第28話 お出かけに誘われたら、距離が近いです③
「こ、こんばんは」
「……」
挨拶をしてみると、男の子は剣呑な視線を送ってきた。きらめくようなブロンドにアメジストの瞳。
(間違いなく、将来はイケメン確定ですね……)
違った。男の子の美しさに見惚れていたことに気がついたエイヴリルは、軽く頭を振る。
「通りかかったら素敵な音色が聞こえてきて、つい……。もしかして、サロンコンサートに出演されるのでしょうか」
「はい。でも、出られなくなりました」
「出られなく……? こんなにお上手で、今も練習をしているのに……?」
首を傾げたエイヴリルに、男の子はツンと澄まして言う。
「楽譜を忘れました。僕は緊張するとすぐ暗譜が飛んでしまうので。だから、出られません」
「…………。」
あまりにもわかりやすくそして非情な理由である。
子どもらしくない言葉遣いとそこに滲む強がりのギャップに、エイヴリルは笑みが溢れそうになるのを抑えた。違うそうじゃなかった。この子は困っている。
さっきから同じ場所ばかり間違えて弾いているのも楽譜がないためなのだろう。緊張しているせいで、間違って弾いていることにも気がついていないのだと思えた。
(ということは、楽譜があれば出られるのね……)
エイヴリルが少し考え込んでいると、男の子は独り言のように告げてきた。
「たくさん練習して、楽譜はお守りがわりのはずなんです。でも……緊張すると頭が真っ白になる。今日だって『家のコネでなんとか出演をねじ込んでもらった』って言っていたのに……楽譜を忘れてそれすらも叶わないなんて、僕は馬鹿です。今頃、お母様は落ち込んでいることでしょう」
「……」
随分と大人っぽい話し方をする子どもだが、お母様、という響きには年相応の幼さが見えた。
(なるほど。それならば)
エイヴリルは、少し屈んで男の子と目線をあわせた。
「わかりました。まっさらな五線譜はありますか」
「ありますけど……」
不思議なものを見るような雰囲気の男の子に向かって、エイヴリルはふふっと微笑んだ。
「私も、子どもの頃にこの曲を弾いたことがあります。ですから、この楽譜を覚えていて、書いて差し上げられます」
「雰囲気じゃだめなんです。僕、本当に頭が真っ白になるから」
「大丈夫。ちゃんと書きます」
がっかりして首を振る男の子に、エイヴリルは重ねて告げる。
「ですが、『悪女のエイヴリル』が書いたことは絶対に覚えていてくださいね……!」
「あく……?」
男の子は目を瞬きぽかんとしている。子どもには少し刺激が強すぎる言葉だったかもしれない。
いけない、と間の抜けた笑みを浮かべたエイヴリルはペンを取り、さらさらと楽譜を書きはじめたのだった。
十数分後。
「書けました。確認していただけますか?」
「……すごい。記号まで欠けることなくきちんと書いてある……! それに、あなたはとても字が綺麗ですね」
「ありがとうございます。お父様が溜めに溜めたお手紙の山に返事を書くのは、私の仕事でしたから」
「……。何だか、大人って大変そうですね」
「まぁ、ふふふ」
いけない。子ども相手では、つい気が緩んで自分が悪女だと忘れがちになってしまう。慌てて取り繕ったところで、男の子もエイヴリルの懸念と同じ疑問を持ったようだった。
「あなたは少し変ですね」
「へ、変」
エイヴリルの脳裏を『一度で何でも覚えられるなんて、どう考えてもおかしい』と詰るコリンナの顔がよぎる。
(もしかして、私はこの子を……怯えさせてしまったでしょうか)
「差し支えなければ、どの辺がおかしいのか教えていただけますでしょうか」
「あまり失礼なことは言いたくないので濁しますが、例えるなら……煮過ぎて高級な食材の味が台無しになったスープみたいです」
「なんか、おいしそうですね」
「そういうところです」
少なくともエイヴリルにとっては大好物である。怖がられているわけではなくてよかった、と安堵していると、彼はさっきまで警戒心全開だったのが信じられないほどの笑顔を見せてくれた。
「僕の家は音楽一家なんです。今日のコンサートも、そのコネがあるから出られるのです。母に、あなたにお礼をお渡ししたいと伝えて参ります。少しお待ちいただけますか」
(まぁ)
随分としっかりした子どもである。けれど、エイヴリルは別にお金のためにしたわけではない。
「お礼なんて、結構です。私は、“悪女”のエイヴリル・アリンガムと申します。あなたのお名前を教えていただいてもよろしいでしょうか」
「僕はサミュエル・ブランドナーと言います」
「サミュエル……ブランドナー、」
その家名は、さっきディランと話した「このサロンコンサートを主催する歴史ある名門」だった。まずいことをしたかもしれない、と息を呑むエイヴリルに男の子は恭しく告げてくる。
「エイヴリル嬢、心の底から感謝します。僕の母は厳しい人ですが、あなたのような方のことはとても好きだと思います」
「そのように丁寧なお礼の言葉は私にはもったいないですわ。悪女の、エイヴリル・アリンガムです」
「はい。エイヴリル嬢」
(なんてかわいいの……)
小さな紳士・サミュエルはとてもかわいくて麗しい。
このサロンコンサートを取り仕切る重鎮に自分の名が伝わるかもしれないことは些か不安だったが、エイヴリルは悪女だと三回も言った。
これで、間違って伝わることなどないだろう。――そのはずだった。
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