『地下室の手記』(ドストエフスキー)の場合

ある夕暮れ時のことだった。


大統領が執務室で、

机に向かって一人、

溜まっていた書類に

目を通していると、


やおら執務室のドアがノックもなしに開き、


髪の毛の乱れた、実に機嫌の悪そうな男が

物凄い剣幕で入ってきた。


大統領「な、、、なんだね、君は?」


男は、じっと大統領を

睨みつけていたかと思うと、

ぷいっと横を見て、こうひとりごちた。


男「ああ。まずはこの場にふさわしい

喋り方を、考えてくるべきだったな。


こんなところで急に居丈高に入っても、

センチメンタルになっても、

得るものは多くなさそうだ。


ちゃんと喋り方から準備してくるべきだった。


けれども──待てよ?

『得るもの』ってなんだ?

オレは何かを得ようと思って

ここに来たわけじゃない筈だ」


大統領「な、、、何を一人で言っているんだね?」


男「大統領閣下」

大統領のほうに向きなおり、男は言った。

男「きっと、こうおっしゃりたいんでしょう?

なんてみすぼらしい、貧相な、哀れそうな男だと。

きっと育ちも悪くて、家庭環境も悪くて、

すっかり心がねじけているに違いないって」


大統領「──いや、、、別に何も」


男「いいんですよ。ハッキリ言ってくれれば!

ちぇ、それにしても!」

彼は、自分の震えている手を、大統領の方に向けた。

男「畜生!大統領閣下の思っている通りですよ!

ここにいるのはみすぼらしい貧相な、哀れな男だ!


だって、あんたに言いたいことがたくさんあって

部屋に入ってきたのに、手が震えている!


ははは!酒場で一人飲みをしていたときは、

あんなに、あんたに、言いたいことが思いついたのにな。


こんなに震えているようじゃ、ちえっ、

このまま、オレは家に帰ったほうが、

マシなんじゃなかろうか!」


大統領「じゃあ帰れよ」


男「どうしていったい、オレは、

わざわざ自分から、あんたに文句を

言ってやろうなんて気になったんだろう!」


大統領「そう思うなら帰れって」


男「いや、でも他でもない!

オレは居酒屋でネットのニュースを見ていて、

あんたに言いたいことがたくさんできたんだ。


誰もあんたに言うべきことを言ってやんないなら、

オレが言ってやろうと、酒を飲んで、いきまいて!


それが、いまや、こんなに、震えている。

子供みたいに、震えてやがる。


それはあんたの目付きが、怖いからだ。

つまり、あんたには、

この不名誉を洗い流す義務があるのだ!」


大統領「帰れ」


男「ああ、オレがどれほど、

思想的にも感情的にも優れ、

どれほど知的に成熟しているか、

それをあんたに、まず、

わかってもらえたらなあ!」


大統領「帰れ!」


男「それにしても、

こうやって話していると、

急に、あんたに対しても、

うっすらとした同情の念が湧いてくるよ。


そうだ、現代! 現代のせいなんだろう?


たとえばあんたは、

どうして、大統領なんかになろうなんて

思ったんだい?


もっと穏やかで平和な人生があるとか

思わなかったのかい?」


大統領「帰れーーー!!」


男「オレはもうだいぶ前からこんな、ねじけた人間だ。

こうしているうちに、もう四十歳だ。

役所勤めをしていたが、もうそれもやめた。

でもな、賄賂だけは、

誰からも取らなかったんだぞ!

そのことだけはあんたも立派だと言ってくれるだろ?」


大統領「帰れーーーー!!」


男「このうえまだオレに帰れっていうのか?


でもな、こんなオレでもな、


バスの路線が予告もなしに突然なくなる、


電話番号は突然使えなくなる、


役所にクレームを入れても、担当のやつも

『私の上司が誰なのか私もよくわからないんです』と

平気で言ってくる。


そんな、この国で、必死で生きてきたんだ。


その結果を見ろよ。オレの顔!

この落ちくぼんだ頬を。疲れた目の色を!


そして気づけばオレは何もかも失った!


地位も幸福も芸術も学問も、


そして好きな女も・・・!


それもこれもすべてお前のせいだ!」


大統領「知るか!帰れ!」


男はポケットに手を突っ込み、黒い物体を取り出した。

「そら。その結果が、このピストルだ」


大統領「おおっと!貴様!

そんなものを持ち込んでどうなると思っている!?」


男「そんなに心配しなくていいさ。


オレがここに来たのは、

このピストルの引き金を引くためだ。


ただし、あんたじゃなく、

こっちにな。


こうやって・・・こうやって・・・」


男はピストルの銃口を、

自分のこめかみにあてた。


男「引き金を引き・・・そのことで、

あんたを赦してやることにしよう!」


大統領「どういうロジックだ・・・」


男は、その格好のまましばらくじっとしていたが、

やがてふうっとため息をつき、ピストルを下ろした。


男「心のどこかで、ずっと、わかってはいたんだ。


どうせオレには、自殺する勇気もないってね。

ちえっ。つまらねえ男だな、オレは。


あんたも、そう思うだろう?


そして、今夜からあんたは、

毎晩毎晩、このオレの無様な醜態を思い出しては、

みんなで大笑いするんだろうさ。


いいさ、笑え。笑えよ。みんなで今夜から毎晩な!」


大統領「・・・もう帰れ!」

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