第65話 ダンスレッスンと悪女

「こう見えて、ダンスは体力勝負ですのよ。堕落した生活を送っていては必要な筋力は身につきませんの。普段から己を律し、常に姿勢良く、良家の令嬢らしく振る舞っている必要があります」

「はい、先生」


 しっかりと頷いて見せたエイヴリルだったが、先生は薄笑いを見せている。部屋の端で見守っているメイドのグレイスが顔を顰めて誰かを呼びに行こうとしたが、エイヴリルはあわててそれを止めた。


「グレイス、ここで見守っていてくださいますか? 先生がお帰りになったあと、グレイスには練習のお相手をしていただかなくてはいけませんから」

「しかし、エイヴリル様……」


 二人の会話に、エイヴリルが悪女なのだと勘違いしたままの先生はふんと鼻を鳴らす。


「あなたはそういう健気さを演じて数多の殿方を手玉にとってきたのね。ですが、私相手ではそうは行きませんことよ。覚悟なさい」

「もちろんですわ」


 もう悪女を演じる必要はないのだが、これまでの人生、あまり期待されることがなかったエイヴリルは期待されるとつい応えたくなってしまう。


 グレイスは何か言いたそうに不満げな表情を浮かべているが、エイヴリルはあえて気が付かないふりをした。


 ということで、まず始めにステップを教わった。物覚えがよく運動神経もよく体力まであるエイヴリルは、すぐに基本となるステップをマスターした。


「!? こんなに簡単に、、いえ何でもありません。……それならば、応用のステップを」


 先生は顔を引き攣らせ、レッスンの内容はさらに複雑なものになっていく。応用のステップを全部覚えると、それらを組み合わせて実践的なダンスに入った。


 どれぐらい踊ったのだろうか。


 いつの間にか、エイヴリルの手を取り一緒に踊っていたはずの先生は、部屋の隅に置かれた長椅子に座りぽかんとこちらを見ていた。ここまで来るとさすがのエイヴリルもちょっと息が上がっている。


(仮面舞踏会にいらっしゃる皆様はこんなふうに踊り続けられるのですね。すごいです。もしかして、仮面舞踏会とは社交の場ではなく運動会か何かなのでしょうか……!?)


 けれど、エイヴリルは足を止めることも、先生に厳しすぎると不満を持つこともない。なぜならば。


(……とっても、楽しいです……)


 エイヴリルが家庭教師についていたのはほんの幼い頃だけだ。エイヴリルの物覚えの良さが抜きん出ていることがわかると、それを見抜き褒めたベテランの家庭教師は解雇されてしまった。


 コリンナの家庭教師がこっそりいろいろなことを教えてくれたが、さすがにダンスは時間がかかりすぎるため無理だった。一人、書斎で勉強することがあたりまえだったエイヴリルにはこの状況が楽しくてたまらない。


(誰かに教えていただけるって、本当にありがたく素敵なことですね)


 部屋に流れる音楽の終わりとともに、余韻を残してステップを終えたエイヴリルは淑女の礼をする。


 部屋の端で見守っているグレイスはぱちぱちと拍手してくれているが、何やら度肝を抜かれたらしい先生は慌てて話しかけてくる。


「あなた……物覚えと運動神経のほかにリズム感が随分いいのね。姿勢を崩さずにワルツのリズムを完璧に刻んでいたわ!?」

「ありがとうございます。きちんとしたダンスは初めてですが、以前音楽の先生にワルツのリズムでしたら一拍目を意識するとよいと昔教わりました。こう、いち、にっさん、と」


 いち、にっさん、と繰り返しながら瞳を輝かせて答えれば、先生の顔からは薄笑いが消えていた。代わりに顔が引き攣って目が泳いでいる。


「…………つまり、きちんと音楽の素養がおあり?」

「幼い頃に一通りは」

「……なるほど。何が得意なのか教えてくださる?」


 先生の言葉に、エイヴリルはほんの少しだけ遠い目をする。


(何をしても褒められた覚えがないのだけれど……。ピアノはこれ以上練習するなと触らせてもらえなくなってしまったし、バイオリンはコリンナの代わりに弾くためのものだったし……そもそも、こちらの先生は私が悪女だと期待しているのよね)


 なるべく期待には応えたい。


 ちくちくとした視線でさえちょっとうれしい。めったに向けられてこなかったこの期待という感情は、エイヴリルにはくすぐったく眩しすぎるのだ。


 ということで考え抜いた末、エイヴリルはひとつの特技を口にした。


「ええと……採譜なら」

「採譜?」


 採譜とは、音楽を楽譜に書き起こすことだ。少し前、古城で行われたブランドナー侯爵夫人主催のサロンコンサート。そこでエイヴリルはサミュエルという男の子に会い、曲を楽譜に書き起こし演奏の手助けをした。


(その後、ディラン様の仕事もうまく行ったようでしたわ。悪女としてもよい特技ではないでしょうか!)


「はい。演奏を楽譜に起こすことでなら、誰かのお手伝いができますわ」

「……も、もしかして、先日のサロンコンサートにいらっしゃいました? 古城で行われた、あの」


 先生の言葉遣いが少しずつ丁寧になってきている。


「? はい。そういえば、そこでも採譜ではありませんが演奏のお手伝いを」

「……聞いたことがありましてよ。この前のサロンコンサートで音楽の神童サミュエル様に指導をされた令嬢がいらしたと。その方の名前は伏せられていますが、もしかして……あなた……!?」


 先生は目を見開き信じられないという表情で固まってしまった。


 エイヴリルはサミュエルに指導をした覚えなど全くないが、どうやらその令嬢とは自分のことらしい。


(しまったわ! ……って、別に悪女ではないと知られてもいいのだけれど!)


 そこへ、ここまでずっと静かに会話を見守っていたグレイスが、冷えた果実水を先生に差し出しながらつんと言い放つ。


「僭越ながら、エイヴリル様のご友人には、件のサロンコンサートを主催されたブランドナー侯爵夫人のほか、アレクサンドラ・リンドバーグ様もいらっしゃいます」

「!? あの才媛の!? 完璧な淑女で、同世代のご令嬢とは決してお友達にならないというあのアレクサンドラ嬢ですって!?」


(ええ、お友達ですね)


 期待に応えたいばかりに、この先生を騙したような形になってしまったのが悲しい。そう思って小さく微笑めば、先生は顔を真っ青にして言葉を失っていた。



 そんな中、ひんやりとした声が困惑で包まれていたレッスンルームに響く。


「――その辺でいいだろうか?」


 帰宅したらしいディランが入り口に寄りかかり、苦笑しながらこちらを見ていたのだった。

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