第3話 フッと消える前に
和倉温泉で車を借りて輪島に向かう途中で天然の足湯に浸かった。
兄弟八人で金を出し合って両親を能登に連れて行く大役は、免許があって定職を持たない実さんになった。急な旅行だったのには理由がある。
長男が病院に呼ばれて父親の余命三カ月を宣告されていた。
仕事をしろと旅先でも小言ばかりの父親に腹が立たなかったのは、好きなように生きなさいと視える母親が言ってくれていたからだ。
足湯は冬の始めの強い風で、隣でぶつぶつ言っている父親の声は届かなかった。
くるぶしの少し上まで浸かっていただけなのに背中にも汗をかき出した。
「ここは命のふきだまりだね。人も動物も永い事癒されて」
父親の向こうに座っていた母親の声は、なぜか風に流されずに聞き取れた。
「うん、きのう泊まった宿の脱衣所にも書いてあったね。湧き出た源泉に立って傷をいやしてる鹿を見て何とかって将軍がここに温泉を作ったってね」
実さんは足湯から出て母親の後ろに回って肩を揉んであげた。
母親の肩は石のように固かった。
「謎を解明したい意欲が人間のいい所だからね。言い伝えでも納得したいんだよ。おまえは一番の謎って何だい」
「そうだな、宇宙の始まりかな」
「だれも見てないからね。見た人がいないと正直に教えてあげても結局嘘つきにされてしまうんだよね」
「宇宙の始まりを知ってるの、それも視えるの」
「知ってるのは終わりの方さ、宇宙じゃなくて人、死んだらどうなるかって事さ、知っていれば死ぬのが恐くなくなるからいいと思うんだけどね。今だって、こうしておまえと話しているけど隣で父さんはいねむりをしてるだろ、だから誰かにここを使われている」
そう言って母親は首を隣に向けてしばらく白髪が残っている耳の辺りを睨んでいた。
肩はまったくほぐれなかった。揉んでいた実さんの方が凝ってきた。
「もういいよ、ありがとう」
「ワッ」
揉んでいた手に触れた母親の指が火のように熱かった。
「ごめんごめん」
中学二年の夏休み前、クラス担任との三者面談の後に担任が懲戒免職になる未来を透視した時も母親から熱が伝わった。あの時よりもっと熱かった。
「視えたの」
「青年。まさか死ぬとは思っていなかったんだろうね。バイクで走っていて前の車の積み荷の鉄材が刺さった。ベトナムの人かな、そういう景色の記憶を持っている」
「ふーん、この風に乗って来たのかな」
「風、風なんか関係ないよ。時間だって無いんだから。居眠りした父さんを借りたって事だけさ」
「ベトナム語も分からない父さんでもいいんだ」
「生まれた時だって言葉を持っていないだろ。人の大きな頭にはアフリカで誕生した最初のホモサピエンスからの情報がいっぱい詰まってる。私もおまえもベトナムの青年も父さんも情報を共有してるってことさ。それにね、記憶は言葉じゃないんだよ。目と臭いだ。初めて見た景色なんだけどいつか見たような懐かしさを感じる事ってないかい。それはいつかの記憶さ」
「母さんのその力って俺にはないの」
「おまえも父さんも昨日の宿の仲居さんもみんな持ってるよ。みんな眠ったままなのさ」
「どうすれば使えるようになるの」
「分からない。どうして歩けるのって問われているようなもんだからね。でもお前の娘の、ああ、おまえは娘が出来るんだけど、その娘の娘が私のようになる事だけ教えておこう。あっ、またどこかに行くのかい。そうかい、うんうん、たのしく自分らしくね。そろそろ父さんが起きるよ」
あーっと伸びをして、いつもの調子で目覚めた父親が数年ぶりに運転をしてみたいと言い出し、のどかな一本道を制限速度以下で走ってその日の宿に着いた。
最初で最後だった親子三人旅は実さんの記憶に深く刻まれた。
娘は三人授かった。孫は五人。
二女の娘が誕生して抱いた時、能登の足湯で見た母の目にそっくりだと思った。
恋をすると頭は愛する人の事でいっぱいになる。失恋して自暴自棄になることもある。感情の起伏で溝が刻まれ記憶される。話を聞いたり本を読んで学習したりボールを投げたり蹴ったりしても溝は増える。
だけど生きている間に刻まれる溝はほんのわずかだ。
天変地異や飢餓や闘争など命の危機に瀕した20万年分の深い溝を持って生まれる。母親の話からそう理解していた。75歳の今まで。
「じじもさ、夢で空を飛ぶ夢を見る時あるでしょ」
「あるよ。夢はなんでもありだからね」
「あれは経験してるんだよね」
「鳥だったってこと」
「鳥のように自由に飛べたんだよ。馬に乗るように飼いならした大きな鳥を飼っていた時の記憶だよ。じじは死ぬ夢だって見る時ってあるでしょ」
「うん、なんかさ、沈んでいく感じで周りから暗くなっていく。まさか死んだ事があるって事、そりゃないだろ」
「それはね突然死んだ人の記憶だよ。噴石が直撃したり通り魔的に殺されたり」
「どうして死んだ人の記憶がじじに」
「みんな持ってる。隣の笹島さんもクリーニング屋のおばさんもネパールカレーのチャメさんもエジプトやチリで暮らしている人だって生まれて来る前の記憶は同じ。お母さんのおなかで死を理解してから出てくるんだよ。宿る瞬間って息絶える仲間の精子だらけの中を最後まで泳ぎ切るでしょ、生き抜いてたどり着いて最初に分裂した一部が脳の溝になるんだ。数えきれない死のパターンの記憶と共に胎内で40週過ごす。だから生まれた瞬間に泣くんだよ」
母親で免疫がある実さんは、視える能力を受け継いだ孫の環美のよき話し相手だ。
「なるほど。でもおまえのママは生まれた時に泣かなかった」
「心配性のママらしい。生れるのはイヤだーって言えなかったんだね。泣いた瞬間胎内の記憶が真っ新になって不安が消えるんだけどね」
「覚えてるのか環美は。お腹の中の事」
「まさか」
「じゃあなんで知ってるんだ」
「教えてもらった、夢の中で。たぶんあの人はひーばーちゃんだと思う。アルバムで見た顔だったし」
「ちょっと待って、この人だった」
スマホを探って能登旅行の写真を見せた。
「もっとおばあちゃんだったけど、似てる。でね、私に教えてくれたのは、生まれる時と死ぬ時に決まってることがあるんだって。まずは絶対お母さんから生まれる。でしょ、死ぬ時は気持ちがいいんだって」
「苦しまないの」
「苦しみながら死んだ人はいないんだって。ひーばーちゃんは答えが出るから満足して消えるって言ってた。本を読み終わったり難しい数式を解いたり、やりきった達成感の溝が刻まれて消滅するんだって。だけど突発の死って溝が刻まれる余裕がないんだって。パニックになって現実から逃避して夢に紛れ込むんだってさ」
環美の言っている事は本当だ。前は女子中学生だった私が保証する。
トレーラーの下でぺしゃんこになった可哀そうな私が、迫りくる死を理解しながらも納得できず、熟睡していた実さんと同化した。
もし実さんが眠って居なかったらお借りする事は出来なかった。
病気や老衰は寿命というくくりで肉体の一部である脳の意識も記憶も緩やかに消えてしまうけど、災害や事故など突発で生体反応が変化した場合、死を認識する意識と身体に命令を出している機能にズレが生じる。
私の場合は死の瞬間にずっと理解できなかった母親からのDVの理由を知った。
謎が解けて完結すれば、いい人生だったとフッと無くなる。それがラストシーンの典型なのに、私のようにトレーラーの下でフッと無くなれなかった意識は、それほど遠くない将来に最期の溝を刻む人間らしい安らかな消滅を迎えられる誰かと同化する。
能登の足湯で居眠りをしていた父親を借りたベトナムの青年はすぐに出て行った。
余命三カ月だと言われた父との想い出の北陸旅行だったけど、あれから四年も父は生きた。ベトナムの青年があのまま父と同化しなかった理由をあれから半世紀も過ぎた今、孫の輪美が答えを教えてくれた。
「環美は自分の未来も分かっているの」
「もちろん。薄ぼんやりとね。じじの事も知ってるよ」
「言わんでええ。知りたくない」
笑顔を向けられたけど、笑顔で返せなかった。透視される事も母親で慣れて過ごしてきたけど75歳にとって未来は決して長いとは思えない。
「じゃあ、正直に教えて欲しんだけど、俺の中に誰かいる」
環美さんの大きな瞳が実さん越しに私を射すくめていた。ひーばーちゃんと同じ目だ。
その目を離さずに首を横に三回振った。
「そっか、良かった」
ホッとする実さんに心が痛んだ。
視える力と一緒にやさしさもひーばーちゃんから受け継いだようだ。
自分の中にフッと無くなれなかった誰かが居れば死期が近い事を知っている実さんに
中学二年の女子の私がいる事を正直に伝えなかった。
なぜならそれが実さんの最大の謎だったからだ。
今度は私に謎が生まれた。
間もなく最期を迎える実さんがもし交通事故に遭遇したら私ってどうなってしまうの。
それが現実になった。
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