第30話 お出かけに誘われたら、距離が近いです⑤
「改めて、こちらはエイヴリル・アリンガム。アリンガム伯爵家からうちに嫁ぐ予定の令嬢です。まだ婚約期間中ですが、時期を見て正式に式を」
「エイヴリル・アリンガムと申します」
とりあえず挨拶をするしかない。『悪女の』と添えるべきか迷いつつ型通りの礼を終えると、ディランに優しく肩を引き寄せられてエイヴリルは目を瞬いた。
(すごい夫婦っぽいですね……!)
ブランドナー侯爵夫人も同じことを思ったらしい。目を丸くして聞いてくる。
「まあ。随分と仲がよろしいことで。私も、つい先ほど息子からエイヴリル様のお噂を聞きまして」
「……息子? エイヴリル、どういうことだ?」
ディランから不思議そうな視線が投げかけられたので、エイヴリルはくるりと外方を向く。事態はわりと良くない。もう知らないふりをするしかなかった。
「何のことか。わかりかねますわ」
「……このように、我が妻となる人は自他ともに認める悪女でして。ご令息との間で何があったのか、お聞かせいただけますと助かります」
ブランドナー侯爵夫人に向けられたディランの声色に笑みが含まれているのは、エイヴリルの気のせいだろう。
「そちらのエイヴリル様は、楽譜を忘れた私の息子に楽譜を書いてくださったと。ぜひお礼をさせていただきたいですわ」
「そのようなことが。私の婚約者が御令息のお役に立てて何よりです」
(やっぱりそのこと……! しまったわ)
後悔しても遅かった。けれど、子どもをいじめる悪女がいていいというのか。いや否である。ということは、サミュエルを手伝わないという選択肢はなかったということになる。
つまり、ここは自力で乗り切るしかない。開き直ったエイヴリルはツンとして言い放つ。
「私は、何となく雰囲気で適当かついい加減に書いただけですわ。実際に素晴らしい演奏をしたのは御令息に違いありません。ただ、偶然後押しになっただけのこと。感謝される謂れはございません」
「まぁ。息子が言っていた通りね」
「サミュエル様、が?」
サミュエルは一体何を言ったのか。首を傾げたエイヴリルに、ブランドナー侯爵夫人は感激した様子で指を組んだ。
「エイヴリル・アリンガム様はお礼を申し出ても辞退される慎ましいお方だと」
「!?」
(えええ……!? どうしてこんな解釈に!? というか、悪女って三回も言ったのになぜ伝わっていないの……!)
絶望感に襲われているエイヴリルの手を、つんつんと引く者があった。
「何でしょうか……、あら」
「さっきはありがとうございました。おかげで、とてもいい演奏ができました」
そこにいたのは『悪女』を端折ったサミュエル本人だった。小さな紳士らしくお礼を告げてくる彼に、エイヴリルは目線を揃えてこそこそと問いかける。
「いいえ。サミュエル、今日は本当に素晴らしかったです! ……ですが、どうして私のことをお母様に『悪女』と説明してくださらなかったのですか」
「三回も悪女と言っていたので、大事なことなのだろうと思い、母には伝えました。しかし、恩人になんてことを言うのだ、と怒られました」
至極当然すぎた。
「ご、ごめんなさい!」
エイヴリルが頭を抱えると、頭上の方でディランが噴き出すのが聞こえた。
「申し訳ございません。私の婚約者はこのような人で」
「ふふふ。お噂ではランチェスター公爵家は今後どうなるのかと思っておりましたが、心配なさそうですわね。お父上の代から疎遠になっていましたが、エイヴリル様がいらっしゃるなら、またぜひ関係を深めていきたいものですわ。音楽を嗜まれる方のようですし」
「私としても、この先のことを少しずつ改めなくてはと考えているところです。ブランドナー侯爵家には優秀な人間が多い。実は、手を焼いている件にお力添えいただけないかと思っているところでして」
柔らかだったディランの声色が引き締まったものに変わっていくのを感じて、エイヴリルは顔を上げた。
(あ、これはお仕事のお話をされるのですね……!)
ピンときたエイヴリルは、サミュエルとともにその場を離れることにする。
「サミュエル、もう少しバイオリンを聞かせてくださいますか。私がピアノを弾きますので」
「はい。では、僕がピアノまでご案内しましょう」
エイヴリルは、差し出された小さな紳士の手を握る。
(悪女のふりは失敗したようですが……ブランドナー侯爵夫人以外の皆様はきちんと私を噂通りだとお思いのようですので、まぁよしとしましょう……!)
何よりも、自分はディランの役に立てたらしい。
悪女でいることももちろん重要だが、エイヴリルだって自分を大事にしてくれるランチェスター公爵家には貢献したかった。
――もちろん、契約結婚ではあるけれど。
◇
エイヴリルとサミュエルの背中を見送りながら、ブランドナー侯爵夫人は不思議そうにしている。
「それにしても……アリンガム伯爵家でバイオリンを嗜まれるのは違うお名前の方ではなかったのかしら? 私、十年ほど前にサロンコンサートでアリンガム伯爵家のご令嬢の演奏を聞いたことがありましてよ。それがあまりにも堂々としてらして、些細なことには動じない様子でしたので記憶に残っていますの」
それを聞いたディランは、ふっと微笑んだ。
「……それはきっと記憶違いかもしれませんね。アリンガム伯爵家で音楽の素養があるのは、我が妻となるエイヴリル一人でしょうから」
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