第29話 お出かけに誘われたら、距離が近いです④
ホールに戻ったエイヴリルを待っていたのは、ディランが貴婦人方に囲まれている姿だった。
「ディラン・ランチェスター公爵閣下。この度は、ランチェスター公爵家当主への就任、おめでとうございます」
「お会いするのは本当にお久しぶりですわね。こういった場にはなかなかお出ましになりませんもの」
「ディラン・ランチェスター様。うちの娘を紹介しますわ」
(……ええと?)
騒々しい集団を前に、エイヴリルは自分の席に戻れなくなってしまった。
(ディラン様はどちらへ行かれても人気者ね。隣に陣取っていた悪女の私がいなくなったのだから、お話をしたいと思う方々が集まるのは当然だわ)
その、当の本人がうんざりした表情をしていることまではエイヴリルには見えない。
目立たずにこの場をやり過ごそうと空いた長椅子に腰を下ろすと、輪から外れた数人の声が聞こえてきた。
「ディラン様は公爵位を継がれる前も一部では知られていた存在よ。それなのに、どんな縁談もお断りしてきたというじゃない」
(やっぱりそうなのですね。傷物になっても強く生きていける令嬢をお探しだったのでしょう……!)
エイヴリルは心の中で相槌を打つ。
「そうそう。それがどうして、遊び相手の婚約者から借金返済を迫られるような中途半端な悪女と婚約を?」
(それは、ディラン様がお優しいからですわ)
「エイヴリル・アリンガムにディラン様は騙されているんだわ。下品な夜遊びをしている方はこの場にふさわしくないし、ブランドナー侯爵夫人だってお認めになるはずがないわ。芸術への素養がない方がこのサロンコンサートに出入りするなんて、許せない」
(……私の悪女としての振る舞いは問題がないようです)
達成感でいっぱいである。エイヴリルは胸を押さえて幸せを噛み締めた。ここまで『悪女のエイヴリル』が嫌われるのは、ディランへの好感度が高いからこそなのだろう。
ランチェスター公爵家の使用人たちが見せる、ディランへの尊敬の眼差し。それに近いものを感じ取って温かな気持ちになっていく。
(私は……とても良いおうちに嫁いだようです。……契約結婚だけれど)
そのうちに、客席部分の照明が落とされて第二幕の始まりが告げられた。
暗くなってもわかるディランのオーラある佇まいと、その近くから退こうとしない母娘が見える。
会話の片隅に聞こえた「娘を紹介します」の続きと思えた。そして、コリンナならあの場に行って「お退きなさい」と言うのだろう。
(でも今は、少しだけ悪女をお休みさせていただきます。だって――)
アンティークピアノの方に視線を移すと、さっき仲良くなった少年――サミュエル・ブランドナーが現れた。
(来たわ!)
かわいらしい少年の登場に、客席が俄に沸き立つ。その中、譜面台に置かれたのはさっきエイヴリルが書いたばかりの楽譜である。
哀愁を帯びたアンティークらしいピアノの音と、色彩豊かで煌めくバイオリンの音色。
サミュエルの演奏は、とても素晴らしかった。
「――サミュエルの演奏は素晴らしかったですね!」
「あの少年は、そういう名前なのか?」
「……!?」
独りごちたはずなのに、慣れた返事があってエイヴリルは驚いた。いつの間にか、ディランが隣に座っていた。
「どうして私の隣に戻らない」
「ええと。今は一人になりたかったと言いますか」
悪女業務をお休みしたかったと言いますか。――とまでは言わずに収めたところで、ディランが不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
ディランが座っていたはずの中央の特等席に視線をやると、そこには「娘を紹介します」の母娘がいた。なんだか申し訳なかった。
「今日はデートだと伝えたはずだが」
「デートもですが、こういうサロンコンサートは楽しくあるべきです。私だけではなく、皆にとって」
「誰かに何か言われたのか。……一人で行かせてすまなかった」
いつもの威厳ある姿が信じられないほどに、目の前のディランはしゅんとしている。
(ええっと……! そういうわけではないのですが……!)
第二幕が終わり、周囲では帰りの準備が進んでいた。それぞれが主催者や顔見知りの相手と挨拶を交わし、ホールから退出し始めている。
「ディラン様。私とのデートもですが、今日はほかに目的がおありだったのではないですか」
「……どうしてそう思う」
「最近は出入りしていなかった場に急にお顔を出されるなんて、何か事情があるのではと」
実は、エイヴリルはなんとなく違和感を持っていた。ディランが自分を『次期公爵夫人』として公の場で紹介してくれることはありがたい。
しかしそれにしても、このサロンコンサートは特に高位な貴族のお遊びの場である。
『評判最悪の悪女』を連れ出すにはハイリスク過ぎるのだ。――主に、ランチェスター公爵家の方に。
エイヴリルの問いに、ディランは敵わないという風に笑う。
「実は、少しな。ここを主催するブランドナー侯爵家との関わりを深めておきたくて」
「……なるほど。お仕事の事情だったのですね……!」
「だが、それだけじゃない。これは本当だ」
「ふふっ。けれど、私がこのお城を喜ぶと思ったのも本当のことなのだとわかりますわ。ディラン様のお顔は正直です」
ニッコリ微笑んでみせると、ディランは「また君は、本当に」と呟いて長椅子の背もたれに腕を回した。
その仕草には美貌の公爵様の素顔が透けて見えるようで、エイヴリルはさらに笑みを深める。
「エイヴリル・アリンガム様。ディラン・ランチェスター公爵閣下」
急に名前を呼ばれた。しかも、一体どういうことなのかエイヴリルの名の方が先である。
驚いて立ち上がると、そこには品の良い夫人がいた。銀色の髪を綺麗に巻いてまとめ髪にし、身体に沿うデザインのドレスを上品に着こなしている。
「今日のコンサートを主催したヒヴァリー・ブランドナーですわ」
「ブランドナー侯爵夫人。私の妻となる人の紹介がまだでしたね」
「ええ。さっき噂を伺って、慌てて飛んできたところですわ」
(噂って……先ほど皆様がお話しされていた通り『中途半端な悪女』という噂でいいですか……!)
ディランとの会話を聞いているだけで、エイヴリルにとっては嫌な予感しかしなかった。
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