第60話 それは契約結婚でした

 花嫁が入れ替わるという前代未聞の騒動が起きたため、今日のところは結婚式は取りやめになってしまった。


 参列客に頭を下げて見送った後、ディランとエイヴリルは二人揃ってランチェスター公爵邸に戻ってきた。いつもならすぐに自室で休めるところなのだが、今日はディランに呼ばれる。


「エイヴリル、書斎に来てくれるか」

「はい。何かお手伝いでしょうか」

「……まぁ、そんなようなものだ」


(……? ディラン様が言葉を濁すなんて。どうしたのでしょうか)




 呼ばれるがまま訪れたディランの書斎。


 端にある応接テーブルには、温かい紅茶で満たされたティーカップが二つと真っ白い紙、万年筆が置かれていた。


「これは……?」


 とりあえずお茶を味わいつつ一体これから何をするのか、と首を傾げるエイヴリルに、ディランは爽やかに微笑む。


「実は……契約書をもう一度作り直そうと思う」

「……契約書を?」

「ああ。現実に即していない部分もあるだろう。それに、あの契約書にはエイヴリルの意見が反映されていない、私の要望を押し付けたものだ。……大丈夫だ、契約期間を変えることはない」


「なるほど」

「それに、私も二年間の間に君の気持ちが変わるように努力する」

「はい?」

「いや、何でもない」


 いつも通り、のんきなエイヴリルに付き合ってくれながら、ディランは紙にスラスラと契約内容を書いていく。滑らかに伸びるインクを眺めながら、エイヴリルはこれからのことを思った。


(契約期間、というと……あと二年ということになりますね……)


 エイヴリルがランチェスター公爵家にやってきてから、ちょうど一年。この幸せな日々にもすっかり慣れたけれど、二年後には終わりがやってくる。


 もちろん、初めは終わりが来る日のことをとても楽しみにしていた。悪女として三年間の契約を全うし、その先に待ち受ける自由な人生のことを。


 それなのに、今日は少しだけ心が沈んだ気がする。けれど、ディランは気づくことなく綺麗な字を並べていく。


「アリンガム伯爵家の使用人のことだが、予定通り明日からこの屋敷に入って貰うつもりだ。心配なら、この契約書に彼らの待遇についても記しておくが」

「ディラン・ランチェスター様に限ってそのようなお約束は必要ないかと」


 暗に『信頼している』と伝えると、ディランの頬が緩んだように見える。


 シリル・ブランドナーの手引きによって、アリンガム伯爵家からはほとんどの使用人が消えた。その行き先は、領地に残ることを望んだ人間を除いて王都だった。


 結婚式が終わり婚姻誓約書が国に提出されるまで休業手当を支払って待機させ、その後ランチェスター公爵家で雇い入れることになっている。


(よかった。これでアリンガム伯爵家が立ち行かなくなったら私が何とかするというキーラとの約束も守れるわ)


 ホッとしながらディランの手元を眺めていると、見覚えある文言が書かれていた。


「“婚姻誓約書を提出し形式上の夫婦となる”、これは問題ないな」

「は、はい。もちろんですわ」


(形式上の夫婦……。そういえば、私はディラン様に確認したいことがあったのでした)


 キャロルが言っていた“どこからどう見ても、ディラン様はエイヴリル様を愛しておいでです”は果たして本当なのか。


 エイヴリルの心はつゆ知らず、ディランは契約書を作成していく。


「“部屋は別に持ち、お互いの行動に干渉しない”」

「あ……っ、はい、それはもちろんですわ!」


「宮殿ではなくて母屋で申し訳ないが。こちらも快適だろう?」

「ふふふ。離れが宮殿なので、こちらはお城ですわ。とても過ごしやすいですし、使用人の方々も皆さんお優しくて大好きです」

「……それはよかった」


 さっき教会で皆に見せていた鋭い視線とはかけ離れた、柔らかなまなざし。安心して、釣られて微笑んでしまう。ディランからこの温かさが向けられることに慣れてしまっているが、これは特別なものなのだろうか。


(以前……ディラン様も仰っていましたが、私は鈍いのかもしれませんね)


 これまでのアリンガム伯爵家でのことを回想する。継母と妹にほぼ生家を乗っ取られる形になってしまったエイヴリルの人生はわりと散々だった。


 一度も怒りを覚えたことがないと言えば、嘘になる。 


 それでも、アリンガム伯爵家の使用人たちは皆エイヴリルに優しかった。だから自分の未来を悲観しすぎることはなかったし、なんならいつかどこかで幸せに暮らせるかもしれないと希望を持つことすらできた。


 けれど、それでもエイヴリルには無償の愛がわからない。


(ディラン様は本当にお優しいですが……)


 幸せを噛み締めると同時に、目の前の青年が持つであろう、キャロルの言葉の答えをきちんと知りたいという思いに駆られた。


「この契約書には君の意見も取り入れたい。何でも言え」

「……あの、でしたら」


 エイヴリルは、おずおずと契約書の最後の項目を指差した。


「この、二年後の期限が来たら慰謝料をいただいてここを去るという項目に関してなのですが」

「ああ。金額も明記した方がいいか」

「あの、そうではなくて」

「……もしかして、期限を短くしてほしいと?」

「いえ、そうでもなくて」


 まるで縋るように不安げな視線を送ってくるディランを前に、エイヴリルは息を吸う。


「……反対に、期限を延ばしてほしいということはできますか……?」


 その瞬間、ディランの湖を映したような双眸が見開かれた。

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