑠衣の口角があがったのを見てか、翔もホッと身体の力を抜抜いたのが分かる。

 緊迫していた空気が少しだけ和らいだ。


「ありがとうございました兄様。何故か急に呼吸の仕方が分からなくなってしまって・・・おかげで助かりました。今お帰りだったんですか?」

「あぁ。少ししくじって遅くはなったが、おかげで瑠衣の非常時に駆けつけられた。しかし、お前が過呼吸を起こす所は初めて見たな・・・苦しかっただろう。何かあったのか?」

「・・・何・・・でしょう? 私にもよく分かりません。」

「分からない・・・か。そういう事もあるな。瑠衣が無事ならそれでいい。」


 未だに混乱している頭で、取り繕っての説明など不可能だ。

 翔は、そんな意思を汲んでか、深く追求はしてこなかった。


「でも、兄様よく分かりましたね。発作じゃなくて過呼吸だって。言うとおりにしたらすぐ良くなりました。」

「あぁ、過呼吸は俺にも覚えがあってな。慣れている。」

「それは・・・知らなかったです。慣れるほどこんな苦しい思いを?」

「頻発していたのは餓鬼の頃の話、ここ数年は全く起きていないから心配しなくていい。ただ、その頃の史郎しろうは医者でも何でもなかったからな「死にたくなけりゃ自分で何とかしろ」と放置しやがった。だから何度か死ぬ思いもしたが、繰り返すうちにコツを掴んだ。あの時の史郎は許せんが、それが今、瑠衣の役にたったならよしとしよう。」


 そう言う翔の顔の横顔はアッサリしていたから、きっと本当に苦しみは過去の産物なのだろうけれど、独り呼吸を乱し苦しむ幼少期の翔を想像すると心が痛む。

 病弱な瑠衣の主治医であり翔の剣術の師である史郎と、翔の出会いはよく知らないが、初めは剣術の修行の為に共にいたらしいから、師として厳しく突き放した史郎には、きっと翔は負けじと小生意気だっただろう。

 きっと、まだ医師でなかったとしても、本当に危なければ史郎は助けたのだろうに、助けを求めずムキになった翔が容易に想像できてしまった。

 そんな想像上の小さな翔は、どうにも可愛らしくて、微笑ましい。


 史郎に対してムキになる幼げな翔も、瑠衣に対する甘く優しい翔も、瑠衣の前では見せない冷徹非道な仕事人の翔も、今記憶の中に残る全ての翔が、どれもこれも愛おしく感じられ、なんだか急に、遠い日に初めて画面を通して翔を見たときの胸の高鳴りが蘇った。


「私、兄様に出会えて本当に良かったです。」

「ん?」

「あ、出会えてっていうのは何か変ですよね。兄様が家族で良かった。あ、もちろん史郎さんも。私、2人の家族で幸せですよ。」

「何だ急に。」

「・・・さっき過呼吸になった理由、分からないっていったけど、多分夢見が悪かったせいなんです。ここではないどこか遠い世界の・・・嫌な夢を見たんですよ。」

「夢?」

「はい。・・・私は生まれてすぐに捨てられて、ある商家の奴隷になったんです。朝から晩まで休みなく働いて、罵詈雑言を浴びせられて、代わりはいくらでもいるから嫌なら死ねって何度も言われるんですけど、行き場のない私には、そこにしがみつくより他無い。そんな、悲痛な夢でした。どうして此処に居るんだろうって漠然と思いながらも、どこへも行けないまま、覚めても覚めても同じ地獄が当たり前のように続いて行くことが、恐ろしかった。」


 語りながら、少しだけ震えた肩を翔がそっと抱いてくれる。

 言葉は無くともそれが、もう大丈夫だと、あんな記憶に囚われる必要なんて無いんだと説いてくれている気がした。


「温度や匂いを感じるほどに、あまりにも現実味のある夢だったので取り乱してしまいました。お恥ずかしいです・・・でも、もう大丈夫ですよ! だって、兄様が居てくださるここが私の家ですから。・・・・・・・・・悪い夢です。」

「そうだな。瑠衣が居てくれなければ俺も困る。」


 翔の手が頭に乗る。

 いつもよりずっと優しく撫でられたそれが心地よかった。


「よし、立てるか?」


 しばらくの静寂の中、そう切り出した翔に引かれて立ち上がる。

 てっきり部屋へ戻るのかと思ったが、「少し歩こう」と手を引く翔は宿琉球とは反対方向へゆっくりと歩みを進めた。


 薄明に包まれた街をくぐり抜け、ついたのは丘の上にある公園。

 その高台から一面の海を見下ろすことができるという人気の観光スポットである公園は、普段の賑わいとは一変して、人っ子一人居ない。

ただ静かに、空と海が濃い青色に染まり、一つになりながら夜明けを待っていた。


「凄い・・・とっても幻想的です・・・」

「夜明け前の一時だけ見られる光景。静寂と共に世界がただ一色に染まるこの時が、俺は好きだ。過酷な戦場にいても救われる気持ちになる・・・。綺麗な瑠衣の色だな。」


 名前の語源となった瑠璃色に準えているだけのその言葉に特に意味などないのだろうけれど、好きな人にそんな風に言われるとついドキリとしてしまう。

 返答に困ってうろたえていると「ほら、夜明けだ」と翔の声。

 水平線の向こうから、ゆっくりゆっくりと日が昇って辺りを照らしていく。


「わぁっ。凄いです。私、こんな綺麗な朝焼け初めてです。」

「そうか。なら、この場所を見つけておけて良かった。・・・悪い夢は、少しは良い思い出に変えられそうか?」

「兄様・・・」


 そういえば、誰かが昔言っていた。幸せと辛さは表裏一体なのだと。

 良いことも悪いことも、どちらが無くても成り立たない尊いものなのだと。

 思い出せない誰かが、だから良いか悪いかは自分で決めたらいいのだと、そう言っていた。


 ――― 無駄なことなんて無いんだよ。辛いなら見方を変えたらいいんだ。その辛さは、今日の幸せの為にあるってね ―――


 誰かの声が、耳の奥で響く。


『うん。そうだよね。だから私はこの世界を知った。翔様に出会った。ここに来たいと願った。あれは悪い夢でも、怯えるような過去でもない。全部、兄様に出会うための布石だっただけ。だから何も問題ない。』


 そう思えば、もう何も怖くはなかった。


「大丈夫か?」

「はい。・・・私が薄明の色ならば、兄様はあのお日様ですね。混沌とした夜闇からどうにも抜け出せない私に、いつも手をさしのべて明るい場所へ連れて行ってくださいます。」

「そうであれればいいが、流石に夢の中までは助けに行けない。」

「そんな事ないです! 兄様、ちゃんと居たんですよ。 兄では無かったですけれど・・・私の心のより所で、希望の光で、とっても、とーっても大切な存在でした。兄様が居てくれたから、あんな地獄でも生きていられたんです!!」

「・・・そうか。ちゃんと、お前の側に居られたんだな。」


 それは良かったと、翔が再び瑠衣の頭をポンポンと撫でた。


「そろそろ帰るか。朝食をとったら、お前は休んだ方がいい。寝不足で目が腫れている。」

「え? あ、あんまり見ないでください。恥ずかしいです。」


 見おろされている顔を手で覆い隠し、あたふたとしている瑠衣にふっと息をつき、翔は向きを変え歩き出す。

 暫くその背中を見つめ、空いた距離に思わず走り出し、瑠衣はトンっと背中に突撃する。

 何事かと振り向き瑠衣を見下ろす翔を、翔の腕に顔を半分うずめて見上げる。


 今なら言っても許されるだろうか?

 兄妹としてならば、感謝と共にこの想いを・・・


「強くて優しくてお日様みたいに暖かい兄様、大好きです。」


 結論を待たず、言葉が出る。

 翔の目が大きく見開き揺らいで、けれどすぐに目を細めて頬を緩ませた。


「まったく、お前は本当に・・・」


 そのはにかみは、瑠衣が幼げな事をする時に見せる表情。

 いつも皆まで言わないが、続く言葉は「いつまでたっても子どもだな」なんだろうと思う。


『過保護な兄様の寵愛を一身に受けられるなら、子どものままでいいかも。今はこの状況に甘えてしまおう。』


 「行くぞ」と再び歩き出した翔が、振り払うことをしなかったので、ちゃっかり腕を組んだまま、2人は宿までの道のりをゆっくりと帰って行くのだった。


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