第69話 この殿方のお名前は
人違いだと伝えるのは簡単だ。けれど、彼はコリンナが仮面を外した姿を見たことがない可能性もある。
信じてもらえずに騒がれるのが一番避けたい事態だった。ディランの邪魔だけはしたくない。
(コリンナがよくない別れ方をしたのでしたら、あまり刺激を与えてはいけません。『あなたはどなたですか』なんて問いはダメですね)
エイヴリルは改めて目の前の男を見上げた。ウエーブの金髪。くるくる頭寸前の天パ具合。そのままおっとりと首を傾げ、頭の片隅に置いてある貴族名鑑のページをペラペラとめくる。
(アッシュフィールド家での仮面舞踏会に招かれるようなお家の方で、この方に該当する方はいらっしゃったかしら。コリンナの性格ですもの。もし高位貴族の家督を継げる御令息だったら、ひどい捨て方はしないはずだわ。ということは……)
年齢や家系から読み取れる外見の特徴を中心に考えると、二人の青年に行き当たった。ひとりは商家でもある新興の男爵家の二男。もうひとりはそれなりに歴史のある子爵家の三男。
(男爵家の二男の方は王都の商会にお勤めで、とてもお忙しいというお噂を聞いたことがあります。今この仮面舞踏会に来ていることはおかしくないけれど、アリンガム伯爵領の近くまで遊びにいらしてコリンナと知り合う機会がない気がするわ。一方、子爵家の三男の方はあまりお話を聞いたことがありませんね。遊び人という話すらも)
ちなみに、貴族名鑑による知識は完璧なものではないとわかってはいる。実際に、エイヴリルはディランのことも知らなかったのだから。
(どちらかしら……)
最後は勘しかない。エイヴリルは心を決め、子爵家の三男の名前を呼んでみる。
「ウォーレス様。何か誤解があるようですわ」
「! はじめて名前を呼んでくれたね。エイヴリルが本名を名乗るなと言っていたから、私は名乗ったことがなかったのに……! やはり私を気にかけて調べてくれていたのか。君の気持ちはわかった。これまでのことは全て水に流すから結婚しよう。さっきの鼻につく男なんて捨ててやればいい」
「!?!?」
名前は正解だったが、この場の振る舞いとしては盛大に間違ったようである。
さてこれはどうしたものか。背後でクリスが笑いを堪えきれずに変な息を漏らしたのが聞こえ、エイヴリルは目を泳がせた。その間にもウォーレスは親しげに一歩近づいてくる。
「エイヴリルと王都の舞踏会で会うのは初めてじゃないか? 田舎町でのダンスとは少し違うんだ。教えてあげるよ」
「ウォーレス殿。我が主からもう少し離れていただけますか? 淑女に対する距離感を間違って覚えていらっしゃるようですね」
すかさずクリスが間に入って適切な距離をあけてくれたが、それでもまだ近いしウォーレスは引き下がる様子もなかった。クリスの振る舞いに憤慨して声を上げる。
「な、なんと失礼なことを! だが、今夜は仮面舞踏会だぞ。そんな上品なマナーは通用しないし、何よりも彼女はそういうタイプじゃない。……そうだろう、エイヴリル?」
(……コリンナはそうだったかもしれませんし、いま私がここに何のためにいるのかを思えば、そういうふうに振る舞うのが正解なのでしょう)
瞬きひとつほどの間。エイヴリルが応じる前に、ウォーレスは当然のように手を差し出してくる。
「さぁ、エイヴリル。いつものように踊ろう」
「……!」
会場にはゆったりとしたワルツの音楽が流れている。周囲では、身体を密着させた男女が楽しく語らいながら踊っているようだ。
ここ数週間、エイヴリルは熱心にダンスレッスンをしてきた。舞踏会で踊ることが多いワルツは完璧に踊れるようになったし、時間が余ったのでついでにタンゴやヴィエニーズワルツまで覚えた。
教えるのが楽しくなったらしい先生は自分の弟子になるようにと熱心に誘ってくれたが、ディランが「??? エイヴリルがそうしたいのならいいが……」と心底不思議そうに呟いたのを見て、本来の目的を思い出し我に返ったところだった。
(私は仮面舞踏会に参加してディラン様を違和感なくお手伝いするために、ダンスを習ったのです。ですが)
初めて先生についた日、張り切りすぎて足の指先にできたまめを潰してしまった後、自分を抱き上げて自室まで送ってくれたディランの、わずかに頬に朱を滲ませた姿が思い浮かぶ。
(ディラン様は「ファーストダンスは私と踊ってくれるか」と誘ってくださいました。私もすごく楽しみだったのですが……)
それが仮面舞踏会になるかは別として、この先ディランと一緒に舞踏会や夜会のような場に出ることはたくさんあるだろう。もしかして、パーティーを主催し、ディランと二人でファーストダンスを踊ることもあるのかもしれない。
(ですが、私はデビュタントをしておりません。ここで踊るのが、私の人生でのファーストダンスになるのですよね)
さっき、ディランは名残惜しそうに離れて行った。その理由は、エイヴリルが心配だということとは別のところにあったのではないだろうか。
例えば、エイヴリルとのファーストダンスの約束を果たしたかった、とか。
(いまさらそんなことに気がついてももう遅いのですが……。この方と踊らずに済む方法があったら良いのですけれど……無理ですよね)
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