『ワーニャ伯父さん』(チェーホフ)の場合

大統領が執務室で一人、

機密書類に目を通していた時。


ノックもなしに扉が開き、

どこかだらしなく白いスーツを着こなした

中年男が、皮肉な笑みを浮かべつつ、

執務室に入ってきた。


「そう。ふむ、、、そう」

ぶつぶつとひとりごちながら、

男は大統領と向き合って座り、

伊達なネクタイを直す。


「・・・ええと、お前は誰だ?

どこからクレ○リンに入ってきた?」

大統領が冷たい視線を向けつつそう言うと、

男は大きなあくびを漏らした。


「その目つき。いや、

なんともいえない目つき」


「だから、お前は誰だ?」


「それにしても、いい部屋ですねえ。

こんな部屋で首をくくったら、

さぞ、いいだろうなあ!」


「え?」

大統領は、男のあまりの堂々たる振舞いと、

奇矯な発言の連続に、

すっかり面食らってしまった。


「それにしても、あなた、

大統領閣下ときたら、

こんな天気の良い日にもお仕事ですかい?

やれやれ、朝から晩まで、部屋にこもって、

何やら書いてござる、と。

眉に皺よせ、知恵を絞って、

朝から晩まで歌を書く、歌を書く。

されど、この身も、わが歌も、

褒められたこと絶えてなしってね。

がりがり書かれる紙こそ迷惑だよ。

いっそのこと、そろそろ大統領閣下、

自叙伝でも書いたほうが、

よっぽどましなんじゃないかねえ?」


「な、なんだと!」

憤激のあまり、大統領の顔は真っ赤になった。

「失礼だぞ!貴様、何者なんだ?

名を名乗れ!」


「おいおい、俺を誰だと思ってるんだい?

ワーニャ伯父さんだぞ?」


「知らん!」


「あんたがそうやってカリカリ仕事を

しているあいだに、こちとら

大変な迷惑を被ってるんだ。

そのことで、ちょいとあんたと

話がしたくてね」


「オレはお前など知らん!」


「ところが、こちらはあんたに、

たいへんな貸しがあるんだなあ」


そう言って、ワーニャ伯父さんは、

懐から一枚の帳簿を取り出した。


「俺はね、もう25年以上、

田舎で別荘の経営をしていたんだ」


「それがどうした?」


「ま、この帳簿を見てくれ」


「・・・ひどい経営状態だな」


「そんな人ごとみたいに言わないでくれ。

毎年の経営指標をちゃんと見てくれよ。

以前は、なかなか、順調だったんだ。

ところが、クリミア併合の年からだ。

え?クリミア併合の年からだよ」


「・・・」


「それでも、まあ見てくれよ。

俺とソーニャは一生懸命、

事業を持ち直した。

そして、何かあった時にも

安心なようにと、

ルーブルでしっかりと貯金をしてきた。

わかるかね?

ルーブルだよ!

今年のルーブル!

この経営悪化を見てくれ!

もうおしまいだよ、何もかも」


「それで・・・」

多少、申し訳なさそうに眉をひそめつつ、

大統領は男に訊いた。

「その責任をオレに取れ、

とでも、言いにきたのか?」


「そんな話じゃない!

忍耐だよ、大統領!

我々はよく知っているんだ。

こう言う時こそ、忍耐だって。

ロシア国民はよくできているよ。

どんな辛い時期だって、

歯を食いしばって、なんとか耐えてしまう。

それは我々の美徳と思わないかい?

でもね、その忍耐が、

はち切れそうになっている。

これ以上の経済の悪化には

さすがに忍耐が保たないよ」


「それで?」


「単刀直入に。俺たちを

経済面で救ってくれないだろうか?

その、、、戦争の矛を、

収めてくれないだろうか?」


「いや、それはできん!」


「どうして!」


「これはやむを得ない軍事作戦なのだ。

悪いのは欧米のほうなのだからな」


「・・・ちくしょう、そうかい」

やおら、ワーニャ伯父さんは、

スーツの下からピストルを取り出した。


さすがに大統領は青くなり、

椅子から立ち上がる。

「おい、お前、やめろ!落ち着け!」


「落ち着いていられるかい!

この25年のあいだ、俺は汗水たらして

せっせと働いてきた!

こんな真正直な番頭が

他のどの国にいるものか!

だのに、あんたは、オレの一生を

台無しにしちまったんだ!

つまり、あんたは、

俺の不倶戴天の敵だ!」


ワーニャ伯父さんは興奮のあまり、

大統領に向けてピストルの引き金を引いた。


轟音が鳴り響き、

大統領の背後の窓枠が

ビシッと音を立てて粉々になる。

かろうじて、外れたのだ。


「うわ!何をする」

あわてて大統領は部屋の中を逃げ惑う。

ワーニャ伯父さんはそれを狙って、

二発目、三発目を発射する。

「くそ、逃げる気か!

そこにいるな!

これを食らえ!

、、、くそ、またしくじったか!」


「やめろ!だ、誰か!誰かー!」


執務室のドアが開き、

警護員たちが駆けつけてきた。

「な、何事ですか?大統領閣下!」


「そこにいる狂人を逮捕しろー!」

その大統領の絶叫と、

警護員たちのものものしい雰囲気を見て、

ようやく、ワーニャ伯父さんは、

拳銃を下ろした。


「ああ、俺はどうしたんだろう?

いったい、なにをしてしまったんだろう?」


「それで済むと思うのか!

貴様は逮捕だー!」

大統領のその声に、

警護員たちが詰め寄ると、


「ちょっと待ってくれ、

クレ○リンの警護員諸君。

俺を誰だと思っているんだい?

ワーニャ伯父さんだぞ?」


「え?本当に?!」

ロシア文学界の超有名人が相手と知り、

警護員たちは思わず、タジタジとなる。

「失礼しました、ワーニャ伯父さん!

こちらからお帰りください」


「ばっかもん!そいつを逃すな!」

硝煙の匂いの残る中、

一人残された大統領の怒鳴り声だけが、

執務室に取り残された。

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