第70話 悪女は簡単には踊りません
「悪女として名高い君が、誰か一人のものになるなんておかしいだろう? それに、そんなのこの楽しい場にそぐわない」
「……」
エイヴリルは仕方なく差し出されたウォーレスの手を取り、一般的なマナー通り淑女の礼をする。すると、ウォーレスは目を丸くした。
「……嘘だろう。まるで、こういう場に慣れた良家の令嬢のようだ」
「えっ?」
「いや、いつもと随分違うものだから。もしかして、王都と田舎町で顔を使い分けているのか? さすが、私を夢中にさせる悪女のエイヴリルだ」
ウォーレスは片側の頬だけを上げてにやりと微笑むと、エイヴリルの手にキスをしようとした。ぞわり、と背筋になんとも言えない感覚が走る。
しかしその瞬間、エイヴリルの視界からウォーレスが消えた。
(……えっ!?)
気がつくと、クリスがわずかな隙をついてエイヴリルの手を掴んで逃し、入れ替わってくれていた。つまりウォーレスはクリスの手に口付けるような格好になっている。
仮面をした男が、仮面をした男の手に口付けている。非常に興味深い状況だし、好きな人もいるかもしれない。現に、会場の端からは妙な叫び声が聞こえた気もした。けれど当然、ウォーレスは怒りで声を張り上げる。
「な、何をするんだ!」
「いえ、虫がおりましたので。私が代わりにご挨拶のキスを承っただけのことです」
「虫だと!? どこだ!」
「ああ、自分自身のことはなかなかお気づきになれないようですね。まぁ、何事もそういうものですね」
仮面の上からでも顔を真っ赤にしているのがわかるウォーレスに、クリスが仮面の下のにこやかな笑顔を隠さず言い放つ。それもまたウォーレスの怒りを買ったらしい。
「!? お、お前、ただの付き添いだろう。私にそんなことを言っていいと思っているのか!」
「主君より、虫がいたら遠ざけるように仰せつかっておりますので」
「何だと!?」
(いけないわ……! 目立たずにやり過ごすはずが、このままでは騒ぎになってしまいます)
クリスには心の底から感謝したい。けれど、騒ぎを起こしてディランの邪魔になるわけにはいかないのだ。エイヴリルは怒りの矛先を自分に向けようと、この場に合った言葉を頭の中から探す。
(今日の日のために、仮面舞踏会の場にふさわしいフレーズを覚えてきたのです! どれがいいかしら。……ええと、そうだわ!)
「ウォーレス様。“いきなり私と踊ろうなんて、身の程を知りなさい。……そうね、まずはその男と踊るといいんじゃないかしら”?」
一瞬、周囲がシンとしたところに、クリスのぼやきが響いた。
「随分な参考図書をライヴラリーにお持ちで」
「え?」
「いえ何でも。……ということで、仕方がないので踊りましょうかウォーレス殿」
クリスは涼しい表情でウォーレスに向き直り、恭しく手を差し出した。
ところで、この二人の男はどちらも見目麗しく絵になる。エイヴリルもうっかり見惚れてしまいそうになったが、違う今はそうではない。慌てて気を持ち直したところで、ウォーレスが後退りをする。
「お、お前……男二人で踊るなんて、じょ、冗談だろう」
「いえ、私は本気です。お姫様のご命令ですので」
「なっ!?」
クリスの「大丈夫です。私は女性パートも問題なく踊れますから」という声が聞こえ、二人がなんとなくワルツのリズムに乗りかけたところで、ハッと我に返ったらしいウォーレスが手を振りほどいた。
「……ふざけるな! ……しかし、エイヴリルはしばらく会わない間にさらに理想通りの女性になったな。た……ただ、ダンスの誘いはまた後にさせてもらうよ。この面倒な男に邪魔をされないときに」
額に汗を浮かべたウォーレスはクリスをひと睨みしてふんと鼻を鳴らすと、人の波へ消えていってしまった。
(とりあえず、踊ることも騒ぎになることもなくやり過ごせました。よかったです)
ウォーレスの後ろ姿を見送ってほっと息を吐くと、クリスが心配そうに告げてくる。
「エイヴリル様。あの男には気をつけた方がいいですね」
「そうですね。コリンナが相当ひどい仕打ちをしたようですわ」
「ええ。悪女・エイヴリルとよりを戻したいと見せかけて、実は恨みをお持ちかと」
それはもう、本当にそうだと思う。
コリンナがどんな扱いをしたのかを想像し、ウォーレスにほんの少し同情したエイヴリルはため息を吐いた。
「コリンナがしたことを思えば、恨まれても仕方がない気がいたします。あの方は今も、私が王都でのマナーを知らないと踏んでダンスに誘ったようでしたね」
「そのようですね。今夜のパーティーは仮面舞踏会とはいえ、ただの遊びではなく少し格式高い場ですから、恥をかかせたかったのでしょう」
クリスからの言葉に、あらためて今夜はディランの邪魔にならないよう振る舞おうと決意を新たにする。
(ディラン様にご迷惑をかけることがないよう、しっかりしないといけません……!)
「ところで、クリスさんのウォーレス様へのダンスのお誘い、スマートで素晴らしかったです」
「いいえ、ただ虫がいただけですよ」
にっこりと微笑んでくれるクリスの表情には、心なしかディランへの気遣いが滲んでいるようにも思えた。それを見つめながら、あらためてエイヴリルは安堵する。
(……あの方と踊らずに済んでよかったです)
ファーストダンスはディランと踊りたい。その想いの理由は、ただ“約束したから”ではないような気がしていた。
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