第61話 悪女の正体
「……もちろんだ。もし君が望むのなら、いつまででも」
「そうですか」
つい数秒前までの和やかな雰囲気は消えた。紙とインクの匂いが漂う書斎の空気は、俄に張りつめたものになる。
滞ることなく契約書を書き進めていたディランはペンを置き、息を吐いて髪をかき上げた。
「今、自分にとても都合のいい考えが頭を渦巻いているんだが」
「まぁ」
「頭を冷やすために確認する。期限を延ばしてほしい理由はあるか」
「ディラン様と一緒に過ごすこの暮らしがとても幸せだからです」
「ああ本当にいい理由だ!」
言葉とは裏腹に、ディランは頭を抱えてしまった。ソファに座って膝に両肘を突き、まるでお手本のように苦悶している。
銀色の髪の毛から覗く整った顔立ちには、わかりやすく朱が滲んでいるように見えた。エイヴリルはぴしりと背筋を伸ばして、もう一度告げる。
「大事なことなのでもう一度言います。私は、ディラン様と一緒にいるととても幸せです」
「ああ、ありがとう。しかし、」
「温かくて、普通の幸せってこういうことなのかなって思えるのです」
驚くほどにスラスラと言葉が出てきて、エイヴリルも自分でびっくりするほどだった。けれど、ディランはそれ以上の狼狽を見せている。
「ちょっと待ってくれ。どうしていきなりこんなことになったんだ? 君はつい数分前まで死ぬほど鈍かっただろう」
「死ぬほど」
キャロルが言っていたことはしっかり正解だったらしい。しかしそれにしても随分な評価である。
「ああ。それが、一体どうしてこうなった?」
「ディラン様のことが好きで、お側にいると楽しいということは前にもお伝えしましたが」
「それはクレープを食べて眺めながらの話だろう。エイヴリルは少し意味を履き違えている気がする。こういうことはもっとよく考えて……よしわかった、クリスを呼ぼう。客観的な意見が欲しい」
「いえあの待ってください!」
エイヴリルは、立ち上がったディランの腕を掴んだ。外見のスマートな印象とは違うごつごつとした腕がびくりと震えたのがわかる。
「……私にもまだよくわかりません。ですが、“君は鈍い”の意味はわかりました」
ディランが顔をあげ、サラサラとした前髪の隙間から真っ直ぐな瞳が覗く。そこには、初めてこの家に来た時に見た鋭さはかけらほどもない。
正直なところ、エイヴリル自身にだって本当にわからない。けれど、キャロルに“旦那様はエイヴリル様を愛しておいでです”と聞いてふわふわしたこと、そしてディランともっとずっと一緒にいたいことは本当である。
いつの間にか二人は向かい合って立っていた。ディランがエイヴリルに一歩近づいて、指先が頬に伸びる。今日は落ちた髪はない。ただ、頬に触れるためだけに。
「それをわかった上で、私の側にいたいと思ってくれていることは本当なんだな」
「はい。ですが、ディラン様はきっとこれから私に教えてくれる人なのだと思います。誰かを想い、大切にすることを」
きっぱりと告げると、ディランは一瞬だけ目を逸らしふっと笑った。
「君は本当に悪女のようだな」
「……ええと、“本当に”?」
静かな書斎で、いつもは聞こえない類の言葉がエイヴリルの耳に届いてしまった。
エイヴリルが一体どういう意味だ、と考えを巡らせる暇もなく、ディランが片膝をつき跪いた。
それはここが書斎だということを忘れてしまうほどに絵になる。まるでおとぎ話のワンシーンのようで、エイヴリルは息を呑んだ。
「エイヴリル・アリンガム。私の本当の妻になってほしい。念の為告げるが、これは契約結婚ではない。契約書はないし、数年後に別れるという約束もない。むしろ、君を離すつもりはない」
「……なんだか、求婚の言葉みたいですね……!」
「いや、そのつもりだが」
「そうでした……!」
「しかし、これは契約結婚なのですね、と流されなかったのは初めてだな」
笑いを堪えるディランの姿に、エイヴリルもついクスクスと笑った。
そしてもう一つ。エイヴリルを愛しているというのがディランの本心なら、これだけは確認しておかなくてはいけない。
「ディラン様。ディラン様と結婚するのは“悪女のエイヴリル”がいいのですよね……?」
恐る恐る問いかけると、ディランは立ち上がりエイヴリルを抱きしめる。
「どちらでも大歓迎だ」
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