第37話 ディラン様が急に過保護です

(私が目の届かないところにいると心配、って……)


 エイヴリルはぽかんと口を開けてディランを見つめる。自分は手を繋いでいないとどこかへ行ってしまう幼児だったのか。いや違う。悪女である。


 はっと意識を取り戻して、恐る恐る告げた。


「ディラン様。ご心配いただけることはとてもありがたいのですが、私は大丈夫ですわ」

「もちろん、エイヴリルが“宮殿”をとてもよく気に入ってくれていることは知っている。だが、君の身の安全のためだ」


 真剣な瞳をして食い下がるディランに、エイヴリルは首を傾げる。


(ディラン様はとてもお優しい方。こんな風に私を心配して下さるのはわかるわ。大人しく好意に甘えた方が良さそうですね……)


 エイヴリルの役目は、ランチェスター公爵夫人としてふさわしい振る舞いをしつつ、周囲には型通りの悪女と思われてここを追い出されないようにすることである。


 宮殿を出てもすることに変わりはない。


「承知いたしました。では、明日から母屋で生活することにいたします。これから支度を」

「いや明日からではダメだ。今すぐ、今夜からこちらへ」

「こ、今夜から……?」


(それはあまりにも急すぎませんか……!)


 エイヴリルが目を瞬いていると、ディランは側近を呼びつける。


「クリス。エイヴリルの引っ越しは明日だが、今夜は客間に案内しろ。南側の、一番日当たりが良くて広い部屋を」

「その条件でしたら、ディラン様のお部屋の隣が空いていますね。すぐに案内しましょう」

「……ゴホゴホッ」


 ディランは何も答えずに咳き込んでいる。大丈夫だろうか。


「だ、大丈夫ですか、ディラン様」

「気にするな。エイヴリルが心配することではない」


 エイヴリルの方をちらりとも見ず、ディランはクリスを睨みつけた。


「……クリスは、私の隣の部屋ではないところにエイヴリル用の客間を準備するように伝えろ。これは当主命令だ」

「随分と重々しいご命令で」

「いいから早く行け」


 ディランとクリスの会話はまるで友人同士の気やすさである。さすが側近にも使用人にも愛されて尊敬を集めるディラン様、と感心しているうちに、書斎にはエイヴリルとディランの二人きりになってしまった。


 時計に目をやると、いつもならもうベッドに入る時間になっていた。


(どうりで眠いわけですね……)


 睡魔が下りてきて、エイヴリルは口元を両手で隠しつつあくびをした。すると、ディランと視線がぶつかる。


 オレンジ色の明かりが灯された夜の書斎。シャツの首周りを少し緩め、日中よりも着崩した格好のディランは本当に絵になる。


(ディラン様は、いつもこうして遅くまでお仕事を……)


 ふと、アリンガム伯爵家で父親の手伝いをしていたことが思い出される。今は何不自由ない暮らしをさせてもらっているけれど、こうして書斎の紙とインクの匂いに囲まれていると、懐かしくなってしまった。


「……こんな時間まで付き合わせて悪かった。部屋の支度が整うまで、もう少し待っていてくれるか」

「夜遊びには慣れていますので問題ありませんわ」

「お腹は空いていないか。夜食でも運ばせよう」


 悪女のはずなのに、すっかり幼児扱いである。


「いえ、もうあとは眠るだけですし、お夕食はたくさんいただきましたわ」

「……それはよかった」


 エイヴリルが今日もおいしかったです、と伝えると、どことなく強張っていたディランの表情が幾分やわらいだ気がした。


「ディラン様は、いつもこんなに遅くまでお仕事をなさっているのですか?」

「ああ。大体はそうだな」

「でしたら、今度は私がお夜食をお作りしますね。こう見えて、料理の腕には自信が」

「……ああ」


 ディランは、空色の瞳に驚きの色を浮かべてから少しだけ俯き軽く唇を噛んだ。


(そういえば……ディラン様は私の朝食のメニューをご覧になってびっくりされていたような……!)


 この意味深な表情は、料理の腕前を信頼できないという抗議なのかもしれない。エイヴリルは慌てて弁解する。


「あの! さすがに、固くなったパンや冷えてドロドロになったスープは出しませんわ。きちんと好みを把握したうえでお作りしますから、安心して召し上がってください」

「そんなことは心配していない。……きっと、君にできないことなんてないんだろうな」


 いえまさかそんなことは、と否定しようとしたけれど、ディランの手が自分の頬に伸びていることに気がついた。


 その指はエイヴリルの頬に落ちたピンクブロンドの髪を掬い、耳にかけてくれる。


(ディラン様……?)


 ここにはエイヴリルとディランの二人だけだ。お茶会やサロンコンサートに出かけた時のように、仲睦まじい婚約者を演じる必要はない。


 まるで本当の夫婦――恋人同士、のような距離感にエイヴリルが小首を傾げたとき。


 ガチャリと書斎の扉が開いて、メイドが現れた。


「エイヴリル様用のお部屋の支度が整いました」

「……ああ」


 ディランは軽く返答してから、エイヴリルに向き直る。距離は一秒前に比べて一歩分離れていた。


「今のは……済まなかった。部屋の用意ができたらしい。ゆっくり休んでくれ」

「? はい、ありがとうございます」


(私たちが契約結婚だということは使用人の皆様はご存じないですものね。母屋で過ごすのだから、それっぽく振る舞おう、ということなのでしょうか……。ええきっとそうに違いないですね!)


 何となく自分で納得すると、エイヴリルはメイドの案内で書斎を出る。





 ――エイヴリルは、とにかくどこまでも鈍かった。

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