第66話 調子に乗りすぎたようです

「おかえりなさいませ! ディラン様」


 目を輝かせて迎えれば、ディランはほかに目を向けることなく一直線にエイヴリルのところまで来ると、足元に跪いた。


(……!? ディラン様!?)


 驚いているエイヴリルだったが、ディランは気に留めることがない。それよりも、長時間踊り続けたであろう足のほうを気にしてくれているようだ。


「……。予定では五時間前には終わっているはずだろう? まさかまだレッスンをしているなんてな。足が痛くはないか?」

「まったく。この通り、問題ありませんわ」


 本当はちょっと痛かった。でも、痛いと言えばディランはエイヴリルの靴を脱がせて人を呼ぶだろう。『この場で手当てからの誰かに運ばれて退出』はさっきまで悪女のつもりだったエイヴリルとしては恥ずかしすぎる。


 ということでぴょんぴょんと軽く跳んで見せると、とても嫌な感覚があった。ひえっ、と思った側からダンスレッスン用の白いシューズの先に赤いものが滲んでいく。


 しまったまめがつぶれたらしい。そして残念なことに今度はけっこう痛かった。


(やってしまいました……! しかも、レッスンのせいではなく自業自得です。これで、先生にダンスを教えてもらえなくなっては困るわ! 私の不注意なのに)


 エイヴリルにとって十年以上ぶりのきちんとした先生である。こんなことで逃すわけにはいかないのだ。


 けれど、ディランは立ち上がると先生へ厳しい視線を向けた。


「……私の婚約者はダンス初心者だと伝えておいたはずだが、随分熱心に教えてくださったようだな」

「!!! いいえその、普通なら数十分で根を上げるはずでしたのに……婚約者様が想像以上に頑丈すぎ……ではなく……その、真面目で一生懸命で集中力も体力もあり」


 青くなったまましどろもどろで応じる先生に、エイヴリルも同情したい。それはもう本当にそうだったし、お願いだから逃げないでほしい。


(ですが、ディラン様はちょっと怒っていらっしゃる……)


 エイヴリルにとって、初めてのダンスレッスンだったのだ。加えて、人に何かを教わることなどめったになく、はしゃいでしまった。自分がはしゃぎすぎたせいでこの先生が怒られるのは申し訳なさすぎる。


 どうしましょうか、と考えるエイヴリルの隣でディランがため息をつく。


「私の婚約者は普通ではないんだ」

「ディラン様!? 私はこのとおり普通ですわ。それに、今日のレッスンのおかげで何時間でも踊り続けられますわ。これは全部先生のお力添えの成果です」

「……きみは仮面舞踏会に一体何をしにいくつもりなんだ?」


 たしかにその通りすぎた。ハッと顔をあげれば、ディランは呆れたように笑っていた。


(いけません。つい夢中になりすぎましたね……!)


 誰かに教えを乞えることと、先生からの期待がうれしくて、エイヴリルは本来の目的を忘れかけていたようである。しゅんとしてしまったエイヴリルに、先生がお手本のように美しい礼を見せてくれた。


「エイヴリル様。私は取り返しのつかない思い違いをしておりました。もしまたチャンスをいただけるのであれば、今度こそ淑女にふさわしいダンスをお教えしましょう」

「もちろんですわ。ぜひまた、午後いっぱいのお時間をくださいませ」

「!? それは……ちょっと」


 先生の顔が引き攣ったのがわかる。隣で、ディランが小さく噴き出した後、肩に手が回された。


「では、エイヴリルは私が部屋まで連れて行こう」

「!?!?」


 待って、と言おうと思ったがもう遅かった。ふわりと体が浮いたと思ったら、ディランはエイヴリルをいとも簡単に抱き上げてしまう。


 示し合わせたようにグレイスがスッと寄ってきて血の滲んだ靴を脱がせてくれ、ついさっきまで一番避けたかった状態が完成した。恥ずかしい。


「ご婦人、今日はこれで失礼する」

「……ランチェスター公爵閣下、エイヴリル様、ごきげんよう」

「あっ……せ、先生! 今日はありがとうございました! またぜひ私にダンスを教えてくださいま」


 エイヴリルがお礼を全部言い切る前に、扉は閉まったのだった。




 ダンスレッスンのために準備された部屋からエイヴリルの自室までは少し距離がある。


 ディランにお姫様抱っこで運んでもらう途中、クリスや使用人たちとすれ違ったが、あらあらまあまあという感じでニコリと微笑みかけられておしまいだった。


(少し恥ずかしいですが、はりきって調子に乗ってしまった私が悪いのです)


 今日何度目かの反省を繰り返していると、ディランが話しかけてくる。


「あの婦人にはああ言っておいたが……エイヴリルはそれなりに楽しんだようだな」

「はい。ディラン様、私、仮面舞踏会がとても楽しみになりました」


 ディランの立場からすれば、まもなくランチェスター公爵家の女主人になるエイヴリルを軽んじた先生に釘を刺す必要があったのだろう。


 けれど、エイヴリルは今日のレッスンがしっかり楽しかったのだ。そのことを、ディランがきちんとわかってくれていることがうれしかった。


(ディラン様は本当にお優しいですね。とてもあたたかい方です)


 あらためて、幸せを噛み締めていると。


「エイヴリル。誰かと踊る前に、私と踊ってくれるか?」


 ディランからの誘いに、エイヴリルは頷く。


「もちろんですわ。私、デビュタントをしませんでしたので舞踏会は初めてなんです。初めて踊るのがディラン様になるのですね。考えるだけでわくわくします」

「……何となく予想はついていたが、エイヴリルはデビュタントをしていないんだな?」


「はい。コリンナの支度は手伝いましたが、私には縁のないものでしたので」

「そうだったか。それなら、ファーストダンスはぜひ私と踊ってくれるか」

「はい! 楽しみです」


 微笑んで応じれば、端正な顔立ちのディランの頬にほんの少し朱が滲んだように見えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る