第11話 その背中を追いかけて
「おーい、三柳く~ん?」
アオイの目の前で、女の子が確かめるように手を振っている。
「もしかして、寝ちゃった?」
「……考え事をしていたのは確かですけど、教師の目の前で眠れるほど図太くはないですよ、俺は。」
目の前の女の子───もとい、担任教師の
先生に対して「女の子」と呼ぶのもどうなのかとは思うが、背丈や顔立ちが20代半ばとは思えないくらい幼……いや、若々しいのだ。
「考え事か。年頃の男の子だもんね。色々あるよねぇ。」
うんうんと、わざとらしく大げさに頷いてみせる先生。
そんな小さな
「ちなみに、どんな考え事だったのかな?」
「ちょっとね……。まあ、大したことではないんです。」
本当はちょっとどころではない、深い夢のような回想に浸っていたのではあるが。それを端的に言い表せるほどアオイは口達者ではないので、お決まりの文句でお茶を濁しておく。
「そっか……」
何やら察したかのように言葉を切る先生。
「というか、待つのは全然構わないんですけど、こっそり音もなく現れないでくださいよ。しかも部活が休みとはいえ、部室を使うのもアレですし。」
「あはは、ごめんなさい。でもこの方が三柳くんも落ち着いて話せるでしょ?」
「……そうですね。」
ここは、アオイの所属する天文部の部室である。放課後の時間の多くをこの部室で過ごしてきただけに、ここはアオイにとって
「お気遣いには感謝しますよ。」
「えっへん。これでも先生だからね!」
「えっと……はい。」
「あ~! また『子供っぽいこと言って』とか思ったでしょ!」
胸を張る姿に思わず頬が緩んでしまい、それを見た先生が膨れる。本人としては大人ぶっているつもりのようなのだが、こういう所作こそがいちいち子供っぽく見える原因になってしまっているのがなんとも残念だ。
「でもよかった。
「……!」
ふっ、と表情を崩した菜夏先生がそう呟いたのを聞いて、アオイはハッとした。
「心配させていましたか……」
「それはもちろん、ね?『学校を辞めようかと思ったんです』なんて相談されてたんだし。」
あはは……と苦笑いする菜夏先生。
「一昨日、連絡が来た時はギョッとしたもん。もうその後なんて仕事なんか全然手に付かなかったんだから。」
「それは……すみません。」
アオイは深々と頭を下げる。
「いいの。生徒の悩みに向き合うのも教師の仕事だから。むしろ、頼ってくれて嬉しい。担任教師の冥利に尽きるってものだよ。」
「ホントにすみません……。ただでさえ、バン兄───九条先生の跡を引き継いでもらったっていうのに。」
菜夏先生は、今年度から天文部の顧問になったばかりである。前に顧問を務めてくれていた先生が退職したのだが、先生はその後任を快く引き受けてくれた。しかも、教師になって2年目という大変な時期にも関わらず、である。
「アオくんが気にすることじゃないよ~。そりゃあ、九条先生と比べたら至らないところもたくさんあるだろうけど……」
「そんなことは決して。こんなにしてもらってばかりなんですから。それに比べて、俺は……。まだまだ頼りないばかりか、あまつさえ学校を辞めようとさえしていたんですから……」
そう言ってアオイは俯く。
人のことを子供っぽいとか笑ってはいられない。なによりも自分自身が、大人になれてはいないのだから。
「…………えいっ!」
不意に頭にポコッと軽い衝撃を受けた。
見ると先生が、机に置いてあった星座早見盤でアオイの頭を叩いたらしかった。とはいえ、下敷きなんかと同じ柔らかいポリ塩化ビニルの素材だから痛くもなんともない。
「こーら。あんまり自分を蔑まないの。どんなに後ろ向きなことを言い立てたって、アオイくんが立派な男の子なのはよく知ってるんだから。」
チロっと舌を出してふざけてみせる先生。そういうところが本当に子供っぽい。
「ちょっと責任感が強すぎるのかもね。なんでも自分で出来るのが大人ってわけじゃないんだよ? わたしだって見た目はこんなだし、中身もまだまだ大人になりきれてないって思うもん。ましてやアオイくんはまだ高校生だよ?悩んで、迷って、周りの人にたくさん迷惑かけたらいいの。」
「でも……」
まだ心の晴れないアオイに、菜夏先生は今度は優しく微笑んでアオイの鼻先をツンツンとつついた。まるで、「子供がそんな大それた悩みを抱えるな」とでも言いたげに。
子供っぽい顔と年長者の顔を的確に使い分ける、菜夏先生からは正しく教師らしい懐の深さを感じさせられた。
「それにね、わたしも学生の頃はけっこう親に迷惑をかけてたんだ。いろいろ我儘も言ったし。みんなも一緒だよ。たとえば八重島くんとかだと、ああ見えて成績とか進路のことで泣きついてきたりとか───」
「人がいないのを良いことに、勝手に人の個人情報の話をしないでほしいんだが。」
突然、部室の扉の向こうから声がした。
外から声がして先輩が部室へ入ってくる。
「アキオ先輩!?」
「あはは……なんかそこにいるっぽいし、いいかなって。」
「いいワケがないでしょう。これでも後輩たちには気を遣わせないようにしてるつもりだったんですから。」
3年の
「先輩が成績で苦労してるって話、今まで聞いたことがないんですが……」
「あえて言うようなことじゃないからな……それに、決して赤点だとかいうようなレベルで悪いわけじゃないぞ?」
「アッキーくん、推薦での合格を目指してるからね。社会科全般がニガテみたいで、地理の成績が芳しくないんだよね~。あの大学、内申点は全部の科目で基準を超えてる必要があるから。」
「実際の試験では使わない科目だから、どうしても疎かになってしまうんですよ。」
「それは分かるけど、だからって勉強しなくていい理由にはならないからね?ちゃんと教えてあげるから、少しでいいから時間を割いてほしいな。」
「分かっています。」
高校3年生……先輩にも、受験生ならではの苦労があるみたいだ。
「にしても先輩、もしかして聴いてました……?」
「まあ、部屋の外からだから、何もかも聞こえてたわけじゃないけどな……。」
アキオ先輩は申し訳なさそうな顔で言った。
「……それに、昨日のうちに連絡は貰っていたからな。俺は俺で呼び出されていたんだが、アオと話をするってことも聞いていた。半分は、聞いてもらうつもりでいたんだろう?」
「そうだね……聞かれてもいいかなとは思ってたかな。わたしだけでは力になるのも限界があるだろうし、やっぱり部長としては気になるかなって。」
ちょっと頭を掻きながら、アキオ先輩は頷いてみせる。
思っていた以上に、多くの人に心配をかけていたみたいだ。アキオ先輩は決して軽率な人でもなければ、興味本位で立ち聞きをする人でもない。それでもこうしてここにいるのは、真実アオイのことを気に掛けていたからに他ならない。
「……すみません、先輩。」
「いや、こちらこそ盗み聞きをするようで悪かった。だが俺も、何をどう相談に乗ったらいいのか分からなかったからな。」
「はい。それは分かっているつもりです。」
大変な時期でありながら、アオイのことを気に掛けてくれていた。後輩として、こんなに有難いことはない。
菜夏先生も、見た目こそこんなだが授業は分かりやすいし、生徒のこともよく見ていて、良い先生であることは誰もが同意するだろう。今アオイに対してそうであるように優しい人なのは明らかだが、決してただ甘やかしているというわけでもない。訳あって先日退職した前の顧問、九条先生に代わって新しく
いま唯一の2年生として、これからの天文部を引っ張っていく者として……その責任と信頼を、アオイは裏切ろうとしていたのだ。
「俺は───辞めません。先輩たちや後輩や……面倒を見てくれた九条先生と、顧問を引き受けてくれた菜夏先生を、がっかりさせたくはありませんから。」
「……ああ。」
「わたしも、アオくんがいなくなるのは寂しいもん。残ってくれて嬉しいよ。」
先輩と菜夏先生は、それぞれに優しく笑った。
「それに、今は文化祭の展示について考えないといけない時期ですしね。まだ方向性も決まってないし、他のことで悩んでる場合なんかじゃない。」
「そうだね。でも、何かあったらいつでも気軽に相談しに来てね?アオくんの事情、何か知ってるわけじゃないけど、先生だからこそ話せることだってあると思うの。」
「俺も、文化祭で部長こそ引き継ぐが、部活そのものを引退するわけじゃない。困ったことがあれば遠慮なく頼ってくれ。」
「はい。その時はお願いします。」
たいがい秘密の多いアオイだが、先生は担任だからこそ知っていることもある。それに、同性で一番歳の近いアキオ先輩は、もしかすると一番親身になって話しやすい相手かもしれない。今こうして話していても頼もしいことは間違いなく、本人たちの言うとおり、何かあった時にはまず一番に相談できる相手だろう。
夢を追いかけ、その夢を叶えんとしている九条先生、親身になって寄り添ってくれる菜夏先生に、2年間背中を見てきた頼りになる先輩。アオイの周りにいる
この大きな(ひとりは物理的には小さいが)背中に倣うようにして、これからもしっかり前へ進んでいかないといけない。アオイはそう、決意を新たにした。
「でも、そうだね……今度から、相談がある時はちょっとだけでいいから内容についても連絡してくれたら嬉しいかな。」
と、それまでとは打って変わって明るくふざけたような口調で、菜夏先生は言った。
「今朝いきなり【少し話をしたいので、放課後にお時間を頂いてもよろしいですか?】なんてメッセージで送られてきたんだもん。告白でもされるのかと思って、別の意味でドキドキしちゃった。」
「えっ、ええっ……!?」
「おお。なんだ、何を悩んでいるのかと思ったら、そういう方向だったか。」
「違いますから!!先生に告白とか、それはさすがに無いです!!」
思わず大声で否定したアオイの言葉を聞いて、先生が本気でショックを受けたようにシュンとなる。
「そっか……わたし、ちびっこいもんね……。せめてもう少しいろいろ大きくなれたら良かったんだけど……」
「そういう意味じゃなく……!先生はそのままで充分、魅力的な女性ですよ。」
「ホントに?」
「ホントです!ただでさえ可愛いのに距離感も近いし、こうして話してたら割とけっこうグラつきますから。」
正直なところ、歳もそれほど離れていない新人教師のこの人のこの距離感は、健全な男子高校生にとってはかなり危険な気がする。
「……えっと……もしかしてわたし、やっぱり口説かれてる?」
「口説いてません!……さすがに先生と恋愛はマズいでしょ。」
「そうだよねー……禁断の愛になっちゃうし……。小説とかマンガだったらよくある話かもしれないけど、実際にあったら色々問題があるもんね。」
そう言いつつも菜夏先生の顔が赤い気がするのは、夕陽のせいということにしておこう。大人の女性にからかわれるのは、正直心臓に悪い……。
いたたまれない雰囲気のアキオ先輩といい、早くこの空気をどうにかしたい。やれやれと心の中でため息をつきつつ、そんな風に思っていた矢先。
「───あのっ……!」
ちょうどそんなタイミングを見計らったように、部屋の入口の方から声が響いた。
そこに立っていたのは───
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