第1話 再会




 ふと、空を見上げる。

 雲のむこうに日はかげり、日の傾きはじめた空は灰色に白んでいる。今夜は星は見えそうにない。天文部であるアオイにとっては、少々残念なことかもしれない。


 「いや、もうすぐ天文部か。」


 どこか寂しさを覚えていることは、どうやら認めざるを得ないらしい。



 やがてピロンとスマホの通知が鳴る。


 【ちょっとアオくん! どういうことなの!?】


 アオイが送ったメッセージに対する、顧問にして担任の先生からの返信だった。


 【ちょっと、学校を辞めてみようかと思ったんです。すみません急に驚かせてしまって。】

 【ほんとビックリだよ!! 何かあったの? もしまだ学校にいるならお話ししよ?】


 心配してくれているのは間違いない。相談に乗ろうとしてくれるその姿勢は頼りになるもので、教師に相応しい態度なのだろうが……そんな言動に反して、教師とは思えないほど気さくで子供っぽい姿と喋り方を思い出して、アオイはふふっと苦笑する。



 彼───三柳みやなぎアオイは、学校を辞めようとしていた。周りの人にはまだ何も言っておらず、唐突すぎるのはアオイも充分承知していた。アオイは、左手首に巻かれたブレスレットに手を当てる。

 何か問題を起こしたわけではない。

 ───ただ、ここが自分の居場所ではないと思ったから。

 過去に囚われたアオイがいては、他のみんなの未来さえ奪いかねない。自分の存在が、それだけで誰かを傷つけてしまうのならば、ここにいるべきではないと思ったのだ。



 再び、返信の通知でスマホが鳴る。きっと心配して返事が来ているのだろう、何度もメッセージが飛んできていることをその振動が告げてくれる。これは、直接話した方が良さそうだ。校舎の方へ、アオイが身を翻したその時───






 「え……」

 「あ……っ……!」


 ───振り返ったその瞬間、一人の少女と目が合った。

 アオイはびっくりして思わず立ち止まる。

 いつからそこにいたのかも分からない、小柄で楚々とした佇まいの女の子が、アオイの振り返った先に立っていた。



 時が止まったかのようなひと刹那。言葉もなく、木々が風にそよぐ音がただ耳を通り抜けていく。




 「───お久しぶりです、先輩。」


 鈴を鳴らしたような音色の声で、目の前に立つ少女が言った。屈託のない澄んだ色の瞳が、真っ直ぐこちらに向けられている。


 「え……?」


 アオイは咄嗟に左右を見回した。

 ここは学校の裏庭の一角で、校門とは真逆の方角にある。普段から人通りは少なく、そろそろ日も暮れそうなこの頃合い、周りにはこの子の他に誰も人は見当たらない。

 すなわち今のこの子の言葉は、紛れもなく自分に向けられたものだということ。


 「……君は?」

 「ふふっ。さて、誰でしょう?」


 彼女はイタズラっぽく楽しそうに笑い、長い髪をなびかせながら身体を翻す。周りを見渡しながら、踊るように一回転してアオイの方へ向き直った。背は高くなく、顔立ちにもどこかあどけなさが残る。間違いなく年下だろう。少なくとも、一つか二つは。


 「ここは穴場ですね。思ったよりも広いし人通りは少ないし、明かりも無いみたいだから星もよく見えそう。もっと木が無くて広々としてたら文句なしなんですけど。それでも、空を見るにはもってこいの場所です。」


 それは、今しがた空を見て呆けていたアオイの行動について言っているのだろうか。

 とはいえ温かみのある声からは、皮肉っぽい音色は感じられなかったが。


 「それは単に放課後だからというだけだけどね。昼休みとかは割と人いるよ。こっち側にも一応裏門はあるけど、普段は開いてないからこの時間には誰も来ないだけさ。」

 「そうですね。そんな気はします。でもそのおかげで今は人がいないんですよね。おかげでこうやって、と二人きりで会えました♪」


 少女は楽しそうにそう言って、アオイを指差した。


 「俺?」

 「はいっ!」


 憶えのない年下の女の子から、最初からフレンドリー全開で接してこられて困惑する。


 「会ったこと、あったっけ。ごめん、ちょっと記憶にない……」


 天真爛漫、天衣無縫といったこの子の雰囲気を鑑みても、少なくともアオイの記憶の中に該当するような知り合いはいなかった。うちの制服を着ている以上、この学校の子なのは間違いないだろうけれど……

 そもそも年下の知り合いなんて数えるほどしかいないのだ。控えめに言ってもかわいい部類に入るであろうこの子を、一度会ったのに忘れているとは思いづらいのだが。


 「あの時は名前も言ってませんでしたし、会ったのはあの時だけでしたから、仕方ありません。」


 そうは言いながらも残念そうに声のトーンを下げて肩をすくめる姿を見ると、少し胸が痛む。

 会ったことがあることだけは確かなようだ。何かの時にたまたま顔を合わせたのだろうか。

 少なくとも、普段の生活や学校行事で出会ったような覚えはない。部活の後輩だって二人だけだし、他に下級生の知り合いはいない。高校に入る以前となると、それこそ同年代の子と知り合う機会もなかった。

 閉ざされた記憶の隅から、忘れてしまった思い出の隙間から舞い出てきたような不思議な少女。


 「それでもわたしは、あの時のことをずっと覚えています。先輩と出会って、話をしたあの日を。そして何より、また会いたかった……。よかったです、こうしてまた先輩に会えて。」


 感慨深そうな様子で、少女は噛みしめるように言った。




 「先輩。わたしは、“魔女”です。」

 「……!」


 少女はそう言って、アオイの方へ右手を差し出した。


 「わたしはあの時、先輩に助けられた“魔女”です。自分が“魔女”であること。それを前向きに考えられるようになったのは、あの日、先輩と出会えたのがきっかけなんですから。」




 ───“魔女”。

 その言葉に、アオイはハッと息を呑む。



 思わず目を見開いて、アオイは少女の目を見つめる。少し青みの掛かった、日の沈んだ後の空のような瑠璃色をたたえた彼女の瞳。

 そちらに気を取られた次の瞬間、差し出された彼女の右手には、細長い一本の折り畳み傘が握られていた。


 「それは……」

 「思い出しました?」

 「ああ……───」


 アオイはゆっくりと、思い出を飲み込むように深く頷く。



 雲の切れ間から、ちょうど傾きだした日の光が差し込み、空が黄金色に輝き始める。

 見ると、さっきまで空を覆い垂れ込めていた雲が、まるで溶け消えたかのようにまばらに散っていた。





 “魔女”。

 それはアオイにとって、これ以上ない特別な意味を持つ言葉。


 「───君は、あの時の。」


 その呼び名を聞いたのは……その名を名乗る相手と出会ったのは、これまでにたったの二度しかない。

 だからそれを耳にした途端、埋もれていた記憶が一瞬にして掘り起こされた───


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