挿話 「君の世界を教えて」





 ───わたし、宇宙に行ってみたいんだよね。




 生前、彼女はアオイにそう言ったことがある。

 彼女の病室には色々な本が溢れていた。中でも特に多かったのが、星空や宇宙に関する書籍だった。

 その中の一冊を手に取りページを手繰りながら、彼女ひなたは思いを馳せるように呟いた。


 「夜空いっぱいの星と一緒になって、この世界のことを見つめてみたい。そんな風に思うことがあるの。」

 「それは……すごくスケールの大きい話だね。」

 「そうかな? でもわたし、本気で宇宙飛行士になりたいって思ってたんだよ。あの星の世界から地球を見下ろしたら、きっと何もかもが違って見えるんだろうなって。そんな世界を見てみたいって、思うんだよ。」

 「壮大な夢だね。でも、ひなたらしいかも。」


 アオイは、宇宙飛行士になって地上を見下ろすひなたを想像する。

 優しく、愛おしむようにこの星を眺める、そんな彼女の姿が目に浮かんだ。


 「向こうからアオイくんたちを見たら、どんな風に思うのかな?」

 「……それは……」


 星々の煌めく、この世界の向こう側。彼女は、まさにその向こう側の世界へと旅立とうとしているのではないのか。





 アオイが彼女───夏野ひなたと出会ったのは、彼女が亡くなるちょうど1年前だった。当時たまたま数日間入院していたアオイは、その病院の敷地内の庭でひなたと出会った。若年性ののために闘病生活を送っていた彼女は、どこか達観した、しかし人生に悲観するわけでもない不思議な物腰と佇まいで、アオイの興味と関心は瞬く間に彼女に惹きつけられた。

 若くして末期のを抱えた───アオイより1年多く生きているだけの短い人生に、すぐそこまで終わりが迫っている少女に、このような透き通った目で世界を見せているものは何なのかと。




 「ありがと、アオイくん。」

 「え……」

 「わたしが、自分が死んだ後のことを考えて、こう言ってるのかもって思ってくれてるんだよね。」


 ひなたにそう訊ねられて、アオイは思わず言葉に詰まってしまった。


 「一応、純粋に宇宙に行ってみたいって思ってるのも本当なんだけど……」


 気を遣われたことが気恥ずかしいのか、取り繕うように少し目を逸らしてひなたは続ける。


 「自分が死んだらどうなるのかって考えたときにね、ほら、よく言うじゃない?人が死んだらお星様になるって。」

 「そう……だね。僕も小さい頃にそういう物語を読んだような気がする。」

 「もし地球から見た宇宙みたいに、世界の外側からこの世界を見ることができるんだとしたら、それってすごく素敵なことなんじゃないかな。」


 ひなたは真っ直ぐな目で、遠くを見つめるようにしながら言い結ぶ。

 その瞳を見ていると、ついたまらなくなってこう問いかけてしまった。

 “死ぬことが怖くないのか”と。


 「怖いよ。すごく。」


 ひなたの答えは単純で、ごく当たり前のものだった。


 「“死んだら星になる”なんてのが、おとぎ話なのも知ってる。天国が本当にあるのかも分からないし、そもそも死んだ後の世界なんてないのかもしれない。お父さんともお母さんとも、友達もみんな、アオイくんとも会えなくなって。わたしがわたしでなくなって。そうなったら、わたしはどこへ行くんだろう。」


 不安そうでありながらも、目を逸らすでもなく真っ直ぐに遠くを見据えて、ひなたはただ淡々と口にする。

 彼女が語る、素朴で答えのない問いかけを聞いて、アオイは言葉を失ってしまった。

 普通なら、ここで彼女に同情するのかもしれない。そんな哀しいことを考えずにはいられない境遇にいる彼女を、その理不尽を嘆くのかもしれない。

 けれど、それよりも先にアオイが感じたものは、感動と尊敬だった。自分がこの世界を去った後、その先のことまで考えていながら、堂々とまっすぐ背筋を伸ばしていられる彼女の姿に。


 「死ぬのは怖い。死んだらわたしはどうなるのか、そんなことを考えると怖くて怖くて泣きそうになる。……でもね、アオイくんといると、そういうのがあんまり気にならなくなるの。」

 「え……?」

 「わたしのことを見てるとき、みんな悲しそうな顔をするの。『こんなに若いのにこんなことになって』『まだ14年しか生きていないのに、かわいそうだ』……そんな風に思っているのが伝わってくる気がして、嫌だった。この先に待っているのが、暗くて何もない、何もかもが終わった意味のない世界なんだって思ってしまう。それが何より怖くて……。でも、アオイくんは違った。」


 強い語調で、ひなたは明るく語り口を変える。

 それまでとは打って変わって、彼女の目は優しくあたたかいもので溢れていた。


 「アオイくんは、わたしが怖いって思ってることを知ってる。でも、それだけじゃないってことも分かってくれてる気がするんだ。もっともっと、たくさんのことを考えてるんだってことを。だから多分、アオイくんはわたしのことを、“かわいそう”だとか“辛そうだね”とか、そういう風に考えてたりはしないんじゃないかなって。」

 「えっと……」


 優しく、軽くイタズラっぽい笑みさえ見せながら、スッと射貫くように彼女に言い当てられて、アオイはさらに言葉に窮してしまった。

 たった一つしか歳が違わないのに、何年も何十年も歳を重ねているかのような、聡明で思いやりに満ちたあたたかい瞳。そんな深みのある眼差しを、彼女はその目に宿しているように感じられる。


 「一緒にいると分かるんだ、アオイくんの考えていること。不思議なくらいハッキリとね。」


 そう言ってひなたは、アオイの手を取る。その手を自分の両手に包み込むと、愛おしむように引き寄せた。


 「アオイくんはやさしいね。きっとわたしが泣いてたら、誰よりも一番近くにいてくれるんだろうなぁ。」


 そんなのは、当たり前だ。

 心の中でアオイは思う。大切な人が泣いているなら、寂しい思いをしているのなら、誰よりもそばにいて寄り添いたい。それは、誰もが抱く普遍的な感情、衝動に違いない。

 彼女は今、寂しいのだろうか。命の営みの遥か彼方、これからも続いていく生を持つ者には決して手の届かない遥かな先に、彼女はたった一人で立っているのだろうか。

 もしそうなら───もしもそれが本当なのだとしたら。そんなのは、あまりにも理不尽で、悲しすぎる。


 「ひなた、僕は……」


 やっと口から出た言葉は、頼りなくもそこで途切れてしまう。

 君は今、何を考えているんだい。何を思い、その目に何を映しているんだい。

そんな優しい目をして、どんな世界を見ているというんだい。

 昨日見た彼女の母親は、黙って涙をこらえながら、ギュッと強く娘を抱きしめていた。僕は、どうしたらこの人の隣に立てるのだろう。今、この人を抱きしめられなければ、この先もこの人の側にいることはできないのだろうか?ただここにいるだけでは、この先も隣に居続ける資格は無いのだろうか?




 「ねえ、アオイくん?」


 ふと、ひなたは声の調子を変えて、子ども同士の内緒話のように、先ほどの茶目っ気のある様子に戻ってささやいた。


 「ひとつ、秘密を打ち明けてもいいかな。」

 「秘密?」

 「うん。……アオイくんは、“魔女”って知ってる?」


 突然のことで、面食らったのは事実。

 「魔女」というのはどういうものか、持てる知識の限りを尽くして訊ね返したが、彼女は笑って返すばかり。


 「実はね、わたし───“魔女”なんだよ?」


 やがて、再びイタズラっぽく笑いながら、ひなたは口元に人差し指を当てて内緒話を打ち明けるかのようにそう言った。


 「ふふっ。アオイくん、困った顔してる。」

 「そりゃ困るよ……ひなたが言おうとしてることの意味が、全くもって分からないんだから。」


 そう言って肩をすくめるアオイを見て、ひなたも「ごめんね」といった風な困り顔で笑ってみせる。


 「そうだよね。でも、『分かりたい』って、思ってくれるんだ。」

 「それはもちろん。ひなたのこと、僕にはまだまだ知らないことが山ほどあるみたいだから。ひなたの全部が知りたいんだよ。」

 「……うん。わたしも知ってほしい。それにね、わたしも同じなんだよ? アオイくんのこと、まだまだ知らないことがたくさんあるんだから。だから、これからいっぱいアオイくんのことを教えて?」


 ひなたはそう言って、まっすぐアオイの目を見つめる。


 「だから、わたしのことは一旦おあずけ。病気のこと、夢のこと、“魔女”のこと。これから少しずつ、お互いのことをゆっくりお話ししていきたいなって。これでも、まだまだ時間は充分にあるんだから。」




 この時、アオイは理解した。

 この子はひと足飛びに達観した大人でも、迫りくる死に怯える少女でも、大病に侵された悲劇のヒロインでもなく、アオイと同じく心に人並み以上の感動と夢と好奇心を秘めた、ただのひとりの女の子であることを。


 「アオイくんのこと、教えてほしいな。あなたの見ている世界を、もっともっと知りたいんだ。」






 ひなたといる時間は、いつも穏やかに時が流れていた。楽しいときも、嬉しいときも、悲しいときも、切ないときも。お互いのことを話しながら、ゆっくりゆっくりと相手に寄り添い、繋がっていく。そんな時間が何よりも嬉しく、愛おしかった。

 あれからの一年。

 アオイはこれからの一生、決して忘れることのない大切な時間を、ひなたと二人で過ごしていった。そしてその中で、彼女はアオイにとって、何物にも代えられない大切な存在になっていった。



 そしてそれは、今でも。

 ───彼女の“空席”は、誰であっても埋められない。


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