第4話 折り畳み傘
あの子と別れて駅までの道を早足で歩いていたが、予想以上に雨足が強くなって、とりあえず目についた建物の軒下で雨宿りしている。滝のような大雨で、髪も服もとっくにびしょ濡れだ。傘を失ってしまったのは思ったよりも痛手だった。
とはいえ後悔はしていない。むしろ、あの子が無事に家に帰れたかどうかの方が心配だった。
「あの……っ!」
そう思っていると、不意に後ろから声がした。
ちょうど思い浮かべていた相手の声。見ると、さっきの少女が息を切らせてこちらにやって来ていた。
「はぁ、はぁ……。あの、傘……! ……こんなに大雨になってしまって、返さなきゃ、って……」
「……遅いよ、色々。もうとっくにずぶ濡れだ。」
俺も、君も。
この雨の中を走ってきたのだ、濡れずに済むわけがない。だがこの子の心遣いは嬉しいと思った。
「送るよ。もし何かあったり、風邪でも引かれたらお家の人に申し訳がないからさ。」
「あ、あの、実はわたしも電車に乗るから……」
「なんだ、この辺に住んでるんじゃなかったのか。じゃあ、一緒に行く?」
少女は黙って頷く。
受け取った傘に彼女を誘い、歩き出す。女の子と相合傘というのは初めてのことだけれども、不思議とそんな余計なことは考えずにいられた。
歩いている間も、電車に乗っている間も、とくに会話はなかった。乗り換える時と、どの駅で降りるのか訊ねたのと、席が空いたから座るように勧めた時くらい。
彼女は意外にも、アオイよりもさらに遠くの駅まで行くらしい。何故こんな遠くにまで来たのか、気にはなったが訊ねる気にはならなかった。ただ同じ街で、同じあの居場所で、同じように雨に濡れた者同士。たまたま居合わせただけの行きずりの縁ではあったが、それでもどこかお互いに親近感というか、仲間意識のようなものを感じていた。何も言葉はなくても、お互いの存在だけは確かなものであるということ。
自分たちは、決してひとりじゃないということを。
「───次はー、調布、調布───」
「お、そろそろか……。俺はここで降りるから。」
心配ではあったが、さすがに相手の駅にまで送っていくわけにはいかないので、当然アオイの方が先に降りることになる。
「うん。……あの、……ありがとう。」
「俺は何もしてないよ。ただ自分のことを話しただけだし。」
立ち上がったアオイを引き留めるように彼女も立ち上がり、声を掛けてきた。
雨に濡れてぐしゃぐしゃになった髪の下に、深い瑠璃色の瞳が見える。
珍しい瞳の色だ。カラーコンタクトレンズの可能性も無いではないが……それに、ちゃんとした明かりの下でよく見てみると、髪も少々栗毛色がかっている。もしかするとこの子には外国人の血が入っているのかもしれない。
「……えっと……」
何か話すことを探している様子の彼女を見て、やはり心配になる。
かといって、本当についていくわけにはいかないし……
「これ、持っていきな。」
そこまで考えたところで、アオイは咄嗟に思いついて先ほどの折り畳み傘を手渡す。
「え……でも……」
「傘が無いんじゃ、着いてからも大変だろう。俺は家が駅の近くだから大丈夫。」
家が近いというのは嘘だが、これくらいの嘘なら神様も許してくれるだろう。
ひとり重い過去を抱えながら生きていく者同士、何かを抱えた者同士としての餞別。そして、お互いに決して“ひとりぼっち”ではないのだということの証として。
彼女は戸惑いながらも、やがてためらいがちにその傘を受け取った。
ちょうど駅に着いて、電車がカクンと揺れる。
倒れそうになった少女を軽く支えて立たせてやってから、開いた扉に向かいながら別れを告げる。
「それじゃ。気をつけて。」
「あの……! ……やっぱりこんな、貰っちゃうのは……!」
「なら無期限で貸し出す! もし機会があったら、そのときに。またな。」
まだ渋る彼女にそう言い放ちながら、電車を降りる。
扉が閉まり、窓の向こうに見える少女に手を挙げて見送ると、彼女の方も小さく控えめに手を振った。
遠くに住む者同士、あの街で出会ったのだ。何故あの街に来たのかは聞かなかったが、きっとこれも何かの縁だったのだろう。案外、いつかまた会う時は来るのかもしれない。
その可能性は低くないと、そんな予感を感じていた。
───そして、現在。
あの時電車の窓越しに見送った少女がまさに今、アオイの目の前に立っていた。
「もしかして、あの時の……!」
一瞬にして蘇った記憶を思い返して、そう訊ねる。
「はい!
少女は───白石さんはそう言って、綺麗に折りたたまれて可愛らしい袋に入れられた、あの時の折り畳み傘を手渡してくれた。
正直なところ、見違えた。
2年前のあの日……忘れたわけではなかったが、あの時見た彼女の印象とは全く違っていて、すぐには記憶が結びつかなかったのだ。くしゃくしゃだった髪もきれいに梳かれて、すっかり女の子らしい装いをしている。公園の隅にうずくまり、何物にも興味を示さないといった風だったあの少女の面影は、どこにもなかった。
「……よくもまあ、後生大事に持ってたもんだ。」
「当然です。ずっと大事に持ってました。いつでも返せるようにって。」
傘をしっかり手渡すと、白石さんは恥ずかしそうに視線を逸らして一歩離れる。
「ホントは一度、調布の駅まで返しに来てたんですけど。やっぱり何の手がかりも無しだと見つけられなくて。」
「当たり前だ。俺は普段電車を使ってないし、通るわけない。」
「ちゃんと降りて、探してみたんですよ? 家が近いって言ってたのは覚えてましたから。」
「あー……。えっと、それは方便で、実際は駅からもかなり遠いよ。」
「嘘だったんですか!?」
「仕方ないだろ! ああでも言わないと受け取らなかっただろ、君は。」
非難めいた視線を向けてくる彼女に、バツの悪い顔で弁明する。
「どうりで見つからないわけだったんですね……」
「いや、そもそも名前も住んでるところも知らない相手を、何の手がかりもなしに探そうとすること自体が無謀なんだと思うよ。」
「でもわたし、名前は知ってますよ。
不意に名前を言い当てられて、ピシッと身体が固まる。
「……なんで知ってるんだ。」
「名前、書いてありましたから。ここに。」
そう言って白石さんは、折り畳み傘のある部分を指さす。傘の布地の端っこに、「
ちょっと待て。
こんなものを、初対面の子に渡していたのか、俺は……!!
「最初から思っていましたけど、これを見て、やっぱり良い人に違いないんだって思いました。」
「いや、これは、小学生の頃から使っていた傘だったからで!」
なんだろう、こんなド間抜けな失態をやらかしていたとは夢にも思っていなかった! 恥ずかしくてかなり顔が熱い。本当に
見ると、白石さんも申し訳なさそうにしながらくすくすと笑っている。穴があったら入りたい、とはまさにこのことかと頭をかかえる。
「ふふっ。……でもそのおかげで、先輩の名前を知れました。いつも鞄の中にこの傘があって、先輩の名前と人柄が思い浮かべられて。本当に支えになってくれて。……いつかまた会いたいって、思ってました。」
顔をほころばせて、眩しいものを見るような目で、白石さんは真っ直ぐ見つめてくる。
「そうか……。なら、みっともない真似を晒した甲斐はあったってことか。」
「はい。わたしにとっては、みっともなくなんてないですけど。」
恥ずかしいことに変わりはないが……まあ、結果としては悪くない。現に今、彼女が笑っていることで意味は充分にあったのだと。
そろそろ、日が沈みかかる頃。
頬が熱い気がするが、それはきっと真横から照りつける夕陽のせいだろう。
アオイはそう自分に言い聞かせることにした。
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