第8話 『あまあまでヤンデレな尽くすタイプの世間知らず……!?』

「――知らない天井……ってわけでもないか」


 俺は腕の怪我を診てもらおうと、朝香さんと一緒に一輝さんの案内で病院へと移動して、いかにもヤクザなパンチパーマの医者による治療が終わった頃にはもう、何をする気力も残ってはいなかった。


 どうやら、医務室のベッドで治療のために横になるよう言われたときに一眠りしてしまったらしい。

 ぐっすりすやすや、デジタル時計は十九時過ぎを差していた。

 ふと左手に何かを握り込んでいることに気づく。

 この柔らかくてすべすべの温かみある感触は……。

 その正体に俺はそっと目をやった。

 

 ――そこには、心配そうな表情でこちらを見つめる朝香さんの姿があった。

 ただただ、こうしてずっと見られていたことに気恥ずかしさを覚えながら、


「……えーっと……おはよ?」


 いや、正しくは『こんばんは』だったか。

 しかし、それも違うような――。

 どちらにしろそんな間の抜けた挨拶に対して、朝香さんは――安堵したような笑みを浮かべながら、こくりと小さく頷いて応じてくれた。


 え……なに、わっつはぷん。


「今もしかして笑った……よね? 俺、何気に朝香さんのちゃんとした笑顔って初かもしれん――待ってくれ、やあっばい、めちゃくちゃかわいいだけど」


 興奮のあまり、口早にありのままを告げてしまったが、朝香さんはそれを聞いて一瞬考え込むような表情になり、照れてしまったのか恥ずかしいと言わんばかりに顔をうつむかせた。

 ……反応がかわいすぎるんだが?


 以前なら、心の臓まで凍るような眼差しを向けられたり、『ふざけないで』とか言われたりする場面のはずなのに――っ!?


 俺はあまりに愕然として間抜けにも口をポカンと開けて、彼女が平静を取り戻すまでただただかわいいを享受し続けていた。

 やがて彼女は正気を取り戻したのか、隣に置いてあった私物であろうボストンバッグからカロリメイトを取り出して、俺に渡してくれる。


「これ……どうぞ」

「あ、うん、ありがと」


 右腕がうまく動かず、袋を破きにくくてやっとの思いで、食べきる。

 

「ふう……」


 ――寝起きで口にするカロリメイトは格別に水分を奪っていくな……。

 ぱっさぱさの口内が、激しく水分を欲しがっているなか、目の前に差し出されるのはあらかじめ飲みやすいようにオレンジ色のキャップが外されたココア。

 

「ありがと、ちょうど水分が恋しかったところなんだよ」


 ボストンバッグの中ですっかり冷え切ったココアの喉越しがこれまたなんとも……。

 しかし、すべて朝香さんがくれた大事なプレゼント。

 泣いて喜びこそすれ、文句を言うなど言語道だ……ん?


「はい」


 差し出されたのは新たなカロリメイトのチョコ味。


「いや、こんなにたくさん、さすがに悪い……」


 いやちょっと待てよ?

 俺はなんとも嫌な予感がして、朝香さんが抱えている鞄の中身をおそるおそる覗いてみる。


 カロリメイトのチョコ味とカロリメイトのチョコ味とココアがいち、に、さん、し、そしてカロリメイトのチョコ味……。

 

 ぎっちぎちに詰まった、たった二種類の商品に俺は思わず唸り声を上げて、


「あの……朝香さん? これはえっと、もしかして――」

「お礼……のつもりだったんだけど――私ももらって嬉しかったから」

「なるほどなるほど、めっっっちゃくちゃ嬉しいです……けど、ということはつまり、俺があそこにいた意図は、その……伝わったってことで、おーけー?」


 聞いている傍からだんだんと自信がなくなっていって、徐々に声が尻すぼみになっていってしまう。

 それでも、目の前の女の子は真剣に聞き取ってくれて、二度、三度と頷いて見せてくれる。


「あの一輝って男から大体の話は聞いた。でも、やっぱりもう一度、落ち着いた今だからこそ聞きたいことがあるの――」


 珍しくとびっきりの長文を喋ってから一旦言葉を区切って、彼女は何度か深呼吸をする。

 そして――、


「あなたは……私を、助けようと思って、あんな危険な真似を……?」


 こわごわと吐息混じりにそんなことを訊いてくる彼女に、俺はどうしようもなく胸がいっぱいになった。

 以前は白黒をはっきりさせるかのような、一刀両断スタイルの口調だったのに……今はこちらをいたわるかのような気遣いが、言葉の端々に感じられるのだ。


「そう、だな。俺としちゃもっとスマートにかっこよく決めてヒーローさながらの立ち回りで行きたかったところなんだけど……そういうの、なんも考えつかなくて」


 言っていて悲しくなる。

 結局、自分はマンガやアニメの主人公にはなれないのだ。

 ――それなのに、朝香さんに釣り合うような存在になろうなんて……。


 しかし、朝香さんは首を振って、それを否定してくれる。


「ううん。そんなことない。あれで良かったと私は思う。どうせあのときの私に何言ったって聞き入れはしなかっただろうし。それにたぶん……」


 彼女はそこで口を噤んで、申し訳無さそうに顔を逸らす。


 あ、これ殺されてたな……っあぶねええええぇぇぇぇ。


 馬鹿正直に全部話していたら、今ここにいなかったと思うとかなり細い糸に頼った綱渡りだったことをひしひしと感じる。


「まあ、もう終わったことだし気にすんなって。それに今はこうして頷いてくれてるわけだし」

「うん……今はもう分かってる。あなたを信じてる。これからも何があっても、生涯あなたを信じ続けます。本当にありがとう」

「おふ……、どど、どういたしまして?」


 なにこの健気一筋な女の子。

 こんな真っ直ぐなセリフを、本人は奇をてらうことなく至って真面目に言っているのだから、変な吐息も漏れてしまうし、受け答えもブサイクになるだろうよ。


 そしてしばしの沈黙。

 気を紛らわすようなものは何もなく、ただ気まずさだけが部屋に漂うなか、不意に朝香さんが――、


「何か必要なものはない? 何でもいいの、正直に聞かせて?」

「正直に……か」


 さきほど絶大な信頼を誓われてしまった以上、お茶を濁すような発言ははばかられるというもの。


「お金……とか、かな?」


 我が家に不足しているもの、すべての欲を満たせる万能の品。

 それを聞いて、朝香さんはかつてないほどの笑顔を披露する。

 まさに光明ここに得たり! 閃いた! ――と言わんばかりである。


 何やらごそごそと自分の黒いジャケットの内側を漁りだし、俺の左手を取ってスッと数枚のカードを掴まされる。

 もう形状からして嫌な予感がした。


「これってもしかして――」

「うん……キャッシュカード」


 片手でずらっと広げてみること十数枚。

 大手銀行と都市銀行のカードが織りなす色調豊かな前衛芸術。

 

「暗証番号は1111」

「なんて脆弱性に富んだ四桁なんだ!? ……じゃなくて!?」


 慌てて突き返そうとして、ふと貧乏人の性なのか。

 良からぬ質問が頭をよぎってしまった。


「ちなみにこれ……全部でいくら?」

「えっと、たぶん8億くらい……あ、でも心配しないで! 海外にあと半分残ってるから。もちろん、それもあげられるやつ!」

「はちっっ!? じゅうろく!?」

「どうしたの? 汗びっしょりだよ、だいじょうぶ?」

 

 心拍数、呼吸数ともに上昇中の最中、こちらを心配する素振りを見せながら、ニコニコと覗き込んでくる女の子。

 そりゃたまらなくかわいいけども!

 彼女に対してはもちろん、今自分が手にしているキャッシュカード群に対しても震えが止まらない。

 今すぐこの指を開かねば……。


「うぐぅぅ――っっおおおおおぉぉぉっっ」


 俺はお断りの意思に反してまったく開かない左の指を、痛む右腕に無理をさせながら、丁寧に一本ずつ引き剥がしていくのだった。






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