第28話 雨




 「……はぁ……」


 わたしは暗く曇った空を仰ぎながら、ひとりため息を漏らしていた。




 『お母さんのことなんて、お父さんには関係ないでしょっ!!』


 さっきお父さんに言い放った言葉を思い返す。

 なんであんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。お父さんのことがキライなわけじゃないのに。あんな風に怒ったことなんて今までなかったのに。しかも、みんなの……先輩の、目の前で……

 それでも、お父さんと先輩が話しているのを見たら、何故か心がモヤモヤした。そしてお父さんの口からお母さんの名前が出た瞬間、どうしようもなく不安な気持ちが胸の奥から溢れてきたのだ。

 気が付けば、わたしは叫んでいた。何だか分からないモヤモヤをお父さんに、そして、先輩にぶつけるかのように。

 どうして。どうして、どうして……!?





 そうやって頭の中がグルグルとごちゃ混ぜになったまま、気が付くとわたしはここにやって来ていた。

 辿り着いた場所は、校舎の裏庭。

 ここは、この学校に来て先輩と再会した、わたしにとって一番大切な思い出の場所だった。

 あの時のことを思い出すと、今でも胸が熱くなる。ずっと会いたかった、憧れの先輩。その姿を見つけたとき、奇跡だと思った。脇目も振らずに先輩を追いかけ、あの背中が確かに目の前にあることを実感すると、わたしの心臓は張り裂けそうなくらいにドキドキした。あれが告白の場面だと気づいた時には、あのまま先輩が付き合っちゃうんじゃないかと不安で仕方がなかった。そして、先輩が「あの人」との過去に引きずられ続けているのを知って、どうしようもなく胸が苦しくなった。

 先輩のことを思うだけでこんなにたくさんの感情がこみ上げてくるのは、きっと。やっぱりわたしは、先輩のことが───好きなんだろう。

 先輩のことが愛おしくてたまらない。誰かを好きになることが、こんなにも幸せで、つらくて、心が満たされるなんて知らなかった。



 だからこそ、なんだろうか。先輩がお父さんと話しているのを見て、急に先輩が遠くに行ってしまったように感じたのだ。

 頭を下げるお父さんに、先輩は戸惑ったような顔をしていた。たしかにお父さんにとって先輩は、沈んでいたわたしを救い出してくれた恩人。でも先輩にとってわたしのお父さんは、“昔助けた誰かの父親”に過ぎないのだと、分かってしまったから。わたしでは、ひなたさんの代わりにはなれないのだと理解してしまったから。




 「先輩……っ……」


 ポツポツと雨が降り始める。天気予報は今更になって、思い出したかのように雨の予報を的中させる。まるで、こうなることを最初から知っていたかのように。


 「……戻らなきゃ」


 正直、服が濡れるのなんてどうでもいいと思った。でも、雨に濡れるのは構わないけれど、このあとわたしには“舞台”がある。先輩が「楽しみにしてる」と言ってくれた大事なマジックショー。せめて、びしょ濡れの衣装で台無しにしてしまわないようにはしないと……そう思っているのに、身体が動いてくれない。まるでこの雨がわたしの代わりに泣いてくれているような気がして、濡れるのに任せていたい気持ちがどこかにあった。

 それでも、先輩をガッカリさせるようなことだけはしたくない。わたしが校舎の方へ、やっとの思いで身を翻したその時───




 「え……」

 「お」


 ───振り返ったその瞬間、傘を持って歩いてくる先輩と目が合った。

 わたしはびっくりして思わず立ち止まる。

 いつの間に……ううんそれよりも、どうしてここが分かったの……!?


 「せ、先輩……」

 「あーもう、ずぶ濡れじゃないか。言わんこっちゃない」


 先輩がわたしを傘に入れる。傘は小さく、肩が先輩の腕と触れ合う。


 「先輩、この傘……」

 「あー……まあ、折り畳み傘なんて新しく何本も買うものじゃないし?」


 傘の布地の端に見えるネームプレート。忘れるはずもない、この傘はあの日わたしがここで先輩に返したもの。この傘を、先輩はいつも持ち歩いてくれていたんだ。

 わたしの胸が、あたたかくて切ない何かでギュッとしめつけられるように感じた。


 「とりあえず校舎に戻るよ。このぶんだと雨足も強くなってきそうだし」

 「……それは……」

 「お父さんと鉢合わせるのが心配かい? なら部室に行こうか。あそこなら部外者は入ってこないだろうし」

 「……はい」


 先輩がわたしを気遣ってくれているのが分かる。そのことがどうしようもなく嬉しくて、でもそれはわたしがだからに過ぎない気がして苦しくもなる。




 「どうした?」

 「……いえ」


 歩き出した先輩の後ろに続けないわたしに気付いて、先輩が足を止める。

 遅れないようになんとか足を踏み出したわたしの手が、先輩の手で拾い上げられた。


 「え───」

 「ほら、早く」


 先輩に手を引かれて、校舎の方へと歩き出す。繋がった手から先輩の体温を感じて、身体中が熱くなっていく。


 「あ、あの、先輩……」

 「どうした? イヤなら離すけど」

 「い、イヤじゃない、です……」

 「ならよかった。もし嫌だって言われてたら立ち直れなかったかも」

 「え……?」


 気恥ずかしそうにそっぽを向く先輩。


 「たまにはカッコつけさせてもらわないと。あの日よりもむしろ後退してたりしたら、流石にへこむから」

 「……大丈夫です。先輩、カッコいいです。あの日よりももっと、ずっと」


 顔が赤く火照っていくのを感じる。

 ダメだ。たったこれだけのことで、落ち込んでいたことも、悩んでいたことも、全部どうでもよくなって幸せな気持ちになってしまうなんて。



 先輩に手を引かれながら、わたしは先輩と出会ったあの日を思い出していた。二人でこの傘に入って駅まで歩いた、わたしにとってかけがえのないあの日のことを。

 胸がいっぱいになりながら、わたしは繋いだ先輩の手を、離さないようにしっかりと握りしめた。


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