第2話 決断

 魔物が外壁を破壊しながら都市になだれ込む。


 その数は百や二百ではない。千に届きうるのではないかという夥しい数だ。少年の目には魔物の姿は正確には映らず、ただただ真っ黒の濁流が迫ってきているように見えた。


「なんなんだ・・・・・・なんなんだよあれはッ?!」

「くっ、くそが! あれに呑まれたら終わるぞ!」

「はやく都市から脱出するんだッ!」

「・・・・・・地獄だ」


 一目散に逃げる者、焦点の合わない目で天を仰ぐ者、発狂したように剣を振り回す者。

 そこに少年の見てきた日常は無かった。目に映る人々全てが動揺し、足をすくめ声を荒げている。

 そんな中、唯一人いつも死の淵を漂ってきた少年だけが、思考を止める事無く動かし続け、本能に従い即座に次の行動へと移っていた。


「・・・・・・はっ・・・・・・はっ」


 がたがたの路地を走り抜け、誰も近づかないゴミの溜まり場に身を投げる。


 スラムにて、薬の服用でおかしくなった大人が襲ってきた時、市場での盗みを失敗して店員に追い掛け回された時、命の危機が迫る場面で等しく少年は、誰も寄り付きたくないであろうこの場に逃げてきた。


 そして今回も同様の、いやいつもとは比べ物にならない程の危機を本能で感じ取り、少年はこのゴミ溜めの中へと飛び込んだ。


 結果的に、命を延命させるという点において、少年の取った行動は正解であった。


『グルァアアア!!』


 先程まで外壁にいたはずの四足歩行型の魔物が気付けば少年のいる付近まで近づき、次々に人々へと喰らいつく。鋭く強大な顎は、容易に人の体を穿ち、引き裂かれるような音に身がすくんだ。


 絶叫、悲鳴、怒号、咆哮、数多の負の声で混沌の狂想曲が生まれる。

 しかし、それも長くは続かなかった。


 ぐしゃりと鈍い音を立てて、ごみ溜めの傍に、首の無くなった人間の死体が地に沈む。

 少年は必死に息を殺し、ゴミの間から外の光景を見る。


 隙間から見えるのは、一面に広がった血の海と、悲壮な顔で死んでいる人の死体。

 既に周囲に人の声は聞こえない。耳の鼓膜を揺らすのは魔物の唸り声と、人間を喰らう咀嚼音、そして自分の心臓の鼓動だけだった。


「・・・・・・っ・・・・・・うっ・・・・・・」


 あまりにも悲惨な光景に胃の中がひっくり返りそうになったが、何も食べていない事が幸いし、少年はなんとか吐き気を押し留める。


 そして、混乱しながらも今自分が置かれている状況を判断する。

 一時的にこの場に逃れられてはいるが、少年の状況は全く好転してはいない。ただ少しばかり延命しただけに過ぎないのだ。

 それどころか、精神的なストレスを考慮すれば、最初の時よりも状況は最悪であり、いっその事死んでおけば良かったかもしれないと少しばかりの後悔をする。


 しかし、眼前で悲壮な顔で息絶えている死体を見れば、今更魔物たちの前に姿を現そうとは微塵も思えなかった。どれだけの苦痛と絶望が伴えば、そんな表情になるのか、考えるだけで心臓が破けそうになる。


 震える左手を右手で抑え、深く目を瞑る。


(どうすればいい、一体どうすれば・・・・・・!)


 逃げる。

 出来るならば既に行動に移していると否定する。どこもかしこも魔物がいる状況で門まで行くことなど不可能だ。


 ならば隠れ続ける。

 一生隠れ続けられるとはどうしても思えないが、この選択以外を今の少年は考える事は出来そうもなかった。


(今は、落ち着くまでは・・・・・・この場で留まろう)


 少年は震える体を必死に抑え、恐怖に順応しようと目を深く瞑った。




 ◇




 日が落ち、辺りがすっかり暗くなった頃。

 既に魔物が進行してきてから数時間が経過している。ごみの異臭のおかげか、その間少年が見つかる事は無かった。


 多種多様な魔物が都市の中を跋扈する中、相変わらず都市中央に鎮座している巨龍だけは微塵も動かない。目を瞑り佇んでおり、傍から見れば瞑想しているようだ。


 魔物の巣窟と成り果てた都市の中、ゴミに身を隠す少年の体からはいつしか震えが無くなっていた。


 順応したのだ。この圧倒的な絶望が占める場所で、たった数時間で、少年は死の恐怖にある程度慣れた。この異常とも言える順応速度は少年の持つスキル【進化】の恩恵だと言うのが幾ばくか、そして皮肉なことに日頃から希望の無い生活を送っていた事もこの場では有利となった結果だ。


 それでも完全に恐怖心を消す事は出来なかったが、気持ちに余裕が生まれれば、色々と見えるものも変わってくる。


(隠れていてもいずれ見つかるだろう。この魔物の数を前に逃げれるだけの力もない。・・・・・・ならば、生き残る術を身につけるしかない)


 数時間の思考の中、少年が行きついた回答がこれである。


 つまり、魔物との戦闘でレベルを上げるという事だ。レベルを上げる事が出来れば、新たにスキルを獲得する事も出来る。そうする事で容易に都市を脱出できるかもしれないと考えたのだ。


 ただしこの選択は、まず魔物を倒せるだけの実力を持っている事。

 そしてある程度力を付けるまでは複数の魔物に見つかる訳にはいかないという制限付きだ。


 魔物に見つからず、一対一での戦闘を繰り返す。本来であれば不可能に近い芸当だ。魔物の嗅覚と聴覚から察知されないよう、音を立てず一撃で魔物を仕留めなければならないなど、一流の武術家であろうとも難しい。


 しかし例外として、少年には一撃で屠る力はなくとも、戦闘音で敵に見つからずに一対一を可能とさせるスキルがあった。


 【生道世界】――他者と自身を強制的に別世界へと誘うスキル。

 使用者である少年自身が他者を指定する事が出来るのだ。


 このスキルさえあれば、どれだけ大きな音を立てようが他の魔物に気付かれる恐れはなくなる。そして一体一の戦闘であるならば、比較的弱い魔物相手であれば、己の力でもぎりぎり勝てる可能性もあると少年は判断した。


(武器を手に入れないと)


 当然、丸腰で勝負をするつもりはない。武器の差というのは馬鹿にならない事を少年は知っている。性能次第では格上相手でも完封できるというのも、経験で理解していた。


 決意を固めた少年は手早く行動に移す。


 記憶を頼りに、武器屋があった場所にまずは足を向けた。

 原型を留めてる建物は少数であったが、地面に落ちている物や、見かけた事のある人物の死体を頼りに目的地に近づいていく。


 魔物に見つからないように最大限の注意を払い続けながら、なんとか到着する。

 幸い、武器屋周辺の建物は比較的原型を留めていた。都市の外周部に位置していたため、爆風の影響が少なかったのだろう。

 周囲の確認をしながら、崩れ落ちて開け放たれた壁から内部に入る。


 室内にモンスターの存在がない事を確認すると、床に散らばっている武器に目を移す。

 大剣、片手剣、杖といろいろあるが、少年がまともに振るえそうな武器は中々見つからない。そんな中で、箱の中に入れられている小さな武器を見つける。


(これに、しようか)


 手に取ったのは小さなナイフだ。

 理由としては兎に角軽いから。少年の細身の体ではそのナイフを振るうのがやっとであり、戦闘であれば武器に振り回されるようなものは論外であるからだ。


 ナイフを計四本、同じく箱の中にあったカバーを付けて懐へと忍び込ませる。

 最低限の武器は見つかったが、流石にこれだけでは物足りないと思い、他には何かないかと店の奥へと足を進める。


「ッ・・・・・・」


 思わず漏れそうになった声を押し留める。


 壊れたドアをくぐり目に映るのは壁一面の赤、赤、赤。

 町中が死の匂いで溢れている為少年が気付くのに遅れたが、そこには数名の死体が乱雑に転がり、部屋中に血飛沫が乱れていた。


 幾ばくか目を瞑り鼓動を整えると、出来るだけ死体を視界に入れないよう気を付けながら有用な物を探す。


(これはポーションという奴だろうか?)


 部屋の隅にある棚の中、透明の容器に入っている液体を見る。

 初めて見るもので、それがどのようなものなのかは分からない。ただ、ここは武器屋だ。冒険者がよく口にしていた、回復薬――ポーションと呼ばれる物ではないかと少年は推察する。実際に試したことはないが、曰く、上級のものであれば分断された腕を修復したと冒険者が語っていたのを思い出す。


 これから魔物と戦うならばポーションの回復効果は必要だ。

 近くに落ちていたポーチに棚に置かれている瓶を一杯になるまで詰め込むと、一度気を和らげるように壁に背中を預ける。


 移動だけでも精神にかかる負担は凄まじい。

 玉のように噴き出る汗を手で拭い、モンスターの足音がしないかと耳を澄ませる。


(近くには、いないか・・・・・・)


 それらしい足音はしないが、どうにも音に集中できない。

 心臓の鼓動で場所がばれるのではないかと思うと、無意識に呼吸が浅くなる。


 少年は最後にもう一度、自分に自問する。

 本当にこ選択でいいのかと。いっそ、今手に持っているナイフでひと思いに自殺した方がいいのではないかと。この都市から脱出が出来るのはいつになるのか分からない。その間、ずっと恐怖に震えるのは、生きている事よりずっと、辛い事かもしれない。


(・・・・・・はぁ、どっちも・・・・・・嫌だな)


 少年は嘲るように、僅かに口角を上げた。

 それでも、どちらかを選ばなければ、辿り着く先は否応なしに地獄だ。

 瞼に焼き付いた恐怖の顔を、耳に張り付く悲鳴を、そして、モンスターに捕食される未来を想像し、何度も反芻する。


 どれだけ時間がたったのか。

 少年はナイフの柄を強く握り、瞳に淡いながらも灯を照らす。


 答えはでた。

 この選択が正しいかは、死ぬときに決めればいいと、少年は生まれて初めて大きな決断をする。


(無駄かもしれない。それでも、彼等の後を追うよりかは、最後まで足掻きたい)


 生きる目的はない。

 己の芯と呼べるものも、守りたいと思える唯一のものさえない。


 それでも、確固たるものがなくとも、やはり死にたくはないのだと。

 少年はなけなしの感情を大きく揺らした。


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