第4話 『朝香さんの自宅訪問~三階共用廊下の段~』
「――これ空き部屋じゃないの?」
有栖という名のちんちくりんに言われた場所にたどり着いたものの……何号室なのかを聞いていなかった。
三階建てで年季の入った鉄筋コンクリートのアパート、そのポスト前で唸ること数分。
集合住宅用の郵便受けに挿してあるネームプレートのどこを見ても『朝香』の文字は見当たらず、三階にある三部屋すべてが空室なのか、名無しになっていた。
しかし――、
「あの朝香さんだもんなぁ……」
先の変人たちとの邂逅で、俺自身も変わり者であると気づいた次第だ。
当然、この三部屋は空室と考え、回れ右で引き返すのが妥当なこの現状においても、いずれかに朝香さんが住んでいるのではないかという気がしてならないわけで――、
「『わっ、会えて嬉しい! ちょうど織史くんの事を考えて……って私ったら何言って』テレテレ――みたいな出会いがあったり……」
「しないよなぁ」などと呟きつつ緊張を誤魔化しながら三階へと上がり、結局解けなかった緊張感で乾いた喉にドロっとまとわりつく生唾を飲んでドアホンを鳴らす。
ドア越しに聞こえる呼び鈴、またも訪れるもとの静寂。
……そもそも、不審者から聞いた情報を信じてこの場にいるってのがおかしいわけで――俺ってもしかして幼稚園児以下?
女の子との約束も満足に取り付けられず、怪しい人の言いなりになっている自分の滑稽さに短く、乾いた嘲笑が漏れる。
残り二部屋に希望を託して、次は隣の――、
「――両腕を広げて」
何の気配も、物音一つせずに突然、背後から声がかかった。
死んだと思った。
動きが止まり、呼吸が止まり――一拍遅れて振り返ろうとするも、身体は玄関ドアと背後に立つ女性の板挟みで十分に振り向けない。
とりあえず、言われた通りに両腕を肩の高さまで持っていき、ドアにべたりと付けてみせる。
そうしないと、先に進まない。それどころか先がない気がした。
しかし、冬の寒さに冷え切った金属扉に手を付いたおかげで、停止した思考も冷静さを取り戻す。
この声は昨日も聞いたものだ。
大丈夫、相手は分かっている。
「朝香さん……だよな?」
「いいから黙ってて!」
彼女の声は決して大きなものではなかったが、その指示に対して否定はもちろん、首肯すらさせてもらえないほどの強制力が感じられて、俺は口を噤むしかなかった。
「――っ!?」
数秒の沈黙ののち、肩から腕の線を白くて細い手がなぞっていく。
いや、脇は弱い……っ!? そんな、どこ触って……!?
上半身から下半身まで朝香さんの手がくまなく駆け巡る。
――これってボディチェックじゃないよな?
昨日の毒見といい、今日『視せられた』ものといい、いよいよ物騒な妄想が頭に浮かんでくるというもの。
「この硬いものは何? 何を仕込んでいるの?」
「――っ!?」
「喋っていいから、吐きなさい」
「――っ握らないでくれない!? 色々と、あの……ヤバいから!」
「質問にちゃんと答えて。でないと……」
「ちんっ……ペニス、だ」
「……そう」
逆セクハラ? 逆レイプ? 羞恥プレイ? 勃起の仕組みも分からない箱入りタイプ? ――っていうか昨日、目をまん丸にしてまじまじと見てたよね?
右往左往する思考の渦のなかでとにかく、一気に体温が上がっていくのを感じる。
「このメモと血の付いたハンカチは?」
ポケットから取り出されたクシャクシャのメモと血だらけのハンカチが白い手先とともに目の前に現れる。
「それは――俺が鼻血を出して、通りすがりにハンカチを貸してくれた人がいたから、洗って返そうと思って電話番号と名前を……」
丸っきり嘘というわけでもない。
それでも、咄嗟に出てきた言葉は本能的に朝香さんを騙すものだった。
今すぐにでも訂正したい衝動に駆られるが、自分の置かれた状況と身の安全のためにぐっと堪える。
「鼻の穴に固まった血が――嘘ではないようね」
「マジで!?」
めちゃくちゃ恥ずかしい。
中学生のときに鼻毛出てるよって言われたのと同じくらい恥ずかしい。
しかし、不幸中の幸いか。それ以上の追及を免れることはできた。
「とりあえず、ゆっくりと振り向いて」
注文通りに、忠実に、逆らわず、疑問も抱かず、極めて慎重に振り向く。
「うお――」
「腕も下ろして構わないわ」
タイトな黒のパンツ。底の厚い登山用のような重厚感のあるブーツを履いているせいか、ちょうど顔の前にはぴっちりと白いシャツに覆われて形の分かる胸の膨らみ。その上からボタンを一つ留めてスーツを着ているので、ウエストまでくっきり。体の線という線が浮き彫りになった――レディーススーツのような装いだ。
モデルも顔負けの体型美に思わず声も漏れるというもの。
――ボディチェックのお返しと言わんばかりに下から上へ。そして、朝香さんと顔を突き合わせた瞬間、
「――っ」
視姦まがいの視線が気に入らなかったのか、それはもう冷え切った目をしていた。
もとからこんな目だったような気もするが、この場においてその黒瞳がもたらすものは恐怖一色。
猛獣と対峙したときのように、ゆっくりと
「そういえば、どこから出てきたんだ?」
凍てついた沈黙から開放されたくて、俺は締まる喉から無理やり声を出そうと適当に話題を振ってみた。
返答のつもりか、視線だけがごくごく少しだけ動く。
その視線の先にはコンクリートでできた、胸ほどの高さまである手すり付きの塀のみ。
まさか塀の外側にぶら下がっていたなんてことはあるまい。
……ないよな?
「何の用?」
極めて一般的な質問。
しかし、自分の臆病さがその問いかけを尋問だと認識させる。
「あの、昨日! 約束しただろ?」
そう言って、すでに彼女の不審物チェックをパスした袋の――その中身を見せる。
それを見て、浅香さんの首が、デキモノ一つない綺麗なご尊顔が、こくりと微妙に傾いた。
「チーズ味とフルーツ味、メープル味も買ってきたんだけど」
「はぐっ――昨日と違う」
「あれ!? チーズ味が消えたんだけど……」
「これも違う……」
「もう一箱しか残ってない!? ……っていうか、もしかして昨日のチョコ味が食べたかったとか?」
「…………」
無言で最後の一箱を頬張りながら、これも違うのかと言わんばかりに首を傾げて、チョコ味をご所望の様子。
「あのなぁ……もう少しこう、ゆっくり味わったり、『べ、べつに気に入ってなんかないんだからね!』ってかわいげ見せたりしてくれても――」
深夜放送のアニメで見たようなキャラクターのセリフを交えてぶつぶつと言ってはみるが、想像どおりの反応でもあるのでそこまで残念ではなかった。
「まあ、そんだけ気に入ったんならこっちも嬉しいんだけどさ。口の中の水分消し飛んだだろ……これもやるよ」
最後に袋から、ここに来る直前の自販機で買ったココアを投げて渡した。
先のやり取りで少しヌルくなっていたそれを、朝香さんは半ば流される感じで受け取った。
飲んだことはおろか見たことすらないのか、カロリメイト同様、容器を見回して中身の液体を観察する朝香さん。
「また毒見するか?」
その様子を見て、俺は自ら毒見を申し出る。
あわよくば間接キ――
「いや、いい」
即答されてしまった……。
朝香さんはペットボトルを持った右手の親指と人差し指を使って、未開封のフタを開け、コクっと白い喉を上下させる。
いちいちかわいく見えてしまって身悶えしそうになるのだが――。
……えぇっと、握力どうなってんの?
「……あまい」
「そんな目を丸っこくして言われても、そういう飲み物だからな」
俺はその壊滅的な食レポを聞いて、朝香さんの食生活を心配する。
思えば、住んでいるところだって俺とさして変わらないボロアパート。
最初は大企業の令嬢か何かかと考えていたものだが、人は見た目によらないらしい。
「で、なぜここが分かったの?」
唐突に、朝香さんから核心を突いた問いが投げかけられる。
しかし、当然の疑問でもある。
ゆえに、俺は粘着ストーカーよろしくその回答を用意していた。
……俺ってそんなに粘着質かな?
「お前、今日の0時頃に昨日の通りで待ってただろ」
『中二病患いの少女に教えてもらってやって来た』なんて言えるはずもなく、俺は断腸の思いで自分をストーカーに仕立てて、聞いたままを語ってみせた。
それに対して彼女は息を呑むような、今までとは異なる反応を見せる。
しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの無表情へと戻り、疑問の解消へと乗り出す。
「後を――つけたの?」
「そういうことにな――っ!?」
突然、風切り音と微風が顔を撫で、眼前に映画でよく見る黒い筒状の先端が向けられていた。
俺は――人と話すときに目を逸らさないという立派な信条を掲げていたりする。
だから、朝香さんから目を離したつもりなんてなかったのに……。
――何一つ動作が見えなかった。
西部劇の抜き撃ちだって銃の残像が見えるのだ。つまりは彼女の動きが役者のにわか仕込みではないということに他ならない。
向けられたものが本物かどうかを疑うにはあまりに彼女のスキルが卓越していて、それこそが本物であるという担保になっている気がした。
だからこそ、俺は下げた腕をゆっくりと再度上げ直す。
「何の真似? 怖いの?」
「あ……たりまえ、だろっ」
「あなた『ほど』の人が?」
「朝香さんがいったい、どんな勘違いしてんのか知らないけどさ。少なくともこの世に生まれて平凡な十六年間で、銃口向けられるような人生は送ってこなかったな」
「……そう」
少し考え込んで、一応の納得を示してくれはしたものの銃口は依然こちらを向いたままだ。
「そう、だと……しても、これを見せた以上、あなたを生きて返すことはできない」
珍しく長文を喋ったな――なんて場違いな感想を抱いたり、『こういうこと』に慣れていそうな彼女が、俺の生殺与奪に悩むような素振りを見せてくれて嬉しくなったり、本当に俺っていうやつはどこかおかしくなってしまったらしい。
「安心しろ。誰にも言わない」
「そんなの信じられるわけない」
「んな悲しいこと――」
「第一、黙っているメリットがないわ」
「あー、そういうこと……あのな、損得じゃないんだよ。俺はさ、朝香さんの友だちだから」
願わくばそれ以上の関係を望んでいるんだけども、今言ったら身体に風穴が開きそうなので胸のうちに秘めておく。
「――? 私に『トモダチ』なんていない」
「うぐっ、結構胸に来た……けど、イントネーションの無茶苦茶な友だちをありがとう」
「本当に怖いの?」
心なしかトリガーにかかった指がわずかに動いた気がした。
怒ったんだと思い、また朝香さんの一面を知れて嬉しくなる一方で自分の
しかし、その脅しには答えず、
「だったら――これから友だちになればいいだろ」
朝香瑠衣という少女はよく驚く。
俺がしっかりエンターテイナーできてるってのが伝わって嬉しいよ。
「とにかく! 俺は朝香さんを信じてるから」
だから――。
俺は上げていた手を――下ろした。
「勝手なことしないで……。私に、撃たせないで」
「キミがそれで安心できるなら、いつも通りでいてくれるなら、一生手を上げていられるんだけどな」
「なら――」
「そんな辛そうな表情されるくらいなら、死んだほうが……良かないけど、いいよ」
「辛いなんて思うわけない」
「……そっか、じゃあ意外と表情に出るタイプなんじゃない?」
「……もう――いいわ」
張り詰めた緊張が一気に緩み、だらっと構えを崩して、彼女は根負けしたかのように、諦めたように吐き捨てた。
その言い方に俺は一抹の不安を覚えた。俺に向けてではなく、彼女が自身に向けて言ったような気がしたのだ。
その懸念を後押しするかのようにフラッシュバックするのは、先に見せられた彼女の最期。
「帰って」
「朝香さん……」
「早く」
「――分かった。また明日、学校で会おうぜ! チョコ味も持ってくるし……んでもって、できれば昼食とか一緒に食べてくれると嬉しい!」
「…………」
さりげないランチのお誘いも虚しく、無言で一番奥の部屋へと帰っていってしまった朝香さんを見て、今はこれでいいと思った。
死んでも――なんて言ったけど、前言撤回だ。
あの『慣れていそう』な朝香さんが死ぬ、そんな未来が本当にあるかもしれないと思ってしまったから。
思い立ったが吉日と勢いよくアパートを出た俺はスマホを取り出して、柚乃に電話をかけた。
「もしも――」
『ちょっと、お兄ちゃん? 今バイト中なんだけど……』
俺はバイト中、無理にでも出てくれる妹の存在に涙ぐみそうになる。
こんな良い子に朝食を抜かせてしまったのかと思うと、不甲斐なくて申し訳ない。
「悪い、じつは泊まりのバイト見つけてな。しばらく帰らないって伝えとこうかと」
『はぁ? なにそれ、漁船にでも乗るわけ?』
「あー、まあ違うけど、似たようなもんだな」
どちらかと言うと釣られた側だ、もちろん朝香さんに。
もう首ったけである。
『そんな無理しなくっても……。ごめん、柚乃が殴ったりしなきゃ……』
ヤバい、これ以上は話が余計にこじれてしまう。
「いや、そんなんじゃないから気にすんな。とりあえず謹慎明けまでには帰るから、留守番よろしくな?」
『おっ、お願いだから! ――怪我だけはしないでよね……医療費なんて出せないんだからね!』
「――っ!?」
貧乏系ツンデレ妹ここに極まれり。
妹じゃなかったら惚れてたよ。
「じゃあな。バイト、無理すんなよ」
『お兄ちゃんにだけは言われたくないんだけど……そっちもね』
「おう」
これが最期の言葉になるとも知らずに――。
……って右脳か左脳か知らんが縁起でもないナレーション付けないでくんない?
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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