パフと三日間の夢

@jjjumarujjj

第1話

 子供を攫った。

 

 俺の息子にそっくりな奴。

 

 通帳から金を下ろして今は自分の死に場所を探してる。有り金はたったの十万だ。仕事を辞めて何日か経つ。頭がすっきりして、気分が良い。働いている時、この世はどうしてこうもぺこぺこと頭を下げて自分を偽らなくちゃ上手く生きて行けないのか俺には良くわからなかった。息子は離婚した嫁に連れていかれて、俺には何一つも残っちゃいなかった。攫った理由はこんなとこか。


 俊平は運転している俺の隣でリコーダーを吹いた。俺が何の曲だと聞くと『パフ』だと答えた。俺はその曲を知らなかったがその曲を直ぐに気に入った。俊平は曲を吹き終えると言った。


「おじさん、なんて名前?これから何処へ行くの?」

 

「名前?あー、うん、そうだな。パフだ。俺はパフって呼べ」

 

 俊平は少し怯えた様だった。子供には俺の声は俺が思っているより力強く、強烈に聞こえるのだろう。


「パフには見えないな。それにパフは海にいるんだよ」

 

「なんだ?随分とパフに詳しいじゃないか。それじゃあ海に行こう。海行きたいだろ?」

 

「パフは学校で歌うからね。海行きたい。でも、お母さん心配するから、帰らないと」

 

「今日からもう忘れるんだ。これからは俺と暮らしていこう」

 

「嫌だよ。なんでおじさんとなんか」

 

「さっきアイスクリーム食べさせてやっただろ?それに俺のことはパフって呼べよ」

 

「アイス食べたら送ってくれるって言ったじゃん」

 

「いいから、俺の言うことを聞け。世の中は自分の思い通りになると思うなよ」

 

「じゃあ、もう少しだけ一緒にいてあげる」

 

「よし。いい子だ。俊平」

 

 俺は当ても無く人目のつかない道を走っていたが、海がある方へと進路を変えた。俊平を攫ってから、二時間ぐらいが経って辺りは夕暮れていた。

 

「パフ?」

 

 俺のことを初めてそう呼ぶ俊平を我が子の様に可愛らしく思った。

 

「どうした?俊平」

 

「何で僕を連れてくの?」

 

「そりゃ、俺は一人ぼっちだからさ」

 

「家族いないの?」

 

「ああ、いない」

 

「なんで?」

 

「そりゃあ、理由があるんだ」

 

「かわいそう」

 

「いや、俺にはお前がいるから大丈夫だ」

 

「僕、家族じゃないよ?」

 

「いいんだ。それより、夕飯何が食べたい?」

 

「うーん。ハンバーグ」

 

「そうか、それはいい考えだ」

 

 海に向かうつもりだったが、俺は国道に戻ってファミレスを探すことにした。自分でも思いつかないハンバーグと言う提案に安らぎすら覚えた。俺の息子でもこんなふうに言うだろうか。ラジオからは六十年年代のジャズが流れていた。車はトヨタのピクシス。備え付けのクーラーが壊れていたので、窓からの風が生暖かくて、何とも言えない気分だった。俺は草臥れたシャツのポケットからエコーと言う銘柄の煙草を取り出して、火を付けた。

 

「パフ。煙いよ」

 

「煙草は嫌いか?」

 

「うん。初めて見る」

 

「なんだ、お前の父ちゃんは煙草吸わないのか?」

 

「うん。吸わないよ」

 

「そっちも窓を開けろよ。風が気持ちいいぞ」

 

「どうやって開けるの?」

 

「その手元にあるのをぐるぐる回すんだ」

 

 俊平は俺が言った通りに手動式の取手を回して窓を開けた。窓から一気に風が入り込み煙は拡散して消えた。

 

「お母さん心配してるだろうなぁ」

 

「なんだ。そんなことか。それよりハンバーグ食べたいだろ。ハンバーグ」

 

「うん。ハンバーグは食べたいけど、お母さんが作ったやつがいい」

 

「我が儘言うなよ。俺を一人にするつもりか?」

 

「パフだって我が儘だよ」

 

「いいか俊平。お前と違って俺は大人だ。だからやりたいようにやるのさ。わかったか?」

 

「パフが一人ぼっちなのはわかったけど、僕は帰りたいよ」

 

「ハンバーグを食べたら気持ちも変わるさ。ご飯を食べたら送り返してやるよ」

 

「本当かなぁ、、」

 

 そうやって話しているうちにラジオの曲が変わった。俺は遠くを見ながらファミレスがないか探しながら運転したが一向に見当たらなかった。俊平はシートベルトを引き伸ばして体を無闇に動かしていて落ち着きがなかった。ただ俺にはそんな姿も我が子の様に可愛らしく見えた。夕闇の中を点々と光る車のライト。過ぎて行く田舎の風景。俺は何もかも捨てて自分の殻を破った様な気分だった。

 

 それから一時間くらいして俺はファミレスを見つけた。俊平は腹の空き過ぎのせいか助手席で眠ってしまっていた。駐車場にスマートに車を停めてから車を降りて助手席のドアを空けて俊平を揺すった。

 

「起きろ俊平」

 

「パフ?ここ何処?」

 

「ハンバーグ屋だ」

 

 俊平の手を引いて俺はファミレスに入った。中に入ると若いバイトの子が奥の席へ案内してくれた。夕飯時を過ぎていたから店内の客は少なかった。煙草が吸いたかったが全席が当然の様に禁煙だった。

 

「さぁ、選べ」

 

 メニューを俊平に渡して俺はそう言った。俊平はメニューを眺めてハンバーグの鉄板焼きを指差した。

 

「パフ。僕はこれがいい」

 

「おっけー。じゃあそれで決まりだ。ライスも食べるか?」

 

「うん。食べる」

 

 俺はボタンを押して店員が来るのを待った。そうして店員がやって来ると俺は二人分のメニューを注文した。

 

「あのお姉ちゃん知ってる」

 

 店員が席から立ち去ると俊平がぼそっとそう言った。

 

「なんだそれ?どう言う事だ」

 

「僕の従姉妹だよ」

 

「おい。それは本当か!黙ってろよ。俊平。言ったら飯抜きだ」

 

「なんで黙ってないといけないの?」

 

「俺がお前を攫ったのがバレるだろ」

 

「パフ悪い人なの?」

 

 俊平は言葉を濁す様にそう言った。俺は焦っていた。こんな急に俊平が他人の子だとバレる事態になるとは思っていなかったのだ。じわっと嫌な汗がシャツに滲み煙草が吸いたくなった。兎に角俊平を説得するしかなかった。

 

「いいか、俊平。お前が今ここで騒いだら、海にも行けないし、俺は捕まっちまうんだ。わかるだろ?黙っていい子でハンバーグ食おう。な?」

 

「うん。わかったよ。黙ってる」

 

 子供のくせに大人の様な顔をしてそう言った。俺はとりあえず落ち着いて深く呼吸をした。胸ポケットの煙草を取り出して残りの数を確認した。

 

 数分経つと別の男の店員がハンバーグの鉄板焼きを二つ持って来た。店員の男は注文の品が運ばれたことを確認してから伝票を置いていった。俺は一安心して俊平にハンバーグを勧めた。俊平は言葉もなくがっつく様にハンバーグを食べ始めた。

 

「おい。そんなに急いで食べると、火傷するぞ」

 

「うん。大丈夫。僕こう言うとこ来たことあるから」

 

「そうかよ。まぁお前が嬉しそうでよかったよ」

 

 俺は空腹で気が変になりそうだった。目の前のハンバーグは矢鱈と大きく感じられて自分が小人になった様な錯覚に陥った。俺はナイフとホークでハンバーグを一口サイズに切るとその巨大な肉の塊を口の中へと放り込んだ。

 

 店内は明るかったが、何処か空気が重く、どよんとしていた。これから強盗でも入ってきて場が騒然とする様な、そんな露骨さを感じた。いや、この平和なファミレスの中で、犯罪者はきっと俺だけだろう?子供を連れて歩いて何が悪い。俺はちゃんと親元に返すつもりだ。殺しはしない。その間、俊平には普段味わえない風景を見せてやるだけだ。俺みたいに捻くれた大人にならないように。

 

 鉄板と皿を見るともうほとんど残っていなかった。俺は俊平の面影に我が子を重ねて見た。

 

「おい。デザートも食べるか?」

 

「いいの?」

 

「ちゃんと黙ってるんだぞ」

 

「うん。黙ってる」

 

「ほら、選びな!」

 

 デザートメニューを手渡すと俊平は真剣になってデザートを選んだ。改めて俊平をまじまじと見ると尚更、自分の息子に良く似ていた。

 

 俺がハンバーグを食べ終えると俊平はブルベリーの入ったパフェを指差して、「これにした!」と言った。余りにもその声がでかかったから叱ろうと思ったが、気分を損ねそうだったからやめた。

 

「おい、デザートを頼んでおくから先にトイレに行って来い」

 

「わかった。行ってくる」

 

 俊平は素直にそう言うとトイレに向かった。従姉妹の店員が来たら今度こそバレると思ったから俺は俊平をトイレに行かしたがボタンを押して来たのはさっき来た男の店員だった。

 

「このブルーベリーのパフェを一つ追加で」

 

「はい。かしこまりました」

 

 店員はさっと前掛けからボールペンを取り出して伝票に書き加えると空いた鉄板と皿を持って立ち去った。少し離れた席では店員の後に連れて食事を終えた老夫婦が立ち上がりレジまで歩いて行った。レジを打つ従姉妹の店員を俺は遠目に様子を伺った。言われてみればその女は俊平に少し似ていた。歳の頃は十七八くらいか。まだ俊平に気付いた様子はない。俺は早くファミレスを出たかったが、ぴりぴりしても仕方ないと思い。別のことを考えることにした。

 

 俊平がトイレから戻る前に先にブルーベリーのパフェが席に運ばれた。持ってきたのは従姉妹の店員の方だった。俺は睨む様に店員を見たが、愛想良く店員は俺に微笑んでから立ち去った。

 

「お待たせ」

 

 俊平は席に戻るとそう言った。目の前のパフェを当然の様に食べ始めて嬉しそうにした。俺は今になって自分が何をしているのか、訳がわからなくなって癇癪を起こしそうだったが、気を沈めた。何も知らずにパフェに食い付く俊平。良くも悪くもこいつに俺は救われている気がした。

 

「パフも食べる?」

 

「俺はいい。甘いものが嫌いなんだ」

 

「なんで?美味しいのに」

 

「大人になると甘いものは苦手になるんだ」

 

「ふーん」

 

 俺は俊平がパフェを食べ終わるのを待った。隣の席に大学生だと見受ける二人組が案内されて居心地が悪くなった。俊平は空になったパフェの器をぺろっと舐めて名残惜しそうにした。

 

「よし、出るか。いいか俊平。レジでは黙ってるんだぞ!」

 

「わかった」

 

 俺は伝票を持ってレジに向かった。平静を装い俊平と手を繋いだ。

 

「ありがとうございます。お会計こちらになります」

 

 レジを打ったのは従姉妹の店員だった。表示された金額を払い俺は外に出ようとした。その時だった。

 

「あれ?もしかして俊平君?俊平くんだよね?」

 

 従姉妹の店員が俊平に気付いたのだ。俊平は唇噛み締めて少し下を向き、口をへの字にして黙っている。俺は咄嗟に口を開いた。

 

「人違いだ。俺の息子だよ」

 

「え?あ、すみません。すごく良く似てたので、失礼しました」

 

 従姉妹の店員はそう言うと頭を下げた。少し無理がある様だったが俺は強引に俊平の手を引きファミレスの外へ出た。

 

 車に乗り込み俺はでかい溜め息をついた。そして煙草に火をつけ肺いっぱいに吸い込んでからふーっと吐いた。

 

「パフ。煙いよ」

 

「五月蝿い。パフェまで食べさせてやっただろ?静かにしてろ」

 

 俺はエンジンを回してから考えた。あの従姉妹の店員はきっと気付いただろう、と。遅かれ早かれ親に連絡して俊平の安否を確認するだろう。頭の良さそうな顔付きだったから余計にそう思わせた。証言によっては二三日で捕まり兼ねない。俺はそのまま海まで高速に乗ることにした。夜の闇に紛れて県を跨いでしまえば警察も簡単には追っては来れないだろうと思った。

 

 気付くと、叱りつけたからか、それとも腹一杯になったからか、助手席で俊平は眠っていた。俺は路肩に車を停めて俊平を後ろの席に寝かせると運転に戻って煙草を咥えた。子供を攫ったと言う実感が湧いてきて、何とも言えない気分だったが、煙草が旨かった。それが一日目の夜だった。

 

 

 朝には日本海に着いていた。

 

 眩ゆい光の中、海沿いの公園に車を停めて海を眺めてから俺はベンチに横になった。夜通し運転していたから酷く疲れていた。目を閉じると眠気は直ぐにやって来た。波の音に哀愁を感じてノスタルジックな気分になった。何処にも行き場の無い気持ちと相まって目に涙が溜まった。それから何時間か俺はベンチで眠った。

 

「パフ。起きてよ。海だよ。パフは本当にパフなんだね。海に住んでるんだね。ねぇ、起きて」

 

 そう言って俊平が俺の体を揺すった。クラッシックの名盤を一枚丸々静かに鑑賞した後の様な深い眠りだった。俺は俊平が目の前にいることで現実に戻され、同時に物凄い違和感を感じながら起きた。

 

「おお、起きたか俊平?元気そうだな」

 

「うん。パフ。これは夢の中なの?ここ何処?なんで海があるの?」

 

「ふっ。俺は海に住んでるんだ」

 

 俺は笑って俊平をおちょくった。夢の中だと思ってくれた方が俺にとっては好都合なのだ。

 

「腹減っただろ?コンビニにサンドウィッチでも買いに行こう」

 

「うん。行く」

 

 車に乗って海沿いを走ると直ぐにコンビニがあった。俺は車を停めて俊平を待たせサンドウィッチ二つと麦茶と缶コーヒーとそれと煙草を一箱買って戻った。

 

 サンドウィッチを開封して俊平に渡すとあっという間に食べたから驚いた。俺はとりあえずホットコーヒーと煙草で朝の一服をきめた。車の時計を見るとまだ八時半過ぎだった。

 

「パフ。煙いよ。窓開けていい?」

 

「ああ、いつでも勝手に開けろ。煙草はやめられないからな。それより、腹一杯になったか?」

 

「うん。パフ帰りたい」

 

「帰りたいって何処に?お前はずっと俺といたじゃないか。変なこと言い出すなよ」

 

「家に帰りたい」

 

 俊平の目は涙ぐんでいた。このまま大声で泣き出すかと思ったが意外とそうでもなかった。何やらこの状態を俊平は子供ながらに楽しんでいる様な感じがした。いや、心理はわからなかったけど、俺は俊平を攫ったことに意味を見出したかったのかもしれない。

 

「今日は釣りでもしよう。人生は長いんだ俊平。楽しもうぜ」

 

 俺はコーヒーを片手に俊平にそう言った。俊平は少し考えてから何とも無しに頷いた。自分が親元に返して貰えないことをなんとなく悟ったのだろう。

 

「おい。そんなに不貞腐れるなよ。釣りは楽しいぞきっと。俺は人生で初めて釣りをするんだ。俊平も初めてだろ?一緒に楽しもうじゃねぇか」

 

「わかったけど、、いつになったら家に帰れるの?」

 

「ここは俊平。お前の夢の中だ。だから楽しいこといっぱいして夢が覚めたら家に帰れるんだ。わかったか?それまでは心配することは何もない」

 

「ああ、そう言うことか」

 

 俊平は俺の言ったことを納得したようだった。俊平の聞き分けがいいと俺は自分が恰も良い親になったような優越感に浸れた。俺はコンビニの駐車場から見える防波堤の向こうの海をぼーっと眺めて、もう一本煙草を吸った。俺が外を眺めてるうちに俊平はランドセルからリコーダーを取り出して吹こうとした。

 

「おい。待て待て待て。コンビニの駐車場では吹くな。人に迷惑だろ」

 

「えぇ。なんでさ。じゃあ歌ならいい?」

 

「ああ、歌ならいいぞ」

 

 流石にリコーダーを持った少年を朝っぱらから連れているのを誰かに見られたら直ぐにでも刑務所行きだと思った。焦った俺を気にも止めず俊平は何やら音楽の教科書を広げて馬鹿みたいにでかい声で歌い始めた。リコーダーでは歌詞はわからなかったが、歌詞を聞くと海辺にはぴったりの曲だと俺は思った。情景が今に重なって格別にいい歌に聞こえた。それに俊平の歌は透き通っていて上手かった。俺はその歌を聞きながらエンジンを回して車を出発させた。海沿いに走っていたらきっと釣具屋があるだろうと思った。

 

 数十分走っても案外釣具屋は見当たらなかったので仕方なく漁港に俺は車を停めた。俊平を車に待たせて、堤防で釣りをしている老人に俺は声をかけた。

 

「爺さんこの辺で釣具を買うには何処へ行ったらいい?」

 

「この辺だとなぁ。駅前まで行って商店街の釣具屋に行くのが一番早い。昔は近くにも釣具屋があったんだが潰れちまってな」

 

「それはどうも。今日は釣れるかい?」

 

「鯵がちょこちょこ釣れるよ」

 

「へーそりゃ大したもんだね。爺さんありがとよ!」

 

 俺は軽く手をあげて車に戻った。俊平は車で退屈そうにしていた。そろそろきっとまた駄々を捏ねるだろう。

 

「パフ釣りしないの?」

 

「俺は釣り竿を持ってないからこれから買いに行くのさ」

 

「はやく海を近くで見たいよ」

 

「もうちょっとの辛抱さ。それより俊平。お腹空かないか?寿司でも食うか」

 

「うん。お寿司食べたい」

 

「よし、じゃあ行こう」

 

 俺は車を走らせてラジオ鳴らした。時計を見るともう昼時だった。車から見渡す景色は快晴で太陽が真上にぎらぎらと光り空全体は青い絵の具を一面に溢したように真っ青だった。

 

「パフ。リコーダー吹いていい?」

 

「ああ、車で走ってる時なら良いぞ」

 

 俊平は嬉しそうな顔をしてランドセルからリコーダーを取り出した。『パフ』は楽譜を見ないでもリコーダーで吹けるようだった。俺はラジオのボリュームを絞って俊平の演奏を聞きながら上機嫌で運転した。

 

 道路標識に従って駅前に出て商店街へ向かうと爺さんの言った通り釣具屋があった。俺は店の前に寄せて車を停めて、また俊平を車に待たせて釣具屋に入った。

 

 店内をなんとなく見渡したがどれも専門的なものばかりで俺にはどれをどう使うのかさっぱりだった。仕方なく俺は店員に聞いてみることにした。

 

「あの、釣りを始めたいんで必要最低限の道具を教えてもらえませんか?」

 

 店員は黒縁の眼鏡をかけた三十五歳くらいの男だった。レジの奥から朗らかな顔つきで「そうですねー。初心者の方ですかー」と言いながら釣り竿の並べられたコーナーの方に出てきた。俺が相槌を打つと店員の男は続けて話した。

 

「初心者の方だとまずな釣り竿とリールと仕掛けが最低限必要ですね。それ以外にハサミとプライヤー。水汲みバケツにクーラーボックスと。こんなもんでしょうか。あと肝心なのは餌ですね」

 

「ほー。全部合わせて一五くらいでなんとかなりませんか?」

 

 俺は感心して聞いてはいたが自分で選ぶのは面倒だったのでそう言った。

 

「ああ、じゃあこっちで簡単に見繕いますね」

 

 そう言うと店員は安い釣り竿とリールと餌の仕掛けを持つとそれをレジに一旦置いてから店内を彷徨いてその他の道具をより集めて来た。そうしてレジの前に来ると電卓で商品の金額を一つずつ計算していった。

 

「本日、餌も買って行きますか?」

 

「あーお願いします」

 

「そうすると、合計で一万六千と四百三二円ですね。あーちょっと超えちゃいましたけど大丈夫ですか?」

 

「ああ、別にいいです」

 

 俺はジーパンのポケットから財布を取り出してその金額を払った。店員の男は何故だか俺が釣りを始めるのが自分のことのように嬉しそうだった。俺はこう言う人間がいるからこそ社会は円滑に回っているんだと思った。

 

「ありがとうございました」

 

 釣具屋の店員の言葉を後に俺は釣り道具一式を持って俊平の待つ車に戻った。

 

「パフすごいね。釣り竿買ったの?」

 

「おう、これであとは釣るだけだ」

 

 後ろの席に釣り道具一式を置くと俊平はそれを見て興奮して助手席に立ってはしゃいだ。子供が釣り道具にこんなに嬉しそうに反応するとは思わなかったが、それを見て俺は俄然やる気が出た。それから寿司屋を探して車を走らせ二十分程するとホームセンターやスーパーがある一角に回転寿司を発見した。

 

「俊平!回転寿司あったぞ!」

 

「僕もうお腹ぺこぺこ」

 

「そうか、じゃあ食いたいだけ食べろ!」

 

 車を停めて二人で回転寿司に入った。店員にカウンター席を勧められたのでそのままカウンターに座った。

 

「パフ。僕はタコが一番好き」

 

「おお、タコか。俺はマグロだ」

 

 紙のお絞りで手を拭いて二人でお目当ての寿司が流れて来るのを待った。しかし平日の昼間に子供と寿司。多少の違和感はあるがまだまだ俺は簡単には捕まらなそうだった。俺が凶悪犯ならとっくに身代金を要求するか、殺して山にでも埋めている。親は今頃、血眼になって探してるだろう。いや、もうノイローゼになってるかもしれない。もしかしたらあの従姉妹が親に連絡を取ったから、もう捜索は県外にまで及んでる頃だろう。外食も気をつけないといけないな、と俺は思った。そうこうしているうちにマグロが二貫回って来て俊平が取って欲しがった。俺は二皿とも取って一皿は俊平に渡した。

 

「お寿司最高。パフ。この夢いつ覚めるの?」

 

「いつだろうな。俺がいなくなる頃さ」

 

 俺は手元で、お茶を作りながらそう答えた。俊平はマグロを頬張り数回噛んで飲み込むと言った。

 

「パフがいなくなるなんて嫌だ」

 

「俺は俊平の夢を叶える魔法使いだから、用事が終わったら消えちまうのさ」

 

「本当に言ってるの?信じ難いなぁ」

 

「俊平は何かやりたいことあるか?」

 

「動物園行きたい」

 

「水族館じゃダメか?」

 

「うーん。今はタコのことしか考えられない」

 

「そうかよ」

 

 俊平はタコを待ってるようだった。待てど、なかなかタコは流れてこなかった。仕方なく俺は機械を操作して、タコを二つ注文した。俊平がタコを待つ間、俺は何品か取って食べた。寿司はいつ食っても美味いもんだと思った。

 

「パフ家族いないって言ったよね」

 

「ああ、いない」

 

「本当はいるんでしょ?」

 

「なんでわかる?」

 

「なんとなくだけど、いる気がする」

 

「そうか。それは勘か?大した物だな」

 

 炙りサーモンを食べながら俺はそう言った。俺は自分に子供が出来てから、何となく小さい子供には超能力みたいなのがあると思っていて、それを信じていた。だから俊平がなんとなく俺に家族がいると思うのも頷けた。

 

 俊平の元に頼んだタコが来て嬉しそうに食べていた。俺はそのうちに海釣りの仕方について何となく携帯で調べてみた。二三通りの記事を読むと大分釣りに詳しくなった気がした。お昼時を過ぎていたから店内は空いていたがさっきから奥に座った主婦の二人組みの視線を感じる。俺が子供連れなのに違和感を感じたのか?俺は少し警戒した。

 

「パフ何見てるの?食べないの?」

 

「ああ、釣りの仕方を調べてたんだ。俊平少し静かにしてろ」

 

「なんで?」

 

「いいから言うこと聞け」

 

「わかった」

 

 俊平はいつでも聞き分けが良かった。本当の親の躾がいいのだろう。奥の席を気にして様子を伺っていたが、やっぱり主婦の二人組みに見られている。長居すると本当にやばいかもしれない。俺は焦って寿司をいつくかまとめて取った。

 

 それから二人で満腹まで寿司を食べて店を出た。視線は感じたが通報までには至らなかったようだ。俺は車で食後の一服を済ませてから、俊平の手を引いてホームセンターに向かった。テントが欲しかったのだ。

 

 数分してアウトドア用品のコーナーに俺は二人用のテントを発見した。おお、これだこれだ。と言う感じで俺はその七千円のテントとシュラフに折りたたみの椅子。簡易コンロにLEDランタン。それとやかんとフライパン。コップにコーヒードリップセットと飯盒を買った。これからしばらくはテントで生活しようと思っていたから米も買い。調理用にナイフとプラスチックのまな板と調理用油も買って、念のためにタオルと歯ブラシも買った。死ぬ前の気分転換と言うか。何も上手く考えられなかった。自分の生き方に向き合えない俺がいた。俊平は俺の隣でキャンプ用品をそろえるのをずっと見ていたが、何とも無関心そうだった。

 

「パフ?学校行かなくていいのって楽だね」

 

「おお、そうか。楽でいいか?」

 

「うん」

 

 キャンプ用品まで見たら流石に店員も疑わないだろうと俺は思った。季節は初夏だったから、少し早い夏休みとでも思われるだろう。いや、そもそもレジのおばちゃんがそんなこと考えもしないかもしれないと俺は財布を開きながら考えた。社会との接点が余計に俺を不安にした。

 

 車に戻ってから俺はまた煙草に火を付けて何か買い忘れがないか思いを巡らせた。それでも場所を覚えたから漏れがあればまた買いに来ればいいと思った。

 

「よし。俊平。釣りに行こう」

 

「何釣るの?」

 

「何が釣れるかは行ってからのお楽しみさ」

 

「ふーん」

 

 俊平は俺といることに大分慣れたようだった。俺はなんだかそれが心地よかったから、出来ればその心地よさがずっと続けばいいと思った。ちりちりと煙草が指先で消えて行った。俺はガソリンスタンドに寄ってから朝爺さんがいた漁港へ戻った。

 

 漁港に着くと爺さんはいなかったが相変わらずちらほらと釣り人がいた。俺はネットで得た知識をそのままに買ったばかりの釣り道具を広げた。俊平は海に落ちそうなくらいぎりぎりのところで海の中を見入っていた。

 

「パフ。魚いるよ。ほら、みて!」

 

「おお、いるなぁ。落ちるなよ。俊平」

 

 俺はその魚達を釣り上げたいと意気込み。釣り竿を組み立てていった。釣り竿の準備が出来ると俺は餌を針先につけて、いざ、魚を釣ろうと海へ竿を降った。小魚の群れは見えているのに釣り竿は一向に動かない。暫くして竿を上げると餌はまだ付いていた。釣りは初めてだったがやってみると思った程は難しくなかった。 

 

「パフ釣れないね」

 

「ちょっと待てよ。これからだ!」

 

 俺は釣り竿を引き上げて浮きの高さを変えた。きっと魚がいる位置がもう少し深いと思ったのだ。俊平は少し飽きたのかクーラーボックスの上に座って水平線の方をぼーっと見てた。

 

 三十分か四十分経っても魚は一向に釣れなかった。自分の目では魚が見えているのに釣れないのは何とも焦ったいものだった。俺は一旦竿を置いて、車に煙草を取りに行った。


 煙草を吸って、俺はコーヒーが飲みたくなった。しかしコーヒーをドリップするにはコーヒー豆もきれいな飲水もなかった。漁港は穏やかで釣りをしなくてもただそこにいてぼーっとしているだけでも気持ちが良かったが、やっぱりコーヒーがないと午後三時過ぎの気怠さを俺は超えられそうになかった。

 

「俊平。俺はちょっとコーヒーを買ってくるけどここで待ってられるか?」

 

「わかった。はやく帰って来てね」

 

「ああ、すぐ戻る」

 

 車に乗り込んでエンジンを回す。自販機が見当たらなかったから結局コンビニまで運転することになった。着いてから中に入ってコーヒーとりんごジュースを買った。序でにコーヒー豆も粉のやつを買っておいた。俊平がそろそろおやつを欲しがると思ったからポテチも買った。

 

 釣り場に戻ると俊平は変わらずにクーラーボックスの上に座っていた。俺はりんごジュースを渡して話しかけた。

 

「待たせたな。なんか変わったことあったか?」

 

「おかえり。朝いた爺ちゃんが戻って来たよ」

 

 俊平が言う通り隣には釣具屋を教えてくれた爺さんがいた。既に竿を出していて何か狙っているようだった。これで釣りの仕方も爺さんに聞けるかもしれないと思った。一先ずプルタブを引いて俺はコーヒーを一口飲んだ。そしてポテチを開けて二三口食べると俊平に渡した。俊平はポテチを受け取るとりんごジュースを一旦下に置いてからポテチを食べ始めた。朝も夕方も釣りに来るなんて相当な釣り好きの爺さんだ思った。俺は水汲みバケツで海水を汲んで、ポテチで汚れた手を洗ってからまた煙草吸った。この一本を吸い終わったら釣りを再開しようと思って爺さんに何となく話しかけてみた。

 

「爺さん今朝はどうも!」

 

「おお、あんたか。釣り具は買えたか?」

 

「お陰さまで」

 

「良いってことよ。それより釣れたかい?」

 

「いいや、釣れない。仕掛けが悪いのか、全くダメだ」

 

「ちょっと針先見せてみろ」

 

 爺さんがそう言うので俺は竿を持って仕掛けを見せた。すると爺さんは笑って言った。

 

「これじゃあ針がでかすぎる。三十センチの魚でも釣る気かい?俺の仕掛けをやろう」

 

 爺さんは慣れた手付きで仕掛けの糸を替えてくれた。俺はその様子を感心して見ていた。付け替えた針先を俺に渡して爺さんは言った。

 

「これで釣れるだろう。餌をつけて釣ってみな!」

 

 俺は言われるままに餌をつけ、竿を振って海へ仕掛けを投げた。爺さんは手に持っていた撒き餌を、仕掛けを落とした辺りに撒いた。すると小魚がわっと寄ってきて竿が急に引いた。俺はびっくりして竿を力一杯引き上げてしまった。仕掛けは頭上を舞って地上に叩きつけられた。魚が付いているのが見えた。

 

「バカ野郎。そんなに思いっきり引き上げるやつがあるか、力を加減して引くんだ」

 

 俺は興奮して釣れた魚を手に取ろうとしたが、魚が暴れてなかなか捕まえられなかった。その様子を見て爺さんがぱっと魚を手に取って針から外した。

 

「こりゃ河豚だ。食えんよ」

 

 爺さんは咄嗟に水汲みバケツに河豚を逃した。くるっと河豚がバケツの中で泳いだ。俊平がその様子を嬉しそうに見た。素人の俺が魚を釣り上げた。俺はそれだけで嬉しかったが、俊平が嬉しそうにしているのを見るのが何よりも嬉しかった。

 

「その調子で釣ってみろ。今度は食いついてから少し待つといい」

 

 爺さんはそう言って自分の釣り場へ戻っていった。俺は針先に餌をつけて、もう一度海へ投げ込んだ。そして爺さんに言われた通りの釣り方を試した。釣り竿が揺れて糸が引っ張られた。一呼吸待って竿を上げた。すると針先には二匹魚がついていた。

 

「おーそれは鯵だ」

 

 と隣の釣り場から爺さん。

 

「すげー」

 

 と俊平は目を輝かせている。

 

 俺は自分の知っている魚を始めて釣ったことに感動した。それから一時間くらい釣りまくった。そうすると魚の気配はぴたりと止んで釣れなくなった。釣れたのはどれも同じ魚でたまに河豚がかかった。水汲みバケツがいっぱいになって鯵は酸欠で全部死んでしまった。

 

「みんな死んじゃったね」

 

「仕方ないだろ。今夜食べるんだからどっちにしても今日までの命さ」

 

「食べるの?」

 

「ああ、そうだ。腹減ってきたか?」

 

「うん」

 

 その日は自分の釣りに夢中だったから爺さんが何を釣っているのか気にしなかったが俺の釣りが終わるまでずっと爺さんは釣り場にいた。もう直ぐ日が沈むので俺は手早く釣り道具を片付けて俊平と一緒に車に乗り夕日の見える場所まで海沿いを走った。

 

 今朝いた公園に辿り着いて車を停め俺は俊平を連れて砂浜まで歩いた。

 

「パフ!海だよ!」

 

 砂浜を暫く歩くと巨大な海が目の前に迫った。俊平は俺の手を振り解いて靴を脱ぎ捨て海に走って行った。白波が当然のように押し寄せ、強い風が吹いていた。俺は水平線の先を見て海のでかさを感じた。

 

「おい。こらこら、あんまり深いとこまで行くなよ!」

 

「大丈夫足だけ!」

 

 手に届きそうなくらい大きな太陽が段々と海に沈んでいく。俺は胸ポケの煙草を取り出して口に咥えて火をつけた。また今日が終わっていく。俊平を攫ってから二日目が過ぎてく。じんわりと心に嫌な歪みがやってきて、形容のし難い不安と、拡声器で何か叫んでやりたいような怒りの感情とが俺の中で犇き合っている。夕焼け色に染まった空に嫁の顔が浮かんで消えた。まだ俺の心に残っている痛みが俺を許してくれない。何を失ったって人生は馬鹿みたいに進んで行くんだな、と痛感する。無いことより有ることの方が辛く感じた。それから煙草が灰になって、十五分も経たないうちに日は沈んだ。今日も地球が動いていて、俺も俊平もその上で生きているんだと、思わされた。

 

「俊平。今夜はキャンプだぞ!」

 

「ここに泊まるの?」

 

「ああ、そうだ。テントを張るから荷物を運ぶのを手伝ってくれ!」

 

「わかった」

 

 公園の駐車場の直ぐ隣りに公衆便所があってそこから海までの間が松林だった。俺たちはそこにキャンプ用品を広げてテントを張ることにした。ランタン一つでは少し暗かったがなんとかテントを張る事が出来た。俊平はテントが出来ると中に入って楽しそうにした。俺はとりあえずトイレの横にある水道で飯盒に入れた米を磨ぎ、コンロで炊けるようにした。キャンプ場所に戻って飯盒を火にかけて、その間にクラーボックスから釣った魚を出してまな板の上で一匹ずつ捌いていった。全部魚を捌きべたべたの手を水道へ行って洗い流した。そのうちに飯盒の飯が炊けていい匂いがしてきたので、俺は逆さにして米を蒸らした。捌いた鯵は刺身とフライパンで素揚げにした。

 

「よし。俊平夕飯だ。手洗って来な!」

 

「わかったー」

 

 テントから出て俊平は水道へ駆けて行った。俺は飯盒から蒸らしたご飯を二人分盛り付けた。俊平が戻ってきたので箸を渡して二人で手を合わせてから食べ始めた。

 

「おいしい!パフが釣った魚?」

 

「そうだ!骨に気をつけろよ」

 

 本当に夢のような時間だった。波の音が聞こえ遠くに漁船の灯りが見えた。人気もなくここは間違いなくパラダイスだった。

 

「パフいつまで一緒にいられるの?」

 

 俺は急にそう言って来た俊平に驚いて言葉に詰まった。

 

「いつまでだろうなぁ。しばらくここに泊まったら離島にでも行ってみるか?」

 

「離島って?」

 

「島のことさ」

 

「近くにあるの?」

 

「ああ、そうさ。明日見に行ってみるか」

 

「うん。ねぇ、パフお母さんとお父さん心配してるかなぁ?」

 

「大丈夫さ。ここは夢の中さ。目が覚めたらちゃんと元の家に帰れるさ」

  

 俊平は俺から目を逸らして海の方を眺めた。俺が攫ったのを夢の中と言って誤魔化すのにも限界がある気がした。俊平を攫ったからと言って息子は戻って来ない。虚しさで出来た胸の穴を海から吹く風が抜けて行った。

 

「ご馳走さま」

 

 そう言って手を合わせると俊平は飯盒の皿を置いてトイレに向かっていった。洗い物を持って俺も俊平の後に付いて行った。

 

「もう、眠るか?俊平。ほれ歯ブラシ」

 

「うん。寝る」

 

 水道で俊平は歯磨きをしてからテントに戻って行った。俺は洗い物をしてから歯を磨いてトイレを済ましてからテントに戻った。椅子に座り波音を聞く。俊平は先にテントに入って眠ったようだ。俺は煙草に火をつけてから何となく海の方へゆっくりと歩いた。

 

 夜の海に沿ってただ一人砂浜を歩いた。思いつく限りの余計な思想が洗い流されて、気持ちはクリーンになった。俊平を連れていなければただの傷心旅行なのだが。俺は何の考えもなく犯罪に手を染めてしまった事を思った。刑務所とはどんな所だろう。今より辛いだろうか?このまま俊平を置き去りにして逃亡しようかとも考えた。いや、明日には自首しよう。それが一番いい。何かから逃げるのはもううんざりだ。俺は俊平に何かしてやれたんだろうか。あの年齢なら大人になった時には俺といたことは記憶にも残らないかもしれないな。そんな事を考えながら俺は砂浜を歩き続けた。

 

 そのうちテントの灯りが遠くなって見えなくなった。小説みたいに海で急に少女にばったりと会ったりしないかと思ったがそんなことは特別になくて、波打つ海だけがそこにあった。俺は海での記憶をいろいろ思い出した。元嫁とまだ子供が出来る前に旅行で行った海。大学の頃仲間内と遊びに行った海。小さい頃、両親とキャンプした海。記憶の中の海よりも実際の海は遥かにでかかった。前に海を見たのは俺の息子が生まれる前だから八年は海を見てなかった事になる。俺は今年で四十五になる。両親が死んでから家族は嫁と息子だけだったが、あれからいろいろ変わってしまったな。仕事ばかりで忙しかったからか。いいや、嫁が変わってしまったんだ。少なくとも嫁は俺の知ってる嫁じゃなくなってしまった。一人の人間があんな風に変わってしまうとは俺は思ってもみなかった。彼女は息子を段々と俺から遠ざけるようになって、気付いたら別居していた。俺の何が悪かったんだろう?考えれば考えるほどこの問いは俺を傷付ける。息子の顔が脳裏を過ぎる。俊平の笑顔と重なって俺は居た堪れない気持ちになった。そうして煙草をもう一本だけ吹かして、帰ることにした。

 

 二十分程して戻ると、テントでは寝息を立てて俊平が眠っていた。海を歩いて回想したからか、俊平のことを余計に愛おしく思えた。息子にはもう会えないだろうと言う気持ちと相まって、泣きそうになった。自分が精神的に不安定なのが良くわかった。どうして俺は一人でいるのがこんなに苦手なんだろう。俺以外の誘拐犯が子供を攫う目的はやっぱり金だろうか。それとも性的なものか。いいや、俺みたいに自分の孤独を埋められずに攫うやつもいるかもしれないな。考えてるのがそのうち馬鹿らしくなって俺も眠ることにした。眠ってる俊平とは今日だけは家族でいられる気がした。

 

 翌朝、テントの外から聞こえる軽快なリコーダーで俺は目が覚めた。まだ半分夢の中で、その愉快な音色が幻想的な夢を俺に見せたが目を覚ます頃にはその夢もすっかり忘れていた。テントから出ると目が開けられないくらい朝日が眩しかった。

 

「おはよう俊平。よく眠れたか?」

 

「おはようパフ。よく眠れたよ」

 

「そうか。コーヒー淹れるけど飲むか?」

 

「うん。飲んでみたい」

 

「お前は子供だからちょっとだけな」

 

 俺はヤカンに水を汲んで来てから火にかけてお湯が沸くのを椅子に座って待った。俊平がリコーダーを吹いているのを止めようと思ったが、周りに人気もないから叱るのをやめた。十分くらいでお湯が沸き、俺は粉のコーヒーをカップにドリップしていった。

 

 波の音は絶えず聞こえていて、キャンプしているうちにそれが段々と自然に鳴っているように感じていた。朝の海は遠巻きにも穏やかで、何だか気分がよかった。俺は淹れたてのブラックのコーヒーを俊平に渡した。

 

「ほら、熱いから気をつけろよ」

 

「ありがとうパフ」

 

 物珍しそうに俊平はコーヒーを口にした。すると思った通り顔を顰めた。

 

「パフ。苦いよ」

 

「これが大人の味さ。不味かったら全部飲まなくてもいいぞ」

 

 俺は煙草に火を付けた。朝の一本が青い煙になって立ち上っていく。昨夜、考えてた気持ちが焼き上がったお菓子みたいに形になっている感じがした。さよならの時が近づいていると思うとコーヒーの味が身に染みた。と言うよりその時間だけが長く感じた。走馬灯ってやつを体験したことはないけれど、ビデオのテープが伸びたような、スロー再生された時間だった。俊平はどう感じていたか知らないが、少なくとも俺にはそうだった。煙草が指先で灰になってくのを見ていた。

 

 それは突然やってきた。黒い二人組みの男だった。俺はあれこれ言い訳を考えたが思考が全く追いつかなかった。気付いた時には俺は俊平の首にナイフを突きつけて体を抱えていた。こんなつもりじゃなかったと言う気持ちが頭の中で嵐のように騒いでいた。二人組の男の一人が銃を構える。波の音が消えたみたいに辺りは静かに感じた。俺の目の前に立った男が声を上げる。

 

「刃物を捨てろ、撃つぞ、止まれ」

 

 やっと俺はその声を聞いて二人組の男が警官だと認識した。何もかも手遅れに感じた。

 

「いいか、銃を下ろせ。ガキがどうなってもいいのか?」

 

 若い男の方は俺の言葉に怯んだようだったが年配の男は今にも発泡しそうだった。じわじわと後退りしながら俺は車の方に向かって後退した。俊平はもがくこともなく俺に身を任せていた。

 

 車まであと数歩。

 空を切り裂くような銃声がした。

 俺は自分の左足を撃たれたことに気が付いた。

 瞬間、痛みで俊平を手から離してしまった。

 

「パフー!」

 

 蹌踉めきながらも俺は一人車に乗ってエンジンを回した。

 そして、アクセルを思いっきり踏んで車を出した。

 

 バックミラーを見てもパトカーは追いかけては来なかった。真っ先に俊平の保護が優先だったのだろう。俺は血塗れの左足を見て歯を食い縛った。最後の一本の煙草を咥えて吹かした。窓から流れる生温い風。夏が魔物のように俺を包んでいた。ナンバープレートを覚えられただろうからから車は乗り捨てないとまずいと思った。傷口に触れるとべっとりと血が付いた。俺はとりあえず人気のある所まで車を走らせた。

 

 海沿いに走り続けると鮮魚屋があった。駐車場には三十台以上の車が停まっていたからここなら身を隠せると思った。車を停めると涙が出ていた。両目からぼろぼろと、大雨の時の軒先きのようだった。もう俊平とも会えない事を俺は悟った。悲しさで左足の痛みもどうでも良くなった。二十分くらい泣き晴らしても世界は続いていた。車の中から辺りを見回すとトイレがあるのが見えた。

 

 世界中が敵に思えた。太陽ですら俺を睨んでいるような気がした。俺は人目に付かないようにさりげなくトイレに走った。中に入るとドアを閉めてトイレットペーパーで傷口の血を拭き取った。血で汚れたので履いていたジーパンはナイフで短パンにした。弾を取り出したかったが、映画の中で殺し屋が自分を手当てするようには上手くいかなかった。

 

 傷口にトイレットペーパーをぐるぐる巻きにしてトイレを出ると、俺は何を思ったか、とりあえず鮮魚屋の隅で蟹を食った。金はまだいくらかあったが、車を手放さないとならないと思うと厳しかった。どうにか車を盗もうと思って俺は考えた。しかし数分考えて、車を盗んでも持ち主が車種を警察に伝えたらそれも直ぐに捕まると思ったから、俺は自分の車を乗り続けることにした。俊平はもういないんだ。それにしても、昨日までは自首しようと思っていたのに、いざ警官に出会してみると、自分の取った行動は意に反するものだったから、俺は自分でも変な心境だった。

 

 蟹で腹を満たした俺は鮮魚屋を後にした。とりあえず煙草が吸いたかったからコンビニを探した。血が減ったからか、頭がぼーっとした。俊平と俺の別れは最悪だったな、と俺は思った。朝会ったばかりなのに上手く顔が思い出せなかった。もしかしたら、俊平はコーヒーを飲む度に俺を思い出すかもしれない。それとも、コーヒーを嫌いになっただろうか。俊平との三日間の思い出が頭の中を巡った。

 

 さっき鮮魚屋の駐車場で泣き晴らしたばかりなのに、涙がわっと出てきた。どうしてこんなに泣けるのか、一体今日までどれくらい泣いていなかったのか、考えたけれど思い出せなかった。こんなに不安な気持ちは今まで無かった。一番の支えを急に失ってしまって、気持ちに整理が付かなかった。涙で視界がぼやけた。それでも俺はハンドルをしっかり持って運転した。

 

 なんとかコンビニに辿り着いて俺は煙草を買った。車に戻って直ぐに煙草を開けて二本火を付けて吸った。頭にニコチンが行き渡ってぼーっとした。どうせ捕まるのが分かってたから缶ビールも買った。真っ昼間から俺は車の中で缶ビールを飲んだ。しばらくして酔っ払うと気持ちが楽になった。俺は俊平と話したように離島に行こうと思った。海沿いに沿って走ればきっと島があると思った。

 

 最後に俺を呼ぶ俊平の声を思い出した。俊平はきっとまだ俺と一緒にいたかったんだろうと思った。俊平の目にはあの光景はどう映ったのだろう。考えても意味のないことに気付かされて俺はまた少し泣いた。情けなくて歯を食い縛ったら、煙草が二本とも下に落ちた。煙草を拾う気にもなれなくて、ビールをごくんと俺は飲み干した。海の向こうに馬鹿みたいにでかい入道雲が浮いてた。悲しくて夏を恨んだ。エンジンを回してもう一本煙草を咥えた。くそみたいな気分で酔いが回っていて何もかもどうでもよくなっていた。

 

 俺はそれからただただ永遠のように続く海沿いの道を走った。青い海が太陽の光できらきらと光っていて目の端で眩しかった。涙も乾いて俺はやっと冷静?になれた気がしていた。

 

 ふと、俺は口ずさんだ。

 

 それは『パフ』の歌だった。

 

 俊平が歌っている所を思い浮かべながら、同じように歌った。

 

 ああ、これは哀しい歌なんだな、と歌いながら俺は思った。

 

 俊平が俺のことをパフだと呼んでいてくれたことを思い返した。

 

 もう一度、人生やり直そう。

 

 俺はそう思った。

 

 捕まって刑務所でちゃんと処罰を受けて自分と向き合おう。

 

 そう思った。

 

 

 空け払った車の窓からは俊平の嫌がった煙草の煙が夏の風に意味もなく溶けていった。

 

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パフと三日間の夢 @jjjumarujjj

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