第5話 “魔女”の後輩
そろそろ日も暮れようとしている。再び雲のむこうへと入りこんだ太陽は、その姿を雲間に隠しながら、音もなく空から去ろうとしている。
下校時刻も近づいてきているので、白石さんを校門のところまで送るべく、アオイは裏庭の道を彼女と並んで歩いていた。
「それにしても。まさか同じ学校だったなんてな。学年が違うとはいえ……高1だよね?」
初めて会った時もそうだったが、この子とは偶然にも程がある出会い方ばかりしている気がするな。
「はい! 先輩は───」
「高2だ。ひとつ下か。でも驚いたろ?そんなに探してた相手が自分の学校にいたなんてさ。」
「えっと……。そうですね、でも不思議ではありませんでしたよ。もしかしたら先輩がいるかもしれないと思って、この高校に決めた部分はありますから。」
「マジか……」
この辺りに住んでいるとは言ったが、だからといってすぐ近くのこの高校に通っているとは限らないだろうに。アオイを探しに来た、とまでは言わないにせよ、それが学校を選ぶ理由の一つにまでなるとは。ここまでくると、最早執念とさえ言えるレベルかもしれないが。
何にせよ、どうやらこの子に慕われているのは本当らしい。
「しかし、そんなに探してたんなら、もっと早くに見つかっててもおかしくなさそうなものだけど。」
「あっ、その理由は単純で。わたし、転校生なんですよ。今学期からこっちに来て通ってます。でも来て早々、先輩に会えるなんて思いませんでしたけど。」
「へぇ……?」
転校生か。
今は9月、2学期が始まって1週間が経ったばかりだ。今学期の頭に転学してきたならば、やっと学校に慣れてきたばかりといった頃合いだろうか。
事情は分からないけれど、中途半端な時期に転校となると、それは大変だろうということは想像に難くない。そもそも、あの時は何となくの
「この時期に転校か。やっぱり苦労も多いだろうね。」
「そうなんですよ! 学校のことはもちろん、まだまだ道も覚えられてないですし……生きていくのがやっとって感じです。」
「そこまで言うレベルかい。」
「ちょっと方向音痴なとこがあって。通学路からコツコツ覚えているところです!」
それは胸を張って言うことではないような。
目を輝かせて楽しそうに話す姿を見て、アオイはなんとも不安な気持ちにさせられる。あの時もそうだったが、この子を見ているとどうにも放っておいてはいけないような気がしてならない。
「先輩、校舎に戻るんですか?」
「ああ。用事が残っててね。もうすぐ下校時刻だし、それまでには済ませないと。」
「用事……ですか?」
「ああ、ちょっとね。」
校門のところで別れようとしたときに白石さんに尋ねられ、なんとなく目を逸らしてはぐらかす。
「白石さんの方こそ、こんな時間まで残ってたのは珍しいね。何か用事があったのかい?」
「えっと、その……はい。転校してすぐって、色々ありますから。今日も放課後に用事があって残ってて……そしたらちょうど校舎の窓から先輩の姿が見えて、『もしかしたら』って思って来たんです。」
嬉しそうに言う白石さん。
正直ここまで懐かれていると、何も言わずに去るつもりなのが心苦しくなってくる。
が、これ以上何を話そうにも余計に後ろ髪を引かれるだけだろう。
「……あの、もしよかったら───」
「いや、いい。待たせるのも気の毒だ。きっとまた会う機会もあるだろうし、今日のところはここまでかな。」
あまり長く一緒にいると誤魔化しきれなくなりそうだ。
ここまで慕ってくれている手前、そう易々と言えるわけがない。───まさか、「学校を辞めようとしている」なんてことは。
「……じゃあ、ここで。新しい環境に慣れるまでは大変だろうけど、頑張って。」
思いがけないタイミングでの出会いではあったが、また会えたこと自体は喜ばしいことだったのは間違いない。その気持ちだけは伝わるように、まっすぐ彼女の目を見て別れを告げてから、アオイは踵を返して彼女に背を向けて歩き出す───
「あ、あの……先輩っ!」
───歩き出そうとしたアオイの後ろから、必死に絞り出したような大声が、背中を越えて響いてきた。
「……なんだろう。」
「あ……ええっと……その。」
つい足を止めてしまったアオイは、ちらっとだけ振り返りつつ、聞き返す。
白石さんは言葉を選んでいる様子だったが、何を言ったらいいのかと考えあぐねているようにも見える。
……もしかするとこの子は、アオイがこの学校を去ろうとしていることに、気付いているのではないか?
思い当たることはあった。何せ、先ほどこの子と出会う直前、アオイは───
「ん……っと……───ふうっ……!」
アオイの思考をかき消すように、白石さんは明らかに力の入った深呼吸をひとつしてから、改まった様子で問いかけてきた。
「先輩は……あなたは今、幸せですか?」
「──────」
意外な方向からの問いかけに、不意を突かれたアオイは白石さんの方を振り返ると、目を見開いてまじまじと彼女の目を見つめた。
「先輩言ってましたから。『あの子がいなくても、俺はちゃんと幸せに生きていける』って。」
「それは……」
それは確かに、アオイがこの子に言った言葉だった。雨の降り始めるうす暗い空の下に、小さくなって震えていたあの時の少女に。
「わたしは……“魔女”です。」
「……うん、知ってる。」
「“魔女”は人を幸せにするんです。」
「そうだね。」
「だったら、わたしは……先輩を幸せにできますか?」
時が止まったような心地がした。
雲に隠れていた夕焼けの太陽が、ふたたび顔をのぞかせる。
「あの……あのあの、別にその、変な意味じゃなくて! わたしが先輩に会いたかったように、先輩にも、またここで会えてよかったなって思ってもらえてたらいいな、って……」
さっき出会った時と同じく、言葉が途切れて沈黙が訪れる。
沈む一歩手前の日の光が、彼女に重なって眩しくアオイを照らし出す。校庭の木々が風にざわめき、空は黄金と瑠璃色の溶け合った真珠のような色に染まっていた。
「……ははっ───」
アオイは、堰を切ったように噴き出すと、
「───あっはははははは!」
「え……ええっ……!?」
戸惑う白石さんにも構わず大いに笑い出してしまった。
「あははは、いや、悪い悪い。まさかそう来るとは……。───これは参った。あっはははっ!」
「ちょっ……そんなに笑わないでくださいよぉっ! 一応、あの時先輩に言われたことなんですから……!」
「だから悪いって。ちゃんと分かってる。分かってるけど、まさかそう来るとは思ってもみなかったからさ。」
そうなのだ。
「“魔女”は人を幸せにする」。それは、初めて会ったあの日、アオイが彼女にかけた言葉そのものだ。あの時にかけた言葉を、そっくりそのまま返されるとは。
───「あなたは今、幸せですか?」、か。
アオイは正直、そんなことは考えてもいなかった。
あの時、この子に対して偉そうに色々と話しておいて。
今のアオイは、そんなことすら忘れていた。
「ははは……ああ、これは傑作だな。」
いっそすがすがしい気持ちにさえなりながら、アオイはそうひとりごちる。
「もーっ! いくら先輩でも、そんなに笑われたら流石にそろそろ怒りますよ!」
「ごめんって。そうじゃなくてさ。白石さんのことが可笑しいんじゃないんだ。」
アオイは笑った。心の底から。
“あの子”がアオイのためにくれた言葉。それをアオイは、この子を助けるために手渡した。そうでありながら、アオイ自身それを忘れてしまっていたのだ。あの時アオイが大事にしようと心に決めていた、大切な言葉を。
そしてこの子はそれを自分のものにして、今アオイへと投げ返してきたのだ。
その言葉を聞いて、アオイは嬉しかった。忘れていた大切なものを思い出せたこと。“あの子”がくれたその言葉が、アオイを通じてこの子にまで受け継がれていること。アオイにとって大切なものを、この子も大切にしてくれているということ。そのことが、無性に嬉しかったのだ。
だから笑った。
ここまで心の奥底から、何の気負いもなく笑ったのはいつ以来だろう。
「“幸せ”か。少なくとも君は今、俺をひとつ幸せにしてくれたね。」
「むう……それは、わたしが変なことを言って先輩を笑わせたからですか?」
「それもある。大事だよー? 人を笑わせるってのは。簡単なことじゃないんだから。」
「わたしは決して、笑わせたかったわけじゃないんですけど!」
「ま、そこはタイミングが悪かったってことで。」
白石さんは不服そうな顔をしているが、むしろアオイとしては彼女の問いかけに心から感謝をしていた。
本当に、何かに憑かれてでもいたのだろうかと思うくらいだ。「ここは自分の居場所ではない」なんて、結局は自分の心の持ちようなのだと。
この学校には仲間がいる。気の置けない友達、大事な家族、尊敬すべき先輩に、生意気だが愛すべき後輩。たしかにアオイは過去を引きずり続けている。あの頃以上に幸せになれるとは思えないし、なりたいとも思わない。過去に生きる自分が、もしかしたら自分の周りにいる人の時間さえ押しとどめてしまいかねない。他の人を傷つけてしまいかねないと。
だからアオイは、ここから去るしかないと思った。皆が前に進めるように、自分も前へ進み続けるために。しかし、みんなが前に進むためとはいえ、自分の未来まで置き去りにするべきではなかったのだ。
「……ありがとう、小さな“魔女”さん。」
「───!」
アオイが口にした感謝の言葉に、彼女は息をのんで目を丸くする。
───この子は“魔女”だ、間違いなく。
少なくとも、この子の言葉は“あの子”と同じくらい、アオイの心を動かした。そんなことをできる存在を、他に知らない。
「───さて、帰るか! もう下校時間だしね。」
ちょうど見計らったように下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
アオイは校舎の方へ向かおうとしていたその足を、今度は外へ向けて歩き出す。その足取りは、さっきまでとは比べ物にならないほど軽く、しっかりしていた。
「え、あの、先輩、用事は……?」
「大丈夫、もう用はなくなったから。」
スマホを取り出し、メッセージを打つ。先ほどの言葉は、他愛のない、ただの気の迷いだったのだと。
学校を辞める───そんなつもりはもうすっかり消えてなくなってしまった、と。
「お待たせ。さ、行こうか。」
「え……で、でも……あぅっ!?」
戸惑う白石さんの頭に、すれ違いざまに軽くチョップを食らわせて茶化しながら、家の方角へと歩き始める。
「俺はこっちだけど……白石さんはどっちの方かな?もし駅に行くのなら、今度こそ送るけど。ここまで付き合ってくれたお礼として。」
「ええっと……っ……! わたしもそっちです。元町の方なんですけど、自転車で……」
「そうなのか。いいねぇ自転車。なら、途中まで一緒かもしれないな。待ってるから取っておいでよ。」
「えっと……。じゃあ、お待たせします……」
前髪を直しながら、おっかなびっくり走り出す白石さん。
駐輪場へ自分の自転車を取りに走る彼女をゆっくりと待ちながら、アオイは新鮮な気分で、日の沈んだばかりの空を眺めた。
“あなたは今、幸せですか?”
その問いに、今はまだ自信を持って答えられないけれど。
───君のためにも、この子のためにも。
大切な“魔女”たちに胸を張っていられるように。
俺も、まっすぐ生きていかないとな、
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