第38話 慰謝料の減額だけは避けたいところです
翌日の朝。
「床……めちゃくちゃ綺麗じゃね?」
「ああ。離れで働く同僚には聞いていたが……。あの人、何者だ?」
ランチェスター公爵家の母屋、エントランス前は明らかにざわついていた。
使用人たちが束になって柱の影からこそこそと眺めているのは、この家の女主人と侍女だった。ちなみに、この二人が並んでいるところを見た者はここまでの数ヶ月間でほとんどいない。ほぼ初めての組み合わせである。
「エイヴリル様。そのモップ、返してください。いい加減にしてくれないと怒りますよ」
呆れたようなキャロルの声に、エイヴリルは眉間に皺を寄せる。
「だめですわ。ほら、端! 端に汚れが残っています! こんな磨き残しをするなんて!」
「よく見てください。ぴかぴかですよ」
「……ほ、本当ですねごめんなさい」
「こうしている間に、エイヴリル様が磨いてしまったのだからぴかぴかで当然に決まっているじゃないですか。それよりももうそろそろ飽きてきたでしょうから、いい加減にモップを返してください」
「嫌です」
「……」
今朝、エイヴリルが泊まった客間に起こしにきてくれたのは、グレイスではなくキャロルだった。明らかに嫌々来たことを匂わせているキャロルに聞くと、あなたの主人なのだから自分で起こしに行けと言われてしまったと教えてくれた。
そこでエイヴリルは自分とキャロルの関係を思い出した。
――エイヴリルはキャロルを嫌い、遠ざけている設定だったのだ、と。
(アリンガム伯爵家では、私と仲良しのメイドのキーラが床を磨いていると、必ずコリンナがやってきて邪魔をしたのよね。何がしたいのかいまいちわからなかったけれど……。とりあえず真似をしておくのが良さそうだわ)
安易な結論にたどり着いたエイヴリルは、キャロルを連れてエントランスにやってきた。そして今に至る。
「だって、キャロル。私は悪女なのです。あなたをいじめて遠ざけていると思われているのですから相応の振る舞いをさせてほしいわ」
「相応の振る舞いって何ですか。大体にして、なんでそんなに悪女のフリを頑張っているんですか。本当に無能なんですか」
「私にも大人の事情というものがあるのです」
「残念ですが、ちっとも悪女には見えませんよ。努力はちっとも実っていません」
「いいえ。ディラン様も『君は悪女だ』とはっきりおっしゃっていました。その中で、キャロルをいじめていることも褒められたのです」
「……」
キャロルは『付き合いきれない』という顔をしてため息をつき、エイヴリルからモップを奪い取った。
「……ランチェスター公爵閣下は本当に優しすぎますね。あなたは本当にいいお家に嫁いだんじゃないですか」
「ええ、私もそう思います」
「……いつまでもこんな毎日が続くとは思わないほうがいいですよ」
「……?」
刺々しい言葉を投げかけつつ、キャロルはどこか沈んだ表情だった。その様子がエイヴリルにはどうしても気になる。
(キャロルは元気がないですね……。やはり、アリンガム伯爵領で暮らすご家族のことが心配なのかもしれないわ)
「キャロル。最近、アリンガム伯爵家からのお手紙はないですか」
「昨日もそれを聞いてきましたね。なんでも覚えられるくせに忘れるのが早すぎるんじゃないですか」
「ふふふ。きちんと昨日のことも覚えていますわ」
「……だったらいい加減に、」
キャロルが声を荒げかけたところで、クリスが声をかけてきた。
「エイヴリル様。何をしておいでですか」
「クリスさん。ご覧の通り、エントランスのお掃除を。私の侍女は出来が悪いですので」
「随分とスケールが小さく品行方正な悪女で」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
こほん、と咳払いをしてからクリスは告げる。
「私についてきていただけますか。ディラン様がお呼びです」
「……はい?」
◇
エイヴリルが連れてこられたのは、空っぽの本棚で囲まれた書斎のような部屋だった。
「ディラン様、これは何でしょうか?」
「ここをエイヴリル用のライブラリーにしようと思っている」
「!?!?!?!?」
(な……何でしょうかそれは!?)
エイヴリルは驚きのあまり固まって口をはくはくとさせたが、ディランは気に留める様子もない。
「しばらくは外出を許可してやれない。昨夜のうちに至急この部屋に書架を運ばせた。まもなく商人が来るから、好きなだけ本を取り寄せるといい」
「あの、それはとてもありがたいことではありますが」
この場合、費用はどこから出るのだろうか。契約満了後に慰謝料が減らされることはないのか、今、エイヴリルはそれだけが気になっている。
「昨夜、書斎で目を輝かせていただろう」
「それは……匂いが好きだったといいますか、あのでもこれはさすがに分不相応ですわ」
昨日、書斎の空気を堪能していたところをしっかり見られていたようである。慌てて辞退しようとしたものの、ディランはエイヴリルの言葉尻を捉える。
「匂いが好きなのか?」
「ええと、紙とインクの匂いが」
「それなら、ここを本で埋め尽くせばしっかり暇つぶしになるな」
(そ……それはそうなのですが慰謝料が……!)
ディランが自分を楽しませようとしてくれているのはありがたいが、エイヴリルは契約に基づいてここにいるのだ。
アリンガム伯爵家では、家族に虐げられる一方で使用人に優しくしてもらってきた。だからエイヴリルは人の優しさは知っている。けれど、自分にここまでお金をかけようとするディランの真意が読めない。
反対に、エイヴリルの心の内を知らないディランは拗ねるような表情を見せる。
「君はドレスや宝石を贈ってもそれほど喜ばないだろう。むしろ義務のような顔をして受け取る」
「……」
しっかりバレていた。
(ですが……)
安全上の理由でしばらく外出ができないのは仕方がないことだ。けれど、そのためにエイヴリルが過ごすためのライブラリーを作るというのはどうなのか。お城に住み、宮殿を離れに持つ公爵家はさすがすぎる。
そんなことを考えながらエイヴリルが困り果てていると、会話を見守っていたクリスがため息をついた。
「お二人ともその辺でよろしいのではないでしょうか」
「クリスは黙っていてくれ」
「いいえ。エイヴリル様の意思はしっかりわかりました。ここには私が適当に本を入れるとして、――紙とインクの匂いがするお部屋なら、この屋敷には他にもあるはずです。どうでしょう、そこでエイヴリル様に少しお手伝いをしていただくのは」
「!」
(お手伝い……それなら、慰謝料の減額はないのではないでしょうか!)
クリスの言葉にエイヴリルが反応したことに、ディランも気づいた様子である。
「……それも悪くないな」
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